入山瀬浅間神社 例大祭
富士市入山瀬の入山瀬浅間神社で10月11日、例大祭が行われた。氏子崇敬者や消防団、子供会など参列のなか神事が厳かに執り行われ、五穀豊穣や氏子の安全を祈願した。
入山瀬浅間神社は、富士郡下方(現富士市)に点在している古社5社「下方五社」のひとつ。鷹岡地区随一の古格の社であり、江戸期の例祭には駿河国惣社(静岡浅間神社)からも神職が参仕していた。
当日は、境内の弓道的場で弓道大会が行われ、相撲場やゲートボール場では子ども紐相撲や手相撲、年輩者による輪投げ大会を開催した。最後は拝殿前でなげ餅を行い、つめかけた大勢の地域住民で盛り上がりを見せていた。
寛文11年(1671)5月の『冨士六所浅間宮年中祭礼之大概』を引くと、このころ入山瀬浅間神社では正月、9月に大きな神事を行っていたらしい。次に列記する。
「正月十四日新宮社而奉射有的小的射手新福知宮之鑰取六所之宮両人而勤之大的射手役六所宮神主今宮之」
「九月十四日新福地宮之祭礼従府中聴守供僧其外社家来役相勤終同社之鑰取出之惣社社家饗有」
正月の奉射祭は、当社神職のほか下方五社の富士六所浅間神社、今宮浅間神社の神職が勤仕。さらに9月の例祭には、駿河国総社の静岡浅間神社(静岡市)から神職がはるばる参仕した。かなり大がかりな神事だったようだ。
また4・11月の「大宮神幸」では、駿河国惣社(静岡浅間神社)より国方奉幣使が参向した。この祭礼は一宮(浅間大社)と惣社をむすぶ駿河国の大祭礼であり、奉幣使たちは富知六所浅間神社で神事後、当社でも神事を行い、その後浅間大社で奉幣した。当社が駿河国および富士郡において重要な立場にあったことを示している。
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Tag ⇒ 神社 富士市の神社 鷹岡地区 入山瀬 入山瀬浅間神社 浅間信仰 下方五社 富士山東泉院
Entry ⇒ 2010.10.14 | Category ⇒ まつり
日吉浅間神社 春季大祭
富士市今泉の日吉浅間神社で5月4日、春季大祭「流鏑馬祭」が行われた。神事のほか、神門前で奉納弓道大会が厳かに開かれ、集まった氏子たちが温かく見守っていた。
午前11時、神官・氏子・弓道協会射手が集い、神殿で神事を執り行った。役員は烏帽子・直垂をまとい、氏子は揃いのはっぴ姿。神事に続き境外社の和田義盛神社を参拝し、直会となった。
また、神門前広場では恒例の弓道大会が開かれた。かつて行われていた流鏑馬の名残をとどめるため、弓道協会によって奉納されている。厳粛な雰囲気のなか、胴着・袴に身を包んだ老若男女の射手が独特の間から矢を放った。約28m離れた的に命中すると、見守っていた氏子から拍手と歓声が上がった。(→07年版)
江戸期までは、「下方五騎」により流鏑馬が奉納されていた。これは富士山本宮浅間大社の五月会流鏑馬神事につらなる神事だった。
浅間大社の五月会流鏑馬神事は、4月29日鈴川海岸での浜下り(身禊)にはじまり、富士郡一円の関連各社で流鏑馬を奉納し、5月5日浅間大社の流鏑馬神事で締めくくられた。
射手は「上方五騎」「下方五騎」「加島五騎」の計15人が担当。「上方五騎」は富士郡上方庄に点在する浅間大社摂社(若宮八幡宮、若之宮、山宮、金之宮、富知神社)を担当し、「加島五騎」は同郡加島の米之宮浅間神社、「上方五騎」は同郡上方庄の下方五社を担当。それぞれの社で流鏑馬を行ったのち、浅間大社に15騎が集った。
なお、流鏑馬料は浅間大社大宮司領から出されたが、日吉浅間神社をふくむ下方五社は富士山東泉院管掌だったため、下方五社における流鏑馬は東泉院が主催した。浅間大社は流鏑馬料こそ出したものの、いわば管轄外だった。
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Tag ⇒ 神社 富士市の神社 今泉地区 今泉 浅間信仰 日吉浅間神社 義盛神社 富士山東泉院 下方五社 浅間大社
Entry ⇒ 2009.05.04 | Category ⇒ まつり
富知六所浅間神社(三日市浅間神社) 例大祭
「岳南総鎮守」として崇敬されている富知六所浅間神社(三日市浅間神社)の例大祭が5月3日、同社神殿で行われた。大勢の氏子・関係者参列のなか、神事が古式にのっとり厳かに執り行われた。
富知六所浅間神社の祭祀はかつて年75度行われていた。うち就中武射神事・柴祭(4月・11月)・流鏑馬神事・重陽月待祭を「五大祭」と称し、最重要神事に位置付けていた。
また4・11月の大宮神幸では駿河国惣社(静岡浅間神社)より国方奉幣使が参向。当社で神事後、富士山本宮浅間大社で奉幣し、帰路ふたたび当社で奉幣した。当社が富士郡のみならず、駿河国における祭祀で重要な立場にあったことを示している。
祭儀は明治初年の制度改正にともない一新され、かつての流鏑馬神事がこんにちの例大祭となった。流鏑馬は古来、浅間大社五月会でも射手もつとめた下方五騎・加島五騎によって奉納されたが、明治維新後に廃絶。現在は神事のみとなっている。
当日は午前10時から約1時間、神職9人、氏子総代・商工業関係者100人余り参列のもと、神殿で神事を執り行った。また、歩行者専用となった社前通りおよび境内には多数の露店が軒を連ね、家族連れの参拝客などで賑わいをみせた。
なお、旧地名の「三日市場」は、神事日に「市」が立ったことに由来するという。
Tag ⇒ 神社 富士市の神社 伝法地区 浅間本町 富知六所浅間神社(三日市浅間神社) 浅間信仰 下方五社 富士山東泉院 式内社 流鏑馬
Entry ⇒ 2009.05.03 | Category ⇒ まつり
入山瀬浅間神社
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市入山瀬字久保上344 | ||
主神 | 木花之佐久夜毘賣命 | 配神 | 高龗神 金山神 |
創建 | 不詳 | 例祭 | 10月10日 |
社地 | 2,134坪 | 神紋 | 棕櫚の葉、桜(幕) |
社格 | 旧村社 | 備考 | 社叢(市保存樹林) |
神徳 | 神徳氏子安泰・家内安全・厄除開運・交通安全ほか | ||
交通 | 交通JR入山瀬駅より徒歩7分 駐車場有 |
"紙のまち富士市"勃興の地、入山瀬に鎮座している浅間神社で、俗に「入山瀬浅間神社」。旧鷹岡町随一の古格な社であり、入山瀬の地名は免税地(神領)を意味した不入斗がなまった、ともいわれる。こんにちは一帯の産土神として親しまれている。
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富士郡下方(現富士市)に点在している下方五社の1社にして、『駿河国神名帳』に列する「正三位浅間御子明神」と目される古社。往古は「新福地」と号し、「新福地宮」「新福地浅間社」などと称された。
創祀年代は詳らかでないが、別当だった富士山東泉院の『東泉院御由緒書』によれば、大同元年(806)に下方五社が再建され、このとき大般若経が奉納されたと伝えられる。
下って鎌倉期、日秀の弟子に「熱原新福地神主」の名がみえる。日秀は日蓮宗の僧で、日蓮・日興の高弟である。熱原は富士市入山瀬や厚原など一帯に比定され、当時日秀は入山瀬付近にあった天台宗滝泉寺に住して日蓮法華を布教していた。
先に触れたように当社の旧称は「新福地」であるから、「熱原新福地神主」は当社神人に相違ない。神仏習合が普通だった往時、神主―あるいは社僧―が僧の弟子となっても不思議はなく、ひいては日蓮法華がすさまじい勢いで当地に浸透していたことをうかがわせる。
なお当社はかつて、応永2年(1395)銘の鰐口を所蔵していた。ここからも神仏習合の一端を垣間見ることができる。
中世になると、「下方五社」「五社浅間」などの名称で多くの史料に現れる。下方五社は、富士郡下方(現富士市)に点在している有力神社5社の古い総称である。富士山東泉院が5社の総別当職を世襲し、神領や社殿の維持管理、祭祀権を握っていた。
下方五社は駿河国主今川氏からあつく崇敬された。古い記録をみると、今川氏親が16世紀前半、「日吉宮(日吉浅間神社)」の再建に尽くした東泉院をわざわざ称えている。さらに今川義元は5社の社殿修理分として米・銭を寄進し、今川氏真も富士川以東における勧進活動の独占権などを与え、下方五社・東泉院を庇護した。
16世紀中ごろの東泉院および下方五社の知行高は、米方360俵、代方58貫文。下方五社に社人を5人ずつ配属し、東泉院には院主や学頭僧、宮僧5人がつとめていた。
豊臣秀吉は天正18年(1582)12月28日、東泉院に下方五社別当領として190石の朱印地を認めた。この朱印高は徳川政権下も同様に継承されている。富士郡下で3桁の朱印高を有したのは、別当東泉院、富士山本宮浅間大社、村山三坊のみであった。
なお、これらは表高であり、内高は新田開発を積極的に推し進めた結果、享保14年(1729)の検地で600石へ著増。寛保年中(1741~44)の調査では、朱印地そのほか含め808石、さらに別当領66石を有していたという。
寛文11年(1671)5月の『冨士六所浅間宮年中祭礼之大概』を引くと、このころ入山瀬浅間神社では正月、9月に大きな神事を行っていたらしい。次に列記する。
「正月十四日新宮社而奉射有的小的射手新福知宮之鑰取六所之宮両人而勤之大的射手役六所宮神主今宮之」
「九月十四日新福地宮之祭礼従府中聴守供僧其外社家来役相勤終同社之鑰取出之惣社社家饗有」
正月の奉射祭は、当社神職のほか下方五社の富士六所浅間神社、今宮浅間神社の神職が勤仕。さらに9月の例祭には、駿河国総社の静岡浅間神社(静岡市)から神職がはるばる参仕した。かなり大がかりな神事だったようだ。
また4・11月の「大宮神幸」では、駿河国惣社(静岡浅間神社)より国方奉幣使が参向した。この祭礼は一宮(浅間大社)と惣社をむすぶ駿河国の大祭礼であり、奉幣使たちは富知六所浅間神社で神事後、当社でも神事を行い、その後浅間大社で奉幣した。当社が駿河国および富士郡において重要な立場にあったことを示している。
明治初期、政府は神仏判然令を発した。これを受けて東泉院住職は復飾、六所氏を名のって神官となり、下方五社の各社は仏教色を取り除いて神道へ復した。当社は社名を「浅間神社」と定め、同8年2月に村社へ列格した。
大正4年に拝殿を改築し、昭和29年に忠霊塔や鳥居を建立。同43年には拝殿・本殿を現在の鉄筋コンクリート製に改めた。
別当東泉院の『東泉院御由緒書』には、おおむね次のように記されている。
「大同元年(806)に5社の社殿を造営したさい、平城天皇から唐本大般若経や行基作の本地仏が寄進され、のち嵯峨天皇から空海作の五大尊不動明王が寄進された。嵯峨天皇のころから年2度の勅使下向が始まり、南北朝のころ一時中断したが、駿河国主の今川範国が勅使代として復活させた。5月の神事では、1~3日にかけて父宮、母宮、六所浅間宮で10騎による流鏑馬を執行する」
唐本大般若経や本地仏、五大尊不動明王は『富士山大縁起』にも記述があるものの、残念ながら散逸している。祭礼に関しては先に触れたように、明治維新まで駿河国惣社(静岡浅間神社)より国方奉幣使が参仕し、奉幣していた。
中世後期以前の内容と考えられている『富士山大縁起』の「五社記」には、
一 | 日吉宮 | 卯日 | 八幡 金色幡 朝日 |
二 | 新宮 | 辰日 | 愛鷹 赫夜妃誕生之処 |
三 | 今宮 | 巳日 | 犬飼神 |
四 | 六所宮 | 午日 | 浅間 惣社 |
五 | 新福地宮 | 申日 | |
同 | 大宮 | 申日 | (※備考:金剛界 千手観音) |
山宮 | 未日 | (※備考:不動尊) |
とある。これは、4月・11月の神事順を示している。日吉=日吉浅間神社、新宮=瀧川神社、今宮=今宮浅間神社、六所宮=富士六所浅間神社、新福地宮=入山瀬浅間神社を指し、大宮は富士山本宮浅間大社、山宮は山宮浅間神社を指す。日吉から山宮まで、繋がりある神事として行なわれていたようだ。
続いて、次のように列記されている。これは下方五社の本地仏を示しており、当社の本地仏は薬師如来とされていたことがわかる。
日吉本地 | 浅間宮 | 八幡宮 愛鷹宮 |
阿弥陀 観音 勢至 |
新宮本地 | 初名新山今名 愛鷹山新宮 |
毘沙門 千手 薬師 | |
今宮本地 | 初名今山今名愛鷹山今宮 (※『富士山大縁起抜書』) |
不動 薬師 | |
六所本地 | 惣宮 | 金剛界大日 | |
新福地本地 | 福地宮 浅間宮 |
薬師 |
JR入山瀬駅から徒歩6~7分。住宅街ただ中の神域は、イチョウやモチノキ、スダジイなどの古木に覆われて落ち着いた雰囲気。それにけっこう広い。一角に弓道的場や土俵、ゲートボール場が設けられ、さらに旧鷹岡町づくりセンターや浅間保育園を併設している。
鳥居をくぐると緩やかな傾斜の参道がのびる。枝葉が空を隠し、昼なお暗い。左手に弓道的場、右手に豊かな水をたたえた神池があり、参道の奥に社殿が鎮まっている。白と朱で塗り分けられた大ぶりな拝殿と本殿。社叢の外観からは思いもしない鮮やかな色彩だ。
現社殿は昭和43年に改築された。拝殿は入母屋造り、本殿覆屋は流れ造りで、いずれも鉄筋コンクリート製。棟札をみると昭和39年に地鎮祭、同43年4月27日に浅間大社で御神鏡入魂式を行い、翌日、御霊渡御・御神鏡神殿奉遷および遷座奉祝大祭を行っている。
社殿右隣には忠霊塔がたつ。多宝塔風の鉄筋コンクリート製の塔だ。市内唯一の仏塔ではなかろうか。もっとも、中央部が方形で、さらに材ひとつひとつが大きく、正統な多宝塔と比べ優美さは欠く。この塔には、満州事変以降の旧鷹岡町出身戦没者349柱が祀られている。
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Tag ⇒ 神社 富士市の神社 鷹岡地区 入山瀬 入山瀬浅間神社 日秀 浅間信仰 下方五社 富士山東泉院 駿河国神名帳
Entry ⇒ 2008.04.11 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市
今宮浅間神社のスギ
◇・・・今宮浅間神社(富士市今宮)の深閑とした鎮守の森に、ひときわ立派な木がそそり立っている。市指定天然記念物の大杉だ。
◇・・・案内板によれば、樹高35m、目通り4.88m、枝張り東西10m、南北10m。老木である。地上約4mから太い枝がのびて│┘のようになり、上空を見上げると2本の杉が並んでいるかのよう。
◇・・・なお神社の鳥居脇に大きな株跡が残る。ここにはかつて樹齢400年といわれた「鳥居杉」があった。風格ある大木だったが、昭和34年の台風によって惜しくも根元から折れてしまった。
Tag ⇒ 神社 富士市の神社 今泉地区 今宮 浅間信仰 今宮浅間神社 下方五社 富士山東泉院
Entry ⇒ 2008.04.07 | Category ⇒ 古木
今宮浅間神社
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市今宮字西村387 | ||
主神 | 木花之佐久夜毘賣命 | 配神 | 阿波乃咩命 |
創建 | 伝:貞観6年(864) | 例祭 | 5月2日 |
社地 | 5,030坪 | 神紋 | 丸に棕櫚の葉 |
社格 | 旧村社 | 摂末 | 氷川神社、山神社4社 |
備考 | スギ(市天然記念物)、社叢(市保存樹林) | ||
神徳 | 安産・子宝・火難除けほか | ||
交通 | 東名高速・富士ICより北東5km 駐車可能 |
富士郡下方(現富士市)に点在している下方五社の1社にして、今宮・神戸・一色の産土神。富士山を崇める浅間信仰の古社で、江戸期までは「今宮」「今宮浅間宮」などと号した。また竹取の嫗をまつるという縁起もあり、別に「母宮」とも雅称された。
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貞観6年(864)の富士山大噴火のさい、多量の焼石が集落へ迫った。これを受けて官人が浅間大神(富士山の神)に祈念したところ、焼石の流れは現社地で停止。人々は大神の加護に感謝し、社を建てて奉斎した、と社伝は記す。一方、別当・東泉院の『東泉院御由緒書』によれば、大同元年(806)に下方五社の社殿が営まれ、平城天皇から唐本大般若経や行基作の本地仏が寄進されたとある。
縁起の真偽は別としても、その古さに疑いようはなく、『駿河国神名帳』にみえる「正三位十八所浅間御子明神」の1柱と目されている。またかつては摂社40社を管掌し、安倍郡服織庄(現静岡市)にも神領を有した大社だったといい、社前に神宮寺を備え、本地の薬師如来を祀った。この薬師像は三河国鳳来寺の本尊と同木と伝えられる。
中世、今宮浅間神社をふくむ下方五社は、別当富士山東泉院管理のもと駿河国主今川氏からあつく崇敬された。ことに今川義元は5社の社殿修理分として米・銭を寄進したほか、富士川以東における勧進活動の独占権を与えるなど下方五社・東泉院をあつく庇護。その子氏真も先例に準じて保護している。
ただ、今宮は天文6年(1537)2月、甲斐武田氏と相模北条氏による兵火で神宮寺ともども焼失した。のち神社のみ再建されたものの、永禄12年(1569)武田信玄の駿河侵攻による兵火でふたたび焼失。社勢は大いに衰えた。結局、神宮寺は再建されることなく、本地の薬師如来像は東泉院に移されたという。
豊臣秀吉は天正18年(1582)12月28日、東泉院に下方五社別当領として190石の朱印地を認めた。この朱印高は徳川政権下も同様に継承された。富士郡下で3桁の朱印高を有したのは、別当東泉院、富士山本宮浅間大社、村山三坊のみであった。
なお、これらは表高であり、内高は新田開発を積極的に推し進めた結果、享保14年(1729)の検地で600石へ著増。寛保年中(1741~44)の調査では、朱印地そのほか含め808石、さらに別当領66石を有していたという。
史料に目を移すと、地誌『駿河記』に「号母之宮 所祭犬飼明神也 鍵取川口喜内」「富士五社の其一なり」「年に五度の祭礼、流鏑馬祭を大祭とす」「社中に薬師如来の木像を配祀す(中略)但古像は東泉院に安じて、今祠中に配するは新像なり」などと詳しく載る。
特筆すべきは「母之宮」「犬飼明神」のくだり。詳細は後述するが、今宮浅間の祭神を「竹取の嫗」(『竹取物語』のおばあさん)とする縁起があり、母之宮の号はこれに由来する。そして犬飼明神の神名は、一説におばあさんが犬を飼っていたことによる、という。
棟札は散逸しているが、記録によれば宝永元年(1704)、同4年、宝暦4年(1754)、安永元年(1772)に社殿を改築した。富士山噴火や台風による倒木を受けての改築が主だったようだ。安永元年の社殿は、拝殿4間×2間半、本殿覆屋2間半×3間半で、拝殿から本殿覆屋のあいだに3間の太鼓橋を設けていたらしい。
また社殿のかたわらに宝暦3年(1753)の石灯籠があり、「今宮浅間宮」「施主 今宮村 神戸村 一色村 氏子中」の銘がある。この3か村の産土神として崇敬されていたことを示している。
明治初期、政府は神仏判然令を発した。これを受けて東泉院住職は復飾して六所氏を名のり、神官となった。下方五社は仏教色を取り除いて神道へ復し、今宮浅間は村社に列した。
なお、同じ下方五社の富知六所浅間神社や瀧川神社が郷社に列したことから、今宮浅間も「郷社が妥当」と上申したものの、乏しい財力が枷となり認められなかったという。
明治39年の記録によれば、当時は境内地697坪、拝殿4間半×2間半、雨覆2間2尺×3間4尺5寸、本社4尺8寸四方の規模で、氏子は185戸。ほかに境外所有地として田4反4畝17歩、宅地4畝24歩、山林1町4反6畝9歩があった。
下って昭和7年に本殿および覆屋(2間3尺×3間3尺)を改築し、昭和55年7月には拝殿(4間×2間半)改築した。
別当東泉院の『東泉院御由緒書』には、おおむね次のように記されている。
「富士山は三国無双の名山にして国家擁護の霊神ゆえ、浅間宮を数か所に祀って祈祷する必要がある。東泉院が別当をつとめる五社浅間のうち、父宮、母宮、六所浅間宮は富士浅間赫夜姫誕生地により、これを祀る」
中世から江戸初期、浅間神社の祭神(=富士山の神)は「赫夜姫」と考えられた。『竹取物語』のかぐや姫である。中世にさかのぼる『神道集』『富士山大縁起』『源氏物語提要』などに記述がみえ、広く知られていた説らしい。こんにちのように富士山の神=木花之佐久夜賣命が定着したのは、江戸中期以降のことだった。
『東泉院御由緒書』もそれを踏襲し、富知六所浅間の祭神をかぐや姫とし、瀧川神社を竹取の翁を祀る社=父宮、今宮浅間を竹取の嫗を祀る社=母宮と表記している。ほか、地誌『駿河記』などにも「号母之宮」と注記があるから、この縁起は割と流布されていたようだ。
『東泉院御由緒書』は続いて、
「大同元年(806)に5社の社殿を造営したさい、平城天皇から唐本大般若経や行基作の本地仏が寄進され、のち嵯峨天皇から空海作の五大尊不動明王が寄進された。嵯峨天皇のころから年2度の勅使下向が始まり、南北朝のころ一時中断したが、駿河国主の今川範国が勅使代として復活させた。5月の神事では、1~3日にかけて父宮、母宮、六所浅間宮で10騎による流鏑馬を執行する」
と記す。唐本大般若経や本地仏、五大尊不動明王は『富士山大縁起』にも記述があるものの、残念ながら散逸している。祭礼に関しては実際、明治維新まで駿河国惣社(静岡浅間神社)より国方奉幣使が参仕し、奉幣していた。
中世後期以前の内容と考えられている『富士山大縁起』の「五社記」には、
一 | 日吉宮 | 卯日 | 八幡 金色幡 朝日 |
二 | 新宮 | 辰日 | 愛鷹 赫夜妃誕生之処 |
三 | 今宮 | 巳日 | 犬飼神 |
四 | 六所宮 | 午日 | 浅間 惣社 |
五 | 新福地宮 | 申日 | |
同 | 大宮 | 申日 | (※備考:金剛界 千手観音) |
山宮 | 未日 | (※備考:不動尊) |
とある。これは、4月・11月の神事順を示している。日吉=日吉浅間神社、新宮=瀧川神社、今宮=今宮浅間神社、六所宮=富士六所浅間神社、新福地宮=入山瀬浅間神社を指し、大宮は富士山本宮浅間大社、山宮は山宮浅間神社を指す。日吉から山宮まで、繋がりある神事として行なわれていたようだ。
続いて、次のように列記されている。これは下方五社の本地仏を示している。
日吉本地 | 浅間宮 | 八幡宮 愛鷹宮 |
阿弥陀 観音 勢至 |
新宮本地 | 初名新山今名 愛鷹山新宮 |
毘沙門 千手 薬師 | |
今宮本地 | 初名今山今名愛鷹山今宮 (※『富士山大縁起抜書』) |
不動 薬師 | |
六所本地 | 惣宮 | 金剛界大日 | |
新福地本地 | 福地宮 浅間宮 |
薬師 |
今宮浅間神社を「今宮 巳日 犬飼神」とし、その本地仏は「初名今山今名愛鷹山今宮 不動 薬師」と載せている。
「巳日」は祭日。「犬飼神」は祭神であり、縁起では竹取の嫗を指す。つまり今宮浅間は、竹取の嫗を犬飼神として祀り、その本地仏は不動尊と薬師如来だった。先に触れた『東泉院御由緒書』の「母宮」は、この竹取の嫗に由来する。
東名高速・富士ICから北上することおよそ5km。愛鷹山西麓の閑境の地に、山林に抱かれた社がひっそりと鎮座している。在所は「大淵丸尾」と呼ばれる富士山溶岩流の跡にあり、そこかしこに溶岩石とおぼしき石が露出。なるほど、浅間の神を祀るに格好の場である。
昔は神戸に一の鳥居があったもののいつしか廃され、いまは神域南辺―県道ぞい―の鳥居が聖俗の境。その鳥居の傍らには朽ち木の根元がある。かなり大きい。昭和34年の台風で倒れた鳥居杉の名残で、古写真にはまことにたくましい幹の大杉がおさめられている。
鳥居をくぐって樹陰の参道を歩き、奥のいびつな石段を上りつめると端正な社殿につく。拝殿は昭和55年、本殿覆屋は昭和7年に改築された木造建築。本殿左右の石灯籠と手水舎の水盤は宝永3年(1706)奉献と古く、拝殿前には大正12年生まれの狛犬が座る。
社殿の後ろには深閑とした杉林がひろがる。ほどよく手入れされた美林であり、重須本門寺とならび富士地域で最も姿のいい社寺林だ。全体的にまだ若い木が多いものの、中には市天然記念物の大杉もある。時おり霧がかかり、その情景はまことに神寂びていて美しい。
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5社鎮座している。
社殿西隣に須佐之男命・稲田姫命・大己貴命をまつる末社の氷川神社。大正14年7月の改修記録が残る。
社殿東隣には石祠4基。いずれも大山祇命を祀る山神社で、字西村(2社)、字東村、字片蓋に鎮座していた社を明治44年に合祀した。ただし一部資料によると祠のひとつは地神社(旧地/字西村529番地)で、字片蓋の山神社は他所にあるという。
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寛文11年(1671)5月の『冨士六所浅間宮年中祭礼之大概』を引くと、このころ今宮浅間神社では正月、4月、5月、11月に大きな神事を行っていたらしい。次に列記する。
「正月十五日今宮社而奉射有的小的射手役今宮之鑰取六所之鑰取両人而勤之大的射手役六所宮神主今宮之」
「四月巳日今宮之祭礼神供御幣同社鑰取勤之」
「五月会祭礼 二日今宮社之祭礼流鏑馬有御幣役鑰取宮仕勤之大名役劔太夫御子新三郎供僧惣社家中勤之其外役数多有之」
「霜月祭礼之作法四月同」
上記のうち「五月会祭礼」は、富士山本宮浅間大社の流鏑馬祭と繋がりのあった祭礼で、東泉院主催のもと流鏑馬が奉納された。射手は「下方五騎」がつとめ、流鏑馬料55石5斗は浅間大社が負担した。なお、東泉院主催による今宮浅間神社の流鏑馬は明治期に途絶え、以降は氏子によって維持されていたが、昭和30年代、馬の減少にともない廃絶してしまった。
8月13日に今宮火祭りを催す。
江戸期、村に火災が続いたため火災防止を祈念して奉納した、あるいは水不足のとき火災防止を祈念したことが始まり、などと伝えられる。ロープに縛りつけた松明を円や8の字にまわし、火災防止や無病息災を祈念。盆の風物となっている。
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Entry ⇒ 2008.04.04 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市
瀧川神社
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市原田字滝川1309 | ||
主神 | 木花之佐久夜毘賣命 | 配神 | 深淵之水夜礼花神 |
創建 | 伝:孝霊天皇御代 | 例祭 | 5月1日 |
社地 | 1,817坪 | 神紋 | 丸に棕櫚の葉 |
社格 | 式内論社(小) 旧郷社 | 摂末 | 山神社 |
備考 | 社叢(市保存樹林) | 神徳 | 安産・子宝・火難除けほか |
交通 | 岳南鉄道比奈駅より徒歩13分 駐車場無 |
富士郡下方に点在している下方五社のひとつで、原田・今泉・吉永・須津の旧郷社。富士山を崇める浅間信仰の古社であり、江戸期まで「新宮」「原田浅間宮」「富士浅間社」などと号した。また竹取の翁をまつるという縁起もあり、別に「父宮」とも雅称された。
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伝承によると、第7代孝霊天皇の御代(前290~215)に富士山噴火を鎮めるべく創祀され、第12代景行天皇の御代(71~130)日本武尊が東征のさいに参拝したという。『延喜式』神名帳の「富知神社」にあてる説があり、また『駿河国神名帳』にみえる「正三位十八所浅間御子明神」の1社ともいわれる。
別当・富士山東泉院の『東泉院御由緒書』によれば、大同元年(806)に社殿が営まれ、平城天皇から唐本大般若経や行基作の本地仏が寄進された。また源頼朝の崇敬あつく、治承4年(1180)富士川の戦いに際し戦勝を祈願、建久4年(1193)富士の巻き狩り時には黄金の玉を奉納したと伝えられる。黄金の玉は約5寸あり、2重の箱に納められていたものの、明治初年の混乱期に紛失した。
中世になると、「下方五社」「五社浅間」などの名称で多くの史料に現れる。下方五社は、富士郡下方(現富士市)に点在している有力神社5社の古い総称である。富士山東泉院が5社の総別当職を世襲し、神領や社殿の維持管理、祭祀権を握っていた。
下方五社は駿河国主今川氏からあつく崇敬された。古い記録をみると、今川氏親が16世紀前半、「日吉宮(日吉浅間神社)」の再建に尽くした東泉院をわざわざ称えている。さらに今川義元は5社の社殿修理分として米・銭を寄進し、今川氏真も富士川以東における勧進活動の独占権などを与え、下方五社・東泉院を庇護した。
豊臣秀吉は天正18年(1582)12月28日、東泉院に下方五社別当領として190石の朱印地を認めた。この朱印高は徳川政権下も同様に継承された。富士郡下で3桁の朱印高を有したのは、別当東泉院、富士山本宮浅間大社、村山三坊のみであった。
なお、これらは表高であり、内高は新田開発を積極的に推し進めた結果、享保14年(1729)の検地で600石へ著増。寛保年中(1741~44)の調査では、朱印地そのほか含め808石、さらに別当領66石を有していたという。
寛文11年(1671)5月の『冨士六所浅間宮年中祭礼之大概』を引くと、このころ瀧川神社では正月、4月、5月、9月、11月に大きな神事を行っていたらしい。次に列記する。
「正月十四日新宮社而奉射有的小的射手役新宮之鑰取六所之鑰取両人而勤之大的射手役六所宮神主今宮之」
「四月辰日新宮之祭礼神供御幣同社鑰取勤之」
「五月会祭礼 朔日新宮之祭礼流鏑馬有御幣役鑰取宮仕勤之大名役劔太夫御子新三郎供僧惣社家中勤之其外役数多有之」
「九月十一日新宮之祭礼」
「霜月祭礼之作法四月同」
うち「五月会祭礼」は、富士山本宮浅間大社の流鏑馬祭と繋がりのあった祭礼で、東泉院主催のもと流鏑馬が奉納された。射手は「下方五騎」がつとめ、流鏑馬料55石5斗は浅間大社が負担した。なお、瀧川神社の流鏑馬は明治期に廃絶している。
明治初期、政府は神仏判然令を発した。これを受けて東泉院住職は復飾して六所氏を名のり、神官となった。下方五社は仏教色を取り除いて神道へ復し、当社は明治6年5月に「滝川神社」へ改称、同8年2月に原田・今泉・吉永・須津の郷社となった。
大正4年に本殿や拝殿を改築、昭和49年に大昭和製紙の齊藤了英氏の寄進により拝殿・幣殿を鉄筋コンクリート製に改めた。
別当東泉院の『東泉院御由緒書』には、おおむね次のように記されている。
「富士山は三国無双の名山にして国家擁護の霊神ゆえ、浅間宮を数か所に祀って祈祷する必要がある。東泉院が別当をつとめる五社浅間のうち、父宮、母宮、六所浅間宮は富士浅間赫夜姫誕生地により、これを祀る」
中世から江戸初期、浅間神社の祭神(=富士山の神)は「赫夜姫」と考えられた。『竹取物語』のかぐや姫である。中世にさかのぼる『神道集』『富士山大縁起』『源氏物語提要』などに記述がみえ、広く知られていた説らしい。こんにちのように富士山の神=木花之佐久夜賣命が定着したのは、江戸中期以降のことだった。
『東泉院御由緒書』もそれを踏襲し、富知六所浅間の祭神をかぐや姫とし、瀧川神社を竹取の翁を祀る社=父宮、今宮浅間を竹取の嫗を祀る社=母宮と表記している。ほか、地誌『駿河記』などにも「号父の宮」と注記があるから、この縁起は割と流布されていたようだ。
『東泉院御由緒書』は続いて、
「大同元年(806)に5社の社殿を造営したさい、平城天皇から唐本大般若経や行基作の本地仏が寄進され、のち嵯峨天皇から空海作の五大尊不動明王が寄進された。嵯峨天皇のころから年2度の勅使下向が始まり、南北朝のころ一時中断したが、駿河国主の今川範国が勅使代として復活させた。5月の神事では、1~3日にかけて父宮、母宮、六所浅間宮で10騎による流鏑馬を執行する」
と記す。唐本大般若経や本地仏、五大尊不動明王は『富士山大縁起』にも記述があるものの、残念ながら散逸している。祭礼に関しては実際、明治維新まで駿河国惣社(静岡浅間神社)より国方奉幣使が参仕し、奉幣していた。
中世後期以前の内容と考えられている『富士山大縁起』の「五社記」には、
一 | 日吉宮 | 卯日 | 八幡 金色幡 朝日 |
二 | 新宮 | 辰日 | 愛鷹 赫夜妃誕生之処 |
三 | 今宮 | 巳日 | 犬飼神 |
四 | 六所宮 | 午日 | 浅間 惣社 |
五 | 新福地宮 | 申日 | |
同 | 大宮 | 申日 | (※備考:金剛界 千手観音) |
山宮 | 未日 | (※備考:不動尊) |
とある。これは、4月・11月の神事順を示している。日吉=日吉浅間神社、新宮=瀧川神社、今宮=今宮浅間神社、六所宮=富士六所浅間神社、新福地宮=入山瀬浅間神社を指し、大宮は富士山本宮浅間大社、山宮は山宮浅間神社を指す。日吉から山宮まで、繋がりある神事として行なわれていたようだ。
続いて、次のように列記されている。これは下方五社の本地仏を示している。
日吉本地 | 浅間宮 | 八幡宮 愛鷹宮 |
阿弥陀 観音 勢至 |
新宮本地 | 初名新山今名 愛鷹山新宮 |
毘沙門 千手 薬師 | |
今宮本地 | 初名今山今名愛鷹山今宮 (※『富士山大縁起抜書』) |
不動 薬師 | |
六所本地 | 惣宮 | 金剛界大日 | |
新福地本地 | 福地宮 浅間宮 |
薬師 |
瀧川神社を「新宮 辰日 愛鷹 赫夜姫誕生之処」とし、その本地仏は「初名新山今名愛鷹山新宮 毘沙門・千手・薬師」と載せている。
「新宮」は瀧川神社の旧称のひとつで、「辰日」は祭日。「愛鷹」は祭神であり、縁起では竹取の翁を指す。つまり、瀧川神社はかぐや姫の生誕地であり、竹取の翁を祭神にしていた。先に触れた『東泉院御由緒書』の「父宮」は、この竹取の翁に由来する。
瀧川神社の後方に観音堂があり、千手観音(市文化財)が祀られている。いまは妙善寺(臨済宗妙心寺派)が管理しているものの、同寺建立前は村山系の修験が関わっていたらしい。
この観音堂は、鎌倉期の文保元年(1317)10月11日に再建されている。この時の大発願主は頼尊だった。
頼尊は富士山の修験者で、「般若上人」とも呼ばれた。俗名は分からないが、『富士大宮司系図』によると浅間大社大宮司・富士直時の従兄弟にあたる。鎌倉期に富士行を興し、一般人にも登山を勧めたとされ、村山修験の中興の祖。村山と同じく本山派修験に属した須津多門坊の開祖頼尊や、東泉院の『富士山大縁起』を書写した正別当頼尊も同一人物と目されている。
瀧川神社は、頼尊ゆかりの東泉院が管掌した古社である。しかも「千手」を本地とした。神社と観音堂の位置関係や縁起を鑑みれば、観音堂はかつて瀧川神社の本地堂だったのではなかろうか。
岳南鉄道比奈駅で降車。根方街道を越えて御崎坂と呼ばれる傾斜のきつい坂を上ると、やがて瀧川神社の森が見えてくる。駅から徒歩10分といったところ。裏手に滝川観音堂、東隣に吉原第三中学校があり、東150mには『竹取物語』由来と伝える竹採公園がある。
境内はクスやスダジイ、イヌマキなどの緑濃い社叢(市保存樹林)に包まれ、神域独特の厳かさを保っている。ただ、さほど広くはない。諸施設に貸与され、神社そのものはずいぶん狭まったようだ。往古はもっと広く、おそらく隣り合う中学校の地も含まれていたに違いない。
樹下の明神鳥居をくぐり、広く短い参道を歩くと空がぽっかりとひらけた。日がさんさんと差している。そこに灯籠、手水舎、狛犬、そして社殿が建つ。いずれも昭和期造立と新しく、大昭和製紙(現日本製紙)や春日製紙工業など地元製紙会社による奉献物が多い。
神域の後方には滝川観音堂と妙善寺がある。観音堂は室町期には存在し、のち妙善寺が寄りそうように建った。「縁起」で触れたが、観音堂は当社の本地堂だったに違いないとわたしはみている。御堂の後ろの山神社(祭神/大山祇神)は瀧川神社の境外社だ。
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瀧川神社の北200m、原田字大金免1852番地に鎮座している。南は臨済宗妙善寺と接し、北は東名高速に面する。祭神は大山祇神、旧無格社。口伝によると享保年間(1716~35)の創祀で、旧暦9月17日が祭礼日だった。勾配のきつい坂道に石垣があり、その上に鬱蒼とした社叢が広がっている。
Tag ⇒ 神社 富士市の神社 原田地区 原田 浅間信仰 瀧川神社 下方五社 富士山東泉院 駿河国神名帳 山神社(大金免)
Entry ⇒ 2008.03.28 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市
日吉浅間神社
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市今泉字上和田1436 | ||
主神 | 木花咲耶姫命 大山咋神 | ||
配神 | 八幡大神 天児屋根神 経津主神 武御雷神 姫大神 天照皇大神 | ||
例祭 | 流鏑馬祭:5月4日 秋季大祭:10月14日 | ||
創建 | 伝:崇神天皇5年(前93) | 社地 | 2,287坪 |
神紋 | 丸に棕櫚の葉 | 社格 | 旧村社 |
神徳 | 安産・子宝・火難除け・五穀豊穣・産業繁栄ほか | ||
交通 | 岳南鉄道吉原本町駅より徒歩8分 駐車場有 |
富士郡下方(現富士市)に点在している有力神社「下方五社」のひとつ。別当東泉院管理のもと今川、徳川氏などの崇敬をあつめ、明治初期に東泉院が廃されたのちは、その跡地に遷座した。地元では「東泉院」と「浅間」を交ぜて、俗称「とうせんげん」。
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創祀は古く、崇神天皇5年(紀元前93)と伝えられる。富士郡久爾郷に神祠が造営され、後世、吉原公園の地へ遷座した。創祀の地は、伝法・久爾窪に隣接する「日吉」という字だと考えられている。
また別当だった富士山東泉院の『東泉院御由緒書』によれば、大同元年(806)に社殿が営まれ、平城天皇から唐本大般若経や行基作の本地仏が寄進されたという。
中世になると、「下方五社」「五社浅間」などの名称で多くの史料に現れる。下方五社は、富士郡下方(現富士市)に点在している有力神社5社の古い総称である。富士山東泉院が5社の総別当職を世襲し、神領や社殿の維持管理、祭祀権を握っていた。
下方五社は駿河国主今川氏からあつく崇敬された。古い記録をみると、今川氏親が16世紀前半、「日吉宮」の再建に尽くした東泉坊(東泉院)をわざわざ称えている。さらに今川義元は社殿修理分として米・銭を寄進し、今川氏真も富士川以東における勧進活動の独占権などを与え、下方五社・東泉院を庇護した。
16世紀中ごろの東泉院および下方五社の知行高は、米方360俵、代方58貫文。下方五社に社人を5人ずつ配属し、東泉院には院主や学頭僧、宮僧5人がつとめていた。
江戸期も引きつづき東泉院管理のもと権勢者からあつく遇され、東泉院には神領190石が安堵された。また徳川家康は元和元年(1601)12月、善徳寺村(今泉村)を訪れた際に日吉浅間神社・八幡宮(日吉浅間神社へ合祀)の両社に奉幣したといい、幕末には東泉院が将軍家茂上洛の宿泊所に選ばれている。
棟札によれば、宝暦7年(1757)10月に社殿を再建している。社名は「日吉浅間宮」、施主は「富士五社惣別當東泉院 法印光盛」だった。なお、江戸期の東泉院絵図をみると、日吉浅間神社は現・吉原公園の地に鎮座している。その東隣にあたる現在の境内地一帯には、東泉院やその子院が建っていた。
明治初期、政府は神仏判然令を発した。これを受けて東泉院住職は復飾して六所氏を名のり、神官となった。下方五社は仏教色を取り除いて神道へ復し、日吉浅間神社は明治8年(1875)2月、六所氏によって現在地右隣に遷された。この時の社殿は、東泉院の旧護摩堂を用いたという。
同39年9月の『神饌幣帛供進関係綴』によれば、境内364坪、雨覆兼拝殿3間3尺×5間、本社5尺2寸×2尺5寸の規模で、氏子は74戸。ほか、宅地・畑・山林など約7反の土地を有していた。祠掌は大森玄海氏(飯綱神社神主)に移っている。
下って大正8年4月に石鳥居、昭和9年に手水舎および水盤、石灯籠が奉献され、同32年に現在地へ遷座した。
中世後期以前の内容と考えられている『富士山大縁起』の「五社記」には、
一 | 日吉宮 | 卯日 | 八幡 金色幡 朝日 |
二 | 新宮 | 辰日 | 愛鷹 赫夜妃誕生之処 |
三 | 今宮 | 巳日 | 犬飼神 |
四 | 六所宮 | 午日 | 浅間 惣社 |
五 | 新福地宮 | 申日 | |
同 | 大宮 | 申日 | (※備考:金剛界 千手観音) |
山宮 | 未日 | (※備考:不動尊) |
とある。これは、4月・11月の神事順を示している。日吉=日吉浅間神社、新宮=瀧川神社、今宮=今宮浅間神社、六所宮=富士六所浅間神社、新福地宮=入山瀬浅間神社を指し、大宮は富士山本宮浅間大社、山宮は山宮浅間神社を指す。日吉から山宮まで、繋がりある神事として行なわれていたようだ。
続いて、次のように列記されている。これは下方五社の本地仏を示している。
日吉本地 | 浅間宮 | 八幡宮 愛鷹宮 |
阿弥陀 観音 勢至 |
新宮本地 | 初名新山今名 愛鷹山新宮 |
毘沙門 千手 薬師 | |
今宮本地 | 初名今山今名愛鷹山今宮 (※『富士山大縁起抜書』) |
不動 薬師 | |
六所本地 | 惣宮 | 金剛界大日 | |
新福地本地 | 福地宮 浅間宮 |
薬師 |
日吉浅間神社は現在、社名が示すように日吉神(=大山咋神)と浅間神(=木花咲耶姫命)を祀っている。ところが「五社記」によれば、浅間宮と八幡宮・愛鷹宮をまつり、その本地仏は阿弥陀・観音・勢至だったようだ。
また江戸後期の地誌『駿河記』は「傳云。上昔金色の幡朝日に出現するを以て祀る處なりと、愛鷹明神を配祀す」と載せ、五社記の記述「八幡 金色幡 朝日」をくわしく解説している。
これらをかんがみれば、社号の「日吉」は日吉神(=大山咋神)ではなく、本来は「金色幡 朝日」を指していたのだろう。それがいつのころか(おそらくは廃仏毀釈のさい)日吉=日吉神と結びつけられ、祭神に大山咋神を当てたのではないだろうか。
今泉と吉原の境を流れる和田川の左岸、吉原の街を見下ろす高台にある。県道24号に所在を示す看板があり、それにしたがい住宅地の隘路へ入っていくと、人の背丈ほどある石垣がみえてくる。東泉院の表門(慶長門)跡だ。昔はここから東泉院の境域だった。
表門跡から西へゆくと子安地蔵尊がある。東泉院の元子院で、子育てや安産に霊験あらたかと崇敬あつい。その西隣が日吉浅間神社の神域で、さらに奥は六所家旧邸宅となっている。昔は日吉浅間神社のところに東泉院の護摩堂や聖天堂が建っていた。
こぢんまりとした神域は、クスや桜の大木にほどよく彩られ、まことに楚々としたたたずまい。鳥居をくぐり、素朴な神門をぬけると、瓦葺きの社殿と向き合う。神門は四脚門、拝殿は寄棟造り。寺跡、しかも神仏習合の神社だったためか、寺院色の濃いたたずまいだ。
拝殿の向拝を、さまざまな彫刻が飾っている。蟇股に竜と人物、木鼻に獅子頭、頭貫と持送りに牡丹と千鳥、手挟には鳳凰と麒麟。ことに蟇股は見ごたえがある。竜に乗って琴をひく天女(あるいは弁天?)が、透かし彫りで生き生きと表現されている。
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もとは独立した社だったが、いまは日吉浅間神社に合祀されている。貞観元年(869)勧請の古社と伝えられ、地主神として長らく崇敬されてきた。明治期、日吉浅間神社が遷座した際に境内社となり、やがて合祀された。
氏子会館の北東、小路沿いに鎮座している。祭神は宇迦之御魂神。創祀年代は詳らかでない。もとは吉原公園にあって「やぶ稲荷」と称されていたが、昭和50年に遷座した。
和田義盛を祀り、俗称「義盛さん」。和田義盛は源頼朝の御家人。伝承によれば、治承4年(1180)富士川の合戦のおり、付近の警備を命ぜられた義盛は、東泉院付近に本陣をおき、南を流れる川に逆茂木をしかけた。のちに里人は土地の守護神として義盛を祀り、付近一帯を和田、川を和田川と名付けた――と伝えられる。
所在地/字上和田1379番地。主祭神/和田義盛、配神/大山津見命、建速須佐之男命。旧社格/無格社。
主要祭礼は、流鏑馬祭(春季大祭)と、秋季大祭。
流鏑馬祭は5月4日。その名の示すように、かつては流鏑馬を奉納した神事だったものの、昭和30年代に廃絶。現在は神門前広場で弓道大会が奉納されている。
秋季大祭は10月14日。お日待ちを兼ねたもので、五穀豊穣、町内・家内安全を祈願する。
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Entry ⇒ 2008.03.21 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市
下方五社
下方五社は、駿河国富士郡下方庄(現・富士市)に点在している有力神社5社の総称。いずれも浅間神社であることから「五社浅間」ともいう。かつては富士山東泉院が総別当職をつとめ、神領や社殿の維持管理、祭祀にあたっていた。
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下方五社(五社浅間)は、次の5社を指す。富知六所浅間神社、瀧川神社、今宮浅間神社、日吉浅間神社、入山瀬浅間神社。
古くは神仏習合の社だったが、廃仏毀釈のさい仏教色は一掃され、こんにちは純然たる神社となっている。
通称、三日市浅間神社。社伝によれば孝昭天皇2年(前474)富士山腹で創祀され、のち現在地へ遷座。弘仁2年(811)皇后の安産祈願を奉仕以来、勅願所に定められたという。領主の庇護をうけ、とりわけ今川氏の崇敬はあつかった。◆所在地/富士市浅間本町5-1。主祭神/大山祗命。社格/式内社、旧郷社。
創祀は詳らかでないが相当の古社とされ、源頼朝が約5寸の黄金の玉を奉納したと伝えられる。江戸期まで「浅間神社」「富士浅間社」「新宮」などと称したほか、竹取の翁を祀り「父之宮」とも号した。社領は五社別当領から12石。◆所在地/富士市原田字滝川1309。主祭神/木花之佐久夜毘賣命。旧社格/郷社。
富士山溶岩流跡に鎮座。今宮・神戸・一色の産土神。『駿河国神名帳』に列する「正三位十八所 浅間御子明神」の1柱と目される。古くは神宮寺を備え、摂社40社を管掌、服織庄(静岡市)にも神領を有した。武田氏の兵火にかかり衰微。◆所在地/富士市今宮字西村387。主祭神/木花之佐久夜毘買命。旧社格/村社。
下方五社別当職だった東泉院の跡に鎮座し、俗に「とうせんげん」。今川氏や徳川氏ら権勢者から崇敬され、今川氏親は日吉社再建に尽力した東泉院を称え、徳川家康は慶長20年(1601)に奉幣したという。江戸期は神領15石9斗。◆所在地/富士市今泉1436。主祭神/木花咲耶姫命・大山咋神。旧社格/村社。
『駿河国神名帳』に列する「正三位浅間御子明神」と目される。大同元年(806)に下方五社が再建されたさい、大般若経を奉納されたと伝え、かつては応永2年(1395)銘の鰐口を所蔵。江戸期は、例祭に国方奉幣使が参仕した。◆所在地/富士市入山瀬字久保上344。主祭神/木花之佐久夜毘賣命。旧社格/村社。
次に、下方五社の歴史を探ってみよう。5社それぞれに社伝はあるが、ここでは下方五社の総別当職をつとめた富士山東泉院の『東泉院御由緒書』『五社記』に焦点をあてる。
『東泉院御由緒書』は、
「富士山は三国無双の名山にして国家擁護の霊神ゆえ、浅間宮を数か所に祀って祈祷する必要がある。東泉院が別当をつとめる五社浅間のうち、父宮、母宮、六所浅間宮は富士浅間赫夜姫誕生地により、これを祀る」
と、紹介している。注目は、父宮、母宮、赫夜姫のくだりだろう。
中世から江戸初期、浅間神社の祭神(=富士山の神)は「赫夜姫」と考えられた。『竹取物語』のかぐや姫である。中世にさかのぼる『神道集』『富士山大縁起』『源氏物語提要』などに記述がみえ、広く知られていた説らしい。こんにちのように富士山の神=木花之佐久夜賣命が定着したのは、江戸中期以降のことだった。
『東泉院御由緒書』もそれを踏襲。六所浅間宮の祭神をかぐや姫とし、瀧川神社を竹取の翁を祀る社=父宮、今宮浅間神社を竹取の嫗を祀る社=母宮と表記している。
さらに、次のように続ける。
「大同元年(806)に5社の社殿を造営した際、平城天皇から唐本大般若経や行基作の本地仏が寄進され、のち嵯峨天皇から空海作の五大尊不動明王が寄進された。嵯峨天皇のころ年2度の勅使下向が始まり、南北朝のころ一時中断したが、駿河国主今川範国が勅使代として復活させた。5月の神事では、1~3日にかけて父宮、母宮、六所浅間宮で10騎による流鏑馬を執行する」
唐本大般若経や本地仏、五大尊不動明王は『富士山大縁起』にも記述があるものの、散逸している。勅使代に関しては実際、明治維新まで富知六所浅間神社の祭礼に、駿河国惣社(静岡浅間神社)より国方奉幣使が参仕していた。
中世後期以前の内容と考えられている『富士山大縁起』の「五社記」には、
一 | 日吉宮 | 卯日 | 八幡 金色幡 朝日 |
二 | 新宮 | 辰日 | 愛鷹 赫夜妃誕生之処 |
三 | 今宮 | 巳日 | 犬飼神 |
四 | 六所宮 | 午日 | 浅間 惣社 |
五 | 新福地宮 | 申日 | |
同 | 大宮 | 申日 | (※備考:金剛界 千手観音) |
山宮 | 未日 | (※備考:不動尊) |
とある。これは、4月・11月の神事順を示している。日吉=日吉浅間神社、新宮=瀧川神社、今宮=今宮浅間神社、六所宮=富士六所浅間神社、新福地宮=入山瀬浅間神社を指し、大宮は富士山本宮浅間大社、山宮は山宮浅間神社を指す。日吉から山宮まで、繋がりある神事として行なわれていたようだ。
続いて、次のように列記されている。これは下方五社の本地仏を示している。
日吉本地 | 浅間宮 | 八幡宮 愛鷹宮 |
阿弥陀 観音 勢至 |
新宮本地 | 初名新山今名 愛鷹山新宮 |
毘沙門 千手 薬師 | |
今宮本地 | 初名今山今名愛鷹山今宮 (※『富士山大縁起抜書』) |
不動 薬師 | |
六所本地 | 惣宮 | 金剛界大日 | |
新福地本地 | 福地宮 浅間宮 |
薬師 |
注目は富士六所浅間神社の注釈「惣宮」。
先の神事順にも「惣社」とあるが、惣宮や惣社は、特定地域の神社祭神を一か所に勧請・合祀した社のことである。
富士六所浅間神社の場合、社名の「六所」を「6社から勧請・合祀した」と解釈すれば、前述の「日吉宮」「新宮」「今宮」「新福地宮」「大宮」「山宮」が該当社に浮かび上がる。
それを裏付けるように現在、富士六所浅間神社の配神である大山咋神・深渕之水夜禮花神・阿波乃神・高龗神・木花之佐久夜賣命は、それぞれ「日吉宮」「新宮」「今宮」「新福地宮」「大宮」「山宮」の各社で祀られている。
大山咋神 | → | 日吉宮(日吉浅間神社) |
深渕之水夜禮花神 | → | 新宮(瀧川神社) |
阿波乃神 | → | 今宮(今宮浅間神社) |
高龗神 | → | 新福地宮(入山瀬浅間神社) |
木花之佐久夜賣命 | → | 大宮(浅間大社)、山宮(山宮) ※山宮は大宮の旧跡=同神 |
富士六所浅間神社は、これら神社祭神を合祀し、「惣社」としての性格を備えていたのだろう。江戸期まで、富士山本宮浅間大社の大祭に参仕した国方奉幣使が、その往き帰りに富士六所浅間神社へ参仕していたことも、同社が富士郡において重要な立場にあったことを示している。
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Entry ⇒ 2008.03.19 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市
富士山東泉院
富士山東泉院(寺号/興法寺)は、富士市今泉上和田にあった古義真言宗の寺。今川・豊臣・徳川各氏ら権勢者の庇護をうけて隆盛したが、明治初期の神仏分離で廃された。
富士郡下方庄(現・富士市)に、下方五社と総称される5つの有力神社がある。東泉院は代々、その5社の総別当をつとめ、点在した神領や社殿の維持管理、祭祀権を握った。神社の管理者として、また領主として、地域に大きな影響力を持っていた。
下方五社 | |
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富知六所浅間神社 | 富士市浅間本町5-1 |
瀧川神社 | 富士市原田字滝川1309 |
今宮浅間神社 | 富士市今宮字西村387 |
日吉浅間神社 | 富士市今泉上和田1436 |
入山瀬浅間神社 | 富士市入山瀬字久保上344 |
中世後期から古義真言宗に属したものの、草創当時は村山系の本山派修験だったと考えられ、一説には村山興法寺とひとつだったといわれる。実際、今川時代は村山三坊のひとつ大鏡坊の縁者が院主をつとめるなど、村山と深い繋がりがあった。
史料上の初見は、16世紀初頭の今川氏親判物。内容は日吉宮造営への尽力をたたえたもので、宛名は東泉坊だった。このころには下方五社と関わりを持っていたことがうかがえる。
さらに天文16年(1547)、今川義元は東泉院大納言の忠節※をたたえ、「先師東泉院長恵の由緒」によって五社別当職と1社宛修理分の米75石・銭58貫文を3年にわたって寄進している。
(※北条氏が富士川以東に乱入したさい、大納言は重要人物として連れ去られたが、計略をもって逃れ義元のもとへ参じた)
今川氏真も数多くの判物を寄せた。永禄元年(1558)、領内の金剛寺支配を安堵。同4年、富知六所浅間神社境内を水源とする御手洗川(和田川)において、和田橋を境に支配権を認め、諸人の乱入を禁じた。同5年には和田寺観音堂八幡宮を東泉院に安堵、同9年にも神領内諸役を免除している。
そのほか、下方五社の社殿修造を終えるまで河東における勧進活動の独占権も与えるなど、東泉院・下方五社を篤く庇護した。
永禄11年(1568)、武田信玄と徳川家康が、今川氏領国の駿河・遠江両国に侵攻した。このとき東泉院雪山は、今川氏真の使者として上杉謙信を訪ねている。今川氏の信任ぶりがうかがえる。しかし雪山の奔走は報われず、結局2国は武田・徳川両氏に奪われ、今川氏は退転。東泉院は大きな後ろ盾を失った。
駿河国を手にした武田信玄は、最後まで今川氏に忠節をつくした雪山を排斥し、やはり今川氏縁故だった村山から東泉院を引き離した。さらに永禄13年(1569)、富知六所浅間神社の別当職を東泉院から久能寺(静岡市)に移し、元亀3年(1572)には東泉院そのものを久能寺の末寺とした。
以降、東泉院には久能寺の僧が住し、村山との繋がりは薄れた(江戸期の正保3年以降は、醍醐寺報恩院末に)。
天正18年(1590)、豊臣秀吉から下方五社別当領として朱印領190石を認可された。この朱印領は、徳川政権下でも同様に認められた。富士郡下では富士山本宮浅間大社1,129石余、村山三坊216石余(※3坊合計)に次ぐ規模である。慶長9年(1604)の代官井出志摩守の手形によると、朱印地のうちわけは、
中野 | 96石1斗2合 |
一色 | 14石7斗8升7合 |
神戸 | 18石7斗7升 |
今宮 | 18石4升3合 |
伝法の内 | 30石 |
善徳寺の内 ※善徳寺=現在の今泉 |
14石4斗6升 |
うち富知六所浅間神社に23石3斗、瀧川神社12石、今宮浅間神社18石4斗1升、日吉浅間神社15石9斗、入山瀬浅間神社にも若干、配分された。
なお、これらは表高である。内高は新田開発を推進した結果、享保14年(1729)に600石、寛保年中(1741~44)の調査では朱印地そのほか含め808石・別当領66石へ著増している。
明治初年、政府は国家神道政策を進めるため、神仏判然令を発した。これにより神と仏は明確に隔てられ、神仏が習合していた社寺はそのいずれかに属するよう選択を迫られた。むろん、僧が神社を管掌する別当職なども廃止となった。東泉院住職は復飾、六所氏を名のり神官となった。
東泉院や下方五社が安置していた仏像・仏具は、醍醐寺報恩院が引き取り、中門は平等寺(富士宮市)、慶長門は遊行寺(神奈川県藤沢市)、建物は稲中舎(市内)と伊勢山皇大神宮(神奈川県横浜市)に売却された。
下方五社は神道に復し、富知六所浅間神社・瀧川神社は郷社、今宮浅間神社・日吉浅間神社・入山瀬浅間神社は村社に列格。いま、東泉院の旧境内地は日吉浅間神社の神域となっている。
江戸期の境内絵図がいくつか残されている。うち、寛政2年(1790)の絵図から、当時のようすをさぐってみる。
寺域入口は東にあり、表門(慶長門)が東向きで建っていた。門は明治期に除かれたが、人の背丈ほどの石垣が残されている。その堅牢さから察するに、門も大きかったに違いない。
そこから参道が西へのび、ほどなく中門にいたる。中門は平等寺(富士宮市東町)に移築され、現存している。その右手には地蔵堂(現・子安地蔵尊)と子院の泉光院があった。
中門を入ると、今度は神事門。門をぬけて右へ折れると、奥に護摩堂と聖天堂が南向きで建っていた。いま、日吉浅間神社社殿が建つあたりだろう。その右手(地蔵堂や泉光院の裏手)には、鎮守の八幡社がみえる。いまは日吉浅間神社に合祀されている。
なお日吉浅間神社は当時、東泉院の西側(現・吉原公園)に鎮座しており、東泉院が廃されたのち現在地へ遷座した。
神事門まで戻ってふたたび西へゆくと、右手に客殿や台所といった大きな建物があった。院主の住まいだろう。いまは六所家旧邸宅となっている。そばには隠居所もあった。
幕末の文久2年(1862)には、本堂普請とともに東照宮が建てられている。これは、東泉院が翌年の将軍家茂上洛の宿泊所に選ばれたことから急遽、境内整備を行ない、徳川家康を祀る東照宮を建てたようだ。東照宮は現在、行方知れずである。
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Entry ⇒ 2008.03.18 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市