和光明神社(久沢)
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市久沢字大久保1262-2 | ||
主神 | 和光明神 | ||
配神 | 天照大神 八幡大神 稲荷大神 | ||
創建 | 不詳 | 例祭 | 2月15日、10月17日 |
敷地 | 251坪 | 社格 | 無格社 |
備考 | 社叢(市保存樹林/クスノキ・ヒノキ) | ||
交通 | JR入山瀬駅より徒歩35分 駐車場無 |
久沢新田の産土神。界隈は甲斐から移住した人々が拓いた土地とされ、和光明神社は開拓民が個人的に祀ったことに端を発するという。和光明神のほか、天照大神・八幡大神・稲荷大神を祀っている。
江戸後期の地誌『駿河記』『駿河志料』によれば、甲斐国から移住した人が個人的に祀った神であり、創祀は『駿河記』が編纂された19世紀初頭より30年ばかりさかのぼる、という。
境内に天明3年(1783)12月銘の石灯籠が残されている。『駿河記』『駿河志料』の記述を当てにすれば、あるいは天明のころ祀られたのかもしれない。
祭神は、前述の地誌は「不詳」としているものの、明治14年奉献の木神鏡に「和光大神 八幡大神 稲荷大神」と記されている。また昭和初期の『富士郡神社銘鑑』は主祭神を和光明神、配祀を天照大神・八幡大神・稲荷大神としている。
同名鑑によれば、当時は境内72坪、拝殿2間×1間4尺、雨覆2間×1間半、本殿1尺3寸×1尺の規模。例祭は陰暦2月15日で、崇敬者は15人だった。下って昭和44年に現社殿が新築され、灯籠や水盤なども奉献された。
なじみのない神名である。富士地区でこの神を祀っているのは当社のみである。
『広辞苑』で「和光」を引くと、「和光同塵」が載る。これは「仏や菩薩が衆生済度のために、その本地の智徳の光を隠し、煩悩の塵に同じて衆生に縁を結ぶこと。わが国では本地垂迹説と結びつき、和光垂迹などという」とある。
これが祭神に関係あるとすれば、いずれかの仏・菩薩の垂迹神を祀ったことに端を発しているのかもしれない。
JR身延線入山瀬駅より3kmばかり北方、なだらかな傾斜地がつづく久沢北区に鎮座している。一帯は茶畑風景のなかに人家が点在している地域。神域後ろにも濃緑のうねが敷きつめられ、その向こうには富士山が顔をのぞかせている。
神域は小さく、そこに細身のクスノキやヒノキなどが木立を成している(市保存樹林)。サクラの木もけっこう多い。境内は久沢北児童遊園を兼ねており、色とりどりに塗られたブランコやすべり台が点在している。神域特有の厳かさはなく、どちらかといえば親しみやすい。
奥に神社の空間があり、灯籠や狛犬、社殿がひとかたまりとなっている。全体的に近代のモノが多く、社殿は昭和44年11月竣工の鉄筋コンクリート製。ただし、社殿前に天明3年(1783)12月銘の石灯籠が残され、社殿右手には古びた石祠も祀られている。
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Entry ⇒ 2012.09.26 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市
天神社(八笠)
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市厚原字八笠1849 | ||
主神 | 不詳 | ||
創建 | 不詳 | 例祭 | 陰暦9月25日 |
敷地 | 39坪 | 社格 | 旧無格社 |
神徳 | 不詳(学問、病平癒か) | ||
交通 | JR入山瀬駅より徒歩25分 駐車場無 |
厚原北区の八笠(やがさ)に鎮座。この地にはかつて大きな松の群生が八つあり、八つの笠を広げたように見えたことが地名由来と伝えられる。昔はお日待ちに、そばの風祭神社(八笠)とともに祭礼を行い、「八笠山天満宮」の幟を立てたと伝えられる。
創建年月は詳らかでない。ただし、本殿にあたる石祠に「承応三年(1654)八月下旬 水谷兵庫」と刻まれているから、相応の歴史を有しているのは間違いない。
江戸後期の『駿河記』は、「天神社 祭神未詳若くは風土記云豊麻神社か」と載せる。その『惣國風土記』を引くと、「撲原 公穀七百三十束貳錢田。假粟三百六拾八丸三畝二字二毛田。」「豊麻神社二座。所祭大己貴命與少彦名命也。長彦天皇二年癸酉十二月之旬。奉始官幣。」とある。
下って昭和初期の『富士郡神社銘鑑』(県神職会富士郡支部編纂)も「祭神不詳」としている。こんにちは学問の神を祀る天神として崇敬されているが、古くは天津神(例えば大己貴命、少彦名命)を祀る天神だったのかもしれない。
境内規模は、江戸後期の『駿河国新風土記』に「天神祠」と載り、ごくささやかだった様子がうかがえる。『富士郡神社銘鑑』では「境内39坪、本殿(石祠)間口1尺3寸 奥行1尺3寸、例祭9月25日(陰暦)、崇敬者50名」の規模だった。
西富士道路や第二東名のそば、「天神山」と呼ばれる高台に鎮座している。昔は一帯に森と茶畑が広がっていたらしいが、いまはすっかり宅地造成された。けれど、天神社はいまだ社叢を残しており、往時の面影をわずかにとどめているという。
住宅地外れの崖面に、真っ白な鳥居がたつ。これをくぐり、なだらかな坂道を上ると不動堂があって、次いで木祠1基、石祠3基が現れ、最奥部に大木がそそり立っている。目通り2mを越えるヒノキだ。その根もとに、天神社の古めかしい祠が祀られている。
不動堂は雲切不動(約135cmの石像)を祀る。霊験あらたかとされ、病など悩み事のある人が参拝しているらしい。木祠1基、石祠3基の祭神は判然としないが、『鷹岡町史』に境内社として「山神社」「庚申社」が載るから、うちふたつはこれらだろう。
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Tag ⇒ 神社 富士市の神社 鷹岡地区 久沢 天神社(八笠) 天神信仰 その他の信仰 風祭神社(八笠) 駿河国風土記
Entry ⇒ 2012.01.13 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市
富豊七神社
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市南松野字粒良野3400付近 | ||
主神 | 不詳 | ||
創建 | 不詳 | 例祭 | 7月、秋 |
備考 | スダジイ(旧富士川町天然記念物) | ||
交通 | JR身延線沼久保駅より約6.3km 駐車場無 |
富豊七神社は南松野の山あい、粒良野(つぶらの)という字面のきれいな集落で祀られている。わずか数戸の集落は山々のあふれる緑に抱かれ、そのおだやかな景観は字面に輪をかけて美しい。喧騒から遠い、まことに静かな山里の氏神である。
詳細不詳。資料がまったく集まらず、縁起はおろか、祭神すら分からない。ただし御神木は県有数のスダジイの巨樹であり、富士川町時代は町天然に指定され、秘かに知られた存在である。
そばで農作業をされていた男性に、神社についてうかがった。
「祭神?・・・なんだろう(苦笑い)。部落の氏神さんとして祀っていてね、氏神さん、氏神さんって呼んでいるからねぇ」
「お祭りは年2回ね。7月と秋祭り。部落の軒数が少なくなってね、幟を立てるのもたいへんになってきてねぇ」
・・・地元の人も詳しいことは分からないらしい。それでも「氏神さん」と敬愛し、こと御神木は「自慢の存在」だという。
御神木は、「粒良野の大家」と呼ばれる稲葉家が植えた、と伝承されている。いわく慶長5年(1600)、稲葉家の兄弟2人が関ヶ原の戦いに参加したさい、家族は無事を願い、朝夕氏神に祈った。そのかいあって兄弟は無事帰郷。稲葉家は「氏神様のおかげ」と感謝し、スダジイを植えた。(『ふるさと富士川』)
これを参考にすると、神社は400年以上前には在ったことになる。一集落の氏神なのだから、なんら不思議はない年代だ。
余談だが、北松野妙松寺の山門建立のとき、南松野の稲葉氏がケヤキ材を寄進したと伝えられている。また武田氏が蒲原城の北条氏を攻めたさい、松野六人衆と呼ばれる南松野(漆野、池野、水の口、根方、中沢、粒良野)の郷士たちが武田勝頼の道案内をしたという伝承も。6人は望月(2人)、佐野、木伏、上野、稲葉の各氏。
これら稲葉氏と、「粒良野の大家」稲葉氏は一党なのだろうか。
史料の観点では、『南松野村諸神々御社諸寺々寺内目録』に「粒良野 山神」「同所 地神」「同所 山神」「同所 伊勢神明」と載っている。おそらく、そのいずれかなのだろう。
4社のうち、規模が最も大きいのは「伊勢神明」で、「20間、15間」の規模。富豊七神社周辺を見渡したところ、「山神」と思しき小さな石祠があったのみで、広い境内や社殿をもつ社は見当たらない。「伊勢神明」が該当社の可能性は高そうだ。
ほかに、『ふるさと富士川第二集 昔ばなし伝説』に、
「(要旨)昔、粒良野に悪さをする大猿がいて、村人に目を射ぬかれ、殺された。以後、粒良野には目を患う人が次々と出た」
という伝承が載っている。その猿がねぐらにしていたのが「お宮さん」。いずれの神社なのかは記されていないが、富豊七神社と考えて構わないだろう。猿といえば日吉や浅間、庚申などだが、果たして祭神と関わりはあるのだろうか。
以上、思いつくままつらつらと書いたが、全然まとまらず。資料が集まったら、編集し直す予定。( ̄  ̄;)
北松野原方の白鬚神社脇から林道粒良野八棟線へ入り、林間の薄暗い一本道をうねうねと登っていくと、やがて視界が開ける。そこが粒良野の集落。白鬚神社から約3.2km、最寄り駅のJR身延線沼久保駅からは、およそ6.3kmといったところ。
御神木の案内板が道端にたっている。が、そこから神社は“見えない”。じつは真後ろの林が神域なのだが、一見ただの林にしか映らず、入口も分かりにくい。およそ参道らしからぬ野道を辿って林へ入ると、足場の悪い斜面に御神木と社殿が寄りそっている。
御神木の古びようはまことに美しい。
根回り7mに達するスダジイの大木が、林の斜面に爪をたてたように力強く根をはっている。たくましい幹は重ねたタオルを固く絞ったようにねじれ、その精悍なフォルムは、スポーツ選手の鍛えぬいた肉体美に近い。おもわず見惚れてしまう。
社殿は平入りの木造建築。“木こりの山小屋”といった風な簡素な造りで、御神木に比べ存在感は薄い(だからこそ御神木が引き立っているのだろう)。周りはスダジイの再生林と杉林が静謐に広がり、石祠がひとつ積もった落ち葉にまぎれて鎮座していた。
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Tag ⇒ 神社 富士市の神社 松野地区 南松野 富豊七神社 その他の信仰
Entry ⇒ 2011.11.10 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市
岩本 八面神社
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名称 | 八面神社 | ||
所在 | 静岡県富士市岩本字辻畑2034 | ||
主神 | 八面大荒神(火産霊神、興津比古神、興津比賣神) 木花開耶姫命 | ||
創建 | 不詳 | 例祭 | 10月中旬、夏越の祓:6月下旬 |
敷地 | 145坪 | 神紋 | 羽団扇 |
社格 | 旧村社 | 神徳 | 集落守護ほか |
備考 | 市保存樹林(クスノキ、ムクノキ、イチョウ) | ||
交通 | JR竪堀駅より徒歩18分 駐車場無 |
永源寺の元鎮守
岩本山南麓、永源寺の門前に鎮座している。永源寺の山門鎮護および村・近郷の氏神として祀られていたが、明治の神仏分離で同寺の手を離れ、村社に列した。祭神は八面大荒神(火産霊神・奥津比古神・奥津比売神)。 大永6年再建創祀不詳ながら、古くから当地で祀られていたようだ。永源寺を開いた寿天が大永6年(1526)に奉じた棟札に、おおよそ次のように記されている。 「永源寺建立のため密家の旧跡を求めたら、壊れた小社があった。村の老人にいかなる神か尋ねたところ、密家の鎮守および村・近郷の氏神として祀った『八面大荒神』だという。永源寺建立に際し社を再建、これまで通り山門鎮護ならびに氏子繁栄を祈願して祀ることにした」 この棟札は後世に作り直されたものと推測されているが、内容の信憑性は高そうだ。永源寺の前身は真言宗永見寺とされるから、棟札にみえる「密家」は真言密教、あるいは当山派の修験者を指すと思われる。 大永以降、天文、天正、元和、寛永、慶安、寛文、延宝、享保、宝暦、安政、明治期の棟札が、永源寺住職を導師に奉じられた。天文棟札には八面大荒神ほか天照皇大神宮・白山妙理大権現の名がみえ、元和棟札では富士浅間大菩薩などを追加。以降も神々は増え続け、安政棟札は八面大荒神を中心に計19柱を配している。 祭神の八面大荒神は、仏・法・僧の三宝を守護する三宝荒神。古代以来の荒ぶる神に対する信仰に、修験者らが仏教的解釈を加えて祭祀した神で、像容は三面六臂や八面六臂とされる。ただし八面神社では神仏分離のさい祭神を書き換えたらしく、明治以降の『神社明細帳』や『富士郡神社銘鑑』は祭神を木花開耶姫命とし、いまは神道系の竈三柱神を祀っている。 夏越の祓に茅の輪くぐり
約100年前に書かれた『岩松村誌』は、「百四十五坪バカリノ狭キ所ナレドモ三百年以上モ経タランカト思ハル老杉森トシテ天ヲ衝ケリ」と紹介。嬉しいことに、いまもほぼ変わらぬすがたを保っている。目通り5mに達するクスをはじめ、市保存樹林のムクやイチョウらがひと塊となり、色濃い木立を形成。隣り合う3階建ての建物をゆうに越えるほど、たかだかと茂っている。 その木立の下に、瓦葺きの鉄筋コンクリート製社殿が建つ。拝殿は入母屋造り、本殿覆屋は流造りで、いずれも昭和38年10月に改築。そのほか、境内入口に白御影石製の台輪鳥居が立つ。毎年6月下旬の夏越の祓では、この鳥居に茅の輪を設置。参拝者は無病息災を願いながら、茅の輪をくぐり抜ける。 八面神社は、市内蓼原にも鎮座しています(→稲荷八面神社)。ここは、富士川に流されて漂着した神体を里人が見つけて勧請した社、と伝えられます。いま富士川は岩本山の西を南下して駿河湾に注ぎますが、むかしは山すそで東南...... |
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参考文献 境内掲示板、祭典ポスター、駿河記、駿河志料、岩松村誌、富士郡神社銘鑑、静岡縣神社志、岩松村地史、岩松の歴史散歩、富士市の神社、日本神祇由来事典、神道事典、日本の仏 |
Tag ⇒ 神社 富士市の神社 岩松地区 岩本 その他の信仰
Entry ⇒ 2011.06.17 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市 | Trackbacks (0)
倭文神社(星山)
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市星山字坊地1 | ||
主神 | 健羽雷神 | ||
合祀 | 熊王神 高皇産霊神 伊邪那岐命 大山祇神 | ||
祭礼 | 1月15日 7月第2日曜日 10月10日 | ||
創建 | 不詳 | 社地 | 469坪 |
社格 | 式内社(小) 旧村社 | 神徳 | 五穀豊穣・家運隆盛ほか |
備考 | 浅間大社元摂社、スギ スダジイ(市保存樹) | ||
交通 | JR富士宮駅より徒歩25分 駐車場有 |
星山の産土神で、古くは「星山大明神」「嶽王子」とも称した社。祭神は健羽雷神。創祀こそ詳らかでないが、『延喜式』神名帳に列した古社であり、『駿河国神名帳』に「正五位下 委文天神(あるいは織委文天神)」の名で載る。
社伝によると、創祀は神代にさかのぼる。いわく、当地に君臨していた星神・香々背男が中央政府に反乱を企てたため、経津主神・武甕槌命は健羽雷神を派遣して討伐させた。その後、健羽雷神は星山にとどまり、倭織・製紙を興して地域発展に寄与したため、ここに祀られた、としている。
この社伝のベースは『日本書記』の葦原中国平定の段。いわく、經津主神と武甕槌神は従わない神々を討ったが、星神・香々背男のみ従わせることができなかった。そこで2神は倭文神の建葉槌命を派遣し、これを服従させた――。
また、同書の皇極天皇3年(644)条に興味深い話が載る。
いわく秋7月、不尽河(富士川)付近に住む大生部多が、ある虫を「常世の神である。これを祀れば富と長寿を得られる」と里人にすすめ、巫覡らもこれを喧伝した。民は惑わされ、家財を投げ打ち、歌や踊りに明け暮れた。その損害は甚だしく、みかねた葛野の秦造河勝が大生部多を討伐した――。
かいつまめば、新興宗教が富士川付近に興り、その勢いを恐れた中央が攻め滅ぼした、という話。
このふたつの話、あらすじが似ているだけでなく、倭文が関わる部分も共通する。「香々背男討伐」に登場する健羽雷神および建葉槌命は機織の神(倭文神)であり、「常世の虫」に登場する秦氏は機織技術をもった倭文部の氏。そして倭文神社は倭文部が祀った社だ。
社伝は「香々背男討伐」を主題とするが、むしろ富士川という身近な名詞がでてくる「常世の虫」の方が関連はありそう。大生部多を討った秦造河勝の一族が星山に定住し、氏神の倭文神を祀った、と考えれば腑に落ちる(大生部多も倭文部とする説がある)。のちに葦原中国平定を付会、秦造河勝→健羽雷神(=建葉槌命)、大生部多→香々背男に置き換えたのかもしれない。
ちなみに「常世の虫」は、橘や曼椒に生まれ、長さは4寸余、大きさは人差し指ほど。色は緑で黒点があり、蚕に似ている、とある。おそらくアゲハチョウの幼虫ではないか、と考えられている。
現在、神域は大悟庵と観音堂に挟まれている。というより、むしろ「大悟庵境内に鎮座」と表現したほうが適切で、同寺鎮守といった趣。同寺の伝えによれば、明星山に鎮座していた当社を元禄14年(1701)に遷したという。観音堂は当社の本地堂だったとする説がある。
その一方、当社を支配していたのは浅間大社であり、戦後まで浅間大社摂社に名を連ねた。古い記録をみると、天正5年(1577)の『富士大宮御神事帳』の正月項に「嶽王子御神事」とみえ、祭費7斗5升は浅間大社大宮司の知行地が負担している。江戸期も浅間大社末社料から配分を受け、神主は浅間大社所司太夫が兼務していた。
神域の規模は、寛政2年(1790)11月の『本宮及末社間數坪數書』に「星山村倭文之神社 拝殿2間3間 但社無之 社地541坪」とある。くだって昭和初期の『富士郡神社銘鑑』では境内469坪(氏子崇敬者83戸)。江戸期からほとんど変化はないようだ。
星山丘陵中段の神域は、曹洞宗大悟庵と観音堂に挟まれている。大悟庵の門柱を抜けると観音堂の石段があり、その左に神社の石段、さらに左へゆけば大悟庵の山門につく。どこも緑豊かだが、神社部分はひときわ濃く、そこが神域であることを意識させる。
石段を上って華奢な石鳥居(大正13年奉献)をくぐると、1本の老杉が天をつくように真っすぐそそり立つ。幹周り5.9m、太く力強い巨木だ。倭文神社の御神木であり、また境内社熊野神社(祭神大屋毘古命)の依代でもある。富士宮市保存樹。
杉の後ろに素朴な木造拝殿があり、その裏手の林中に玉垣で囲われた3m四方の磐境がある。ごく若い榊がぽつんと生えている。本殿はなく、この榊を御神体としている。昭和初期の古写真に写る榊は比較にならないほど大きいことから、近ごろ代替わりしたらしい。
なお、幕末の地誌『駿河志料』は「神殿なくただ大石を置き神座とす」とし、『駿河記』も「一片の神躰石ありて」と載せる。いま、拝殿前に注連縄をめぐらせた大岩がある。これが神体石だろうか。
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境内社として熊野神社を祀る。昭和初期の『大宮町誌』に「杉の老樹を以て神木とす」とあるように、境内の老杉を依代とする。祭神は木の神、大屋毘古命。
合祀社は次の3社。いずれも星山にあり、境内掲示板によれば昭和35年に合祀した(各社旧地の石碑は昭和27年合祀としている)。
字上ノ原186番地。祭神/熊王神。旧社格/無格社。創建年月不詳。文政13年(1830)の灯籠と水盤、弘化5年(1848)2月17日の棟札記録が残る。農林業の神として信仰され、かつて氏子は年3回、家業を休んで祭祀を行ったという。
昭和初期の『富士郡神社銘鑑』『大宮町誌』は、本殿3尺×1尺7寸、雨覆5尺9寸×5尺9寸、拝殿2間×1間5尺、境内250坪(あるいは205坪)、例祭9月17日(陰暦)、崇敬者56名と所載。
字向山843-2番地。祭神/高皇産霊神・伊邪那岐命。旧社格/無格社。明星山公園野球場近くの山林のなか、御神木のスダジイ(市保存樹)を背に鎮座。創建年月不詳。元禄10年(1697)明星山から遷座したと伝わり、文政11年(1828)9月17日の棟札を所蔵。
江戸後期『駿河記』『駿河志料』に「第六天神社」とみえ、昭和初期『富士郡神社銘鑑』『大宮町誌』に本殿9寸×9寸、境内103坪、例祭9月17日(陰暦)、崇敬者56名。スダジイの幹周は4.47m、3.36m。スダジイとしては市内随一。
字上ノ原130番地。祭神/大山祇神。旧社格/無格社。元禄11年(1698)1月17日、愛媛県越智郡宮浦日吉神社より遷宮したと伝承されている。江戸後期の『駿河記』『駿河志料』に「山神社」とみえ、昭和初期の『富士郡神社銘鑑』『大宮町誌』は本殿1尺×1尺、境内292坪、例祭9月17日(陰暦)、崇敬者56名と所載。
Tag ⇒ 神社 富士宮市の神社 大宮地区 星山 その他の信仰 倭文神社(星山) 明星山大悟庵 富士山本宮浅間大社 浅間大社摂末社 式内社
Entry ⇒ 2009.03.18 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
飯綱神社(江尾)
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所在 | 静岡県富士市江尾字久保上712 | ||
主神 | 宇迦之御魂神 | ||
配神 | 素盞鳴尊 瓊瓊杵尊 大己貴命 大山津見命 疱瘡神 菅原道真 | ||
創建 | 不詳 | 例祭 | 10月17日 |
社地 | 255坪 | 神紋 | 十六菊 |
社格 | 旧村社 | 備考 | 市保存樹林 |
神徳 | 五穀豊穣、病気平癒ほか | ||
交通 | 岳南鉄道江尾駅より徒歩5分 駐車場無 |
富士市の南東部、かつて富士郡と駿東郡の境だった江尾(えのお)に鎮座している古社。いまはごく変哲もない、いわば「ありふれた地域の鎮守さん」といった風情だが、古くは飯綱法を用いた修験の社だった。近郷近在の社とは一線を画す濃い縁起を伝えている。
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崇神天皇10年(前88)、東海道に派遣された四道将軍・武淳川別命によって創建されたと『神社明細帳』は伝えている。また南北朝期、時の社人が南朝に尽くした功績から菊花の紋を賜ったとされ、下って戦国期、同社で行った飯綱神法が名を馳せたことから、「飯綱神社」を称するようになったという。
江戸期は修験・大福院管理のもと江尾村の総鎮守として敬われ、2斗5升7合の除地を有した。棟札によれば、宝暦8年(1758)9月に社殿改築し、天保3年(1832)9月に再建・遷宮している。棟札や大福院の寛政11年(1799)『山寺号并除地堂社別當人別改帳』によれば、当時は「飯綱大明神」と称していた。
明治維新後神道へ復し、同8年(1875)村社に列格、のち神饌幣帛料供進神社に指定された。また現在の配神を鑑みるに、かつて江尾に在って今はない「天満宮」「子神宮」「愛鷹大明神」「山神社」「疱瘡神」の各社を合祀したようだ。これら各社は明治中期『皇國地誌』では独立社として載っているから、合祀はその後のことだろう。
『皇國地誌』によれば、当時は東西14間、南北21間、面積8畝15歩の規模。祭神は「稲蒼魂命」表記で、祭日は9月19日だった。下って大正期の『須津村誌』は祭神を「宇迦之御魂神」と表記し、境内355坪、祭日は10月17日。昭和初期の『富士郡神社銘鑑』は「境内255坪 氏子103戸」と付記している。
飯綱神社の根本社は、長野県北部の飯縄山(標高1917m)山頂に鎮座している(里宮は長野市の皇足穂命神社)。古くから山岳修験の霊地として知られ、中世は軍神として上杉謙信や武田信玄など諸武将から信奉された。
現在の祭神は保食命だが、もとは飯縄権現を祀った。飯縄権現は白狐に乗った烏天狗形であらわされ、飯綱修験の験者は「飯綱法」とよばれた狐(管狐)使いの法を用いたという。
明治以降は「お稲荷さん」で知られる宇迦之御魂神を祀るが、もとは飯綱の根本社と同じく、飯縄権現を祀っていたと考えられる。明治期の神仏判然令や修験道禁止を受け、神道系の祭神へ改めたに相違ない。
江尾の飯綱神社も修験と関わりが深い。戦国期、同社で行った飯綱神法が名を馳せたと伝え、江戸期は当山派修験の正當山大福院が別当をつとめた。飯綱神社から愛鷹山に続く登山道には、研ぎ石や神楽石と名付けられた大岩のほか、祭祀・行場の遺構が残るというから、この一帯で修行していたのかもしれない。
大福院は、寛政11年(1799)『山寺号并除地堂社別當人別改帳』によると江尾村の飯綱大明神をはじめ、天満宮、子神宮、愛鷹大明神、山神之社、増川村の八幡宮、山神社、浅間神社の別当だった。
さらに棟札をみると、田中新田・粟嶋大明神や船津・浅間神社の勧請法主として「大先達大福院」「大福院権大僧都」の名がみえる。江尾、増川にとどまらず、現・富士市東部で広く活動していたようだ。
神仏分離以降は「大森氏」として神職につき、飯綱神社のほか、瀧川神社や中里八幡宮、日吉浅間神社などの祠掌もつとめた。ただ、こんにちは神職を離れていると聞く。
大福院(大森氏)について『須津村誌』は、「此ノ近傍神社ノ神官タリ~~(中略)~~大森家ハ修験職ニテ飯綱神社ニ奉仕シ前代玄海マデ四十五代ヲ閲ストイフ」と所載している。
なお且家には十種神宝図や神代文字、宝剣も伝えられていた。
岳南鉄道の終点・江尾駅から北へ歩くこと5、6分。根方街道を越え、坂道を100mほどのぼった右手、一段小高くなった場所に飯綱神社は鎮座している。まことにこぢんまりとしているが、おそらくかつては街道からここまで一帯、すべて神社の土地だったに違いない。
神域はクロガネモチやシイ、ヤマモモの大木に囲まれてひっそりとした佇まい。南側の石垣中央にえぐったような石段が設けられ、上がりきったところに古びた社殿が建つ。拝殿は瓦葺きの宝形造。その姿からか、はたまた歴史ゆえか、どことなく修験の面影を感じる。
なお『須津村誌』に、
「本社ノ傍ニ神木トシテ椋ノ老樹アリ周凡ソ二丈五尺 里ノ語リ伝フル所 《今ヨリ百年許前モ同様ニ見ユ却ツテ他ノ若木ノ為メニ壓セラレテ追々ニ衰フ 千年ニ近キ神木ナラン》木ノ幹ハ朽チテ若枝蔓々トシテ二丈許ノ上ニ周三尺許リノ榎ノ木寄生ス」
とある。いま、それらしき老木はない。まことに残念ながら朽ちてしまったようだ。
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Tag ⇒ 神社 富士市の神社 須津地区 江尾 修験道 飯綱信仰 その他の信仰 飯綱神社(江尾) 正當山大福院
Entry ⇒ 2008.09.25 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市
伊志夫神社
![]() 石火石。右上=神火をともした頂部 |
名 称 伊志夫神社
所 在 静岡県賀茂郡松崎町石部98
主 神 大山祇命
創 建 不詳 例 祭 1月17日
敷 地 317坪 社 格 式内社(小) 旧村社
神 徳 豊漁、海上安全など
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磐座で神火をともし、海上交通の目印に
石部は、西伊豆・松崎町にある入江の小さな集落。海辺に漁港や海水浴場、山手に温泉、棚田がひろがり、どこか懐かしい風景をみることができる。そんな素朴な石部集落を一望する高台に、伊志夫神社は鎮座。同社の金の御幣をふれば豊漁になったと伝わるなど、漁業に霊験あらたかな社として信仰されてきた。 海辺をはしる国道136号線から山道川に沿って山側へ向かい、密集する人家のあいだをぬけて、集落南の丘陵へ。傾斜のきつい階段を上がると、中腹にあざあざとした朱塗りの鳥居がたち、上がりきったところに拝殿・覆屋がある。鳥居のさきは巨木が群生する森。足下には、ゴツゴツとした岩肌や大石がみえ、山岳神社の様相を呈していた。 創建年代は不明だが、式社「伊志夫神社」、伊豆国神階帳「従四位上いしひの明神」に比定される古社。字神田に雌雄の大石があり、そこが当初の社地とされる。往古、大石の頂部で神火をともして海上交通の目印とし、やがて同所に社を建てたのが起こりと考えられている。『和名抄』に「那賀郡石火郷」の地名がみえ、社号も「石火大明神」「石火宮」などと称していた。 ところが江戸初期、集落にたびたび火災が起きたことから、地名・社名を「石部」に改称。「石火大明神宮」「石火村」と記されていた天文12年(1543)の棟札は後年、石部へと改められている。また、寛永15年(1638)以降の棟札には「三嶋大明神」とあり、維新ごろまでは同称号が使われたようだ。例祭日は1月17日。また、5月、9月の17日にも「御石講」と呼ばれる祭典があるという。 |
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外観。中央辺りに鳥居 | あざやかな両部鳥居 | 参道は急角度の階段 |
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階段のさきに入母屋造りの拝殿 | 本殿覆屋 |
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天保4年の灯籠 | 覆屋前の狛犬。右側は風化したのかボコボコ |
境内社その他境内社は、津島神社(祭神:素戔鳴命、創建:宝暦2年8月)、三峰神社(祭神:不詳、祭礼:1月20日)、秋葉神社(祭神:火之迦具土神、祭礼:12月17日)、濱川神社(祭神:不詳、祭礼:9月24日)の4社。『静岡縣神社志』には他に「石社六社あるも古社にして記録、傳説なく社號祭神等不詳」とある。
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参考文献 境内由緒板、豆州志稿、静岡縣神社志、松崎町史資料編、日本の神々 神社と聖地10、日本歴史地名体系、角川日本地名大辞典 |
(フォト撮影日:平成19年9月23日) |
Tag ⇒ 神社 静岡県内の神社 伊豆国 三島信仰 その他の信仰
Entry ⇒ 2008.03.07 | Category ⇒ 神社仏閣-静岡県内 | Trackbacks (0)
気比神宮
![]() 大鳥居。扁額は有栖川宮威仁親王染筆 |
名 称 氣比神宮
所 在 福井県敦賀市曙町11-68
主 神 伊奢沙別命 仲哀天皇 神功皇后 日本武尊 応神天皇 玉妃命 武内宿禰命
創 建 不詳
祭 礼 御名易祭:3月8日 御田植祭:6月15日 牛膓祭:6月16日 総参祭:7月22日 例大祭:9月2~15日
敷 地 1万1,253坪 神 紋 右三つ巴 五七の桐
社 格 式内社(名神大) 越前国一宮 旧官幣大社 別表神社
備 考 大鳥居(正保2年建・国重文)、比神宮古図 猿田彦仮面 王面(市文)
神 徳 五穀豊穣・豊漁・音楽舞踏ほか
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北陸道の総鎮守
敦賀湾に面する港町、敦賀。若狭路と北陸路の分岐点に位置する交通の要衝で、湾奥の角鹿津は天然の良港として早くから開け、大陸交流の玄関口も担った歴史ある街だ。その市街地の一角、駅から徒歩15分の地に、朱の大鳥居がたつ。高さ10.9m、春日・厳島とともに、木造の三大鳥居に数えられている。 鳥居をくぐると、石畳の参道がまっすぐ延びる。小糠雨の境内は薄暗く、参道灯籠のほんのりとした明かりが幻想的だ。歩みをすすめると左手に透塀で囲った一角があり、朱の鳥居からなかに入ると、社殿群が鎮座。白と朱のコントラストが美しい拝殿、背後には本殿と四社之宮。昭和末期から行われた「昭和の大造営」によるもので、整然とした佇まいを見せている。
社伝によると、気比大神ははじめ天筒山、のちに境内の土公に降臨したとされる。もとは海人族が信仰した食物・航海神だったが、交通要地に鎮座していたことで朝廷と結びつき、北陸道の総鎮守、また越前国一宮として崇敬された。一時、戦火の影響で衰微するものの、江戸期に藩主・結城秀康によって再興されている。 結城秀康造営の旧社殿は国宝だったが、第2次大戦で焼失。ただ、僥倖にも大鳥居(重文)は戦火をくぐり抜け、ほかに比神宮古図や猿田彦仮面・王面(市文)なども所蔵する。例大祭は9月4日を中心に、2~15日まで14日間つづく「気比の長祭」で、美麗な装飾を施された山車が市中をひきまわされる。そのほか、御名易祭、御田植祭、牛腸祭、総参祭なども重要な神事。 |
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大鳥居 | 中鳥居 |
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まっすぐ延びる参道 | 2代目「旗揚の松」 | 四社之宮の1社 |
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唐破風と千鳥破風の拝殿 | 流造りの大ぶりな本殿。屋根に外削ぎ |
境内摂・末社社殿左手の鳥居をくぐると「九社之宮」こと9社、その深部に神明社外宮・内宮。東参道沿いに大神下前神社(末社、式内社)、兒宮(末社)、角鹿神社(摂社、式内社、祭神:都怒我阿羅斯等命)があり、大鳥居のうしろに猿田彦神社(末社)が鎮座。敦賀の旧称は「角鹿」といい、これは角鹿神社を発祥とする。 「九社之宮」は、気比大神の御子神関係の社。入口側から伊佐佐別神社(摂社)、擬領神社(末社)、劔神社(末社、式内社)、金神社(末社、式内社)、林神社(末社、式内社)、鏡神社(末社、式内社)、天利劔神社(摂社、式内社)、天伊弉奈姫神社(摂社、式内社)、天伊弉奈彦神社(摂社、式内社)。劔神社・金神社・林神社・鏡神社・天利劔神社は承和7年に従五位下。
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由来端緒社伝によると、気比大神(伊奢沙別命)は上古より当地に鎮座。はじめ天筒山、のちに境内の古殿地(土公)に降臨したとされる。仲哀天皇は即位から間もなく当社を参拝、神功皇后も御珠玉姫命および武内宿禰命をともなって三韓平定を祈願したといい、帰国後に皇子・応神天皇を従えて再び参拝したという。 持統天皇6年(692)、神封20戸を奉る。大宝2年(702)、文武天皇の勅で社殿修営、仲哀天皇・神功皇后を合祀。さらに四社之宮を造り、東殿宮に日本武尊、西殿宮に武内宿禰命、総社宮に応神天皇、平殿宮に玉妃命を祀った。天平3年(731)200戸、天平神護元年(765)44戸を増封され、承和6年(839)には神祇官直轄となる。承和6年(839)、貞観元年(859)に勅使参向。神階は承和3年(836)に正三位勲一等から従二位へ昇り、最終的に正一位勲一等へ陞叙。『延喜式』には「氣比神社七座並名神大」と所載され、寛仁元年(1017)一代一度の大奉幣に預かり、平安期は能登沿岸地域までを御厨として領有するなど、朝廷からあつく遇された。 延元元年(1336)10月、新田義貞が尊良・恒良両親王を奉じて下向すると、大宮司気比氏は金ヶ崎城に迎えて足利勢と対峙。しかし、翌年3月に落城、気比氏治・斎晴親子は自刃、神領を大幅に減らされた。さらに元亀元年(1570)3月、織田信長の朝倉攻めに際し、神官らが朝倉氏に助勢したため、社坊焼失、社家断絶、神領没収。しかし、慶長19年(1614)、福井藩主・結城秀康から社殿再建と社領100石の寄進をうけて再興。寛永9年(1632)には徳川家光が秀忠病気平癒の祈祷米50石を寄進するなど、権勢者の庇護を受けた。 古くは「笥飯宮」または「気比大神宮」と称したが、明治初年に「氣比神社」へ改められ、同4年国幣中社、同28年官幣大社に昇格し、神宮号宣下の沙汰をもって氣比神宮に改称。昭和20年、戦火によって社殿焼失。同25年から逐次再建、さらに昭和末期からの「昭和の大造営」によって現在の社容が整った。 |
参考文献 由緒掲示板、日本歴史地名体系、近江・若狭・越前寺院神社大辞典、神社事典、全国神社名鑑、日本社寺大觀神社篇、全国一宮祭礼記、日本「神社」総覧 |
(フォト撮影日:平成18年12月23日) |
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真清田神社
![]() 真清田神社社殿 |
名 称 真清田神社
公 式
所 在 愛知県一宮市真清田1-2-1
主 神 天火明命
別 宮 三明神社(荒魂)
創 建 伝:神武天皇33年
祭 礼 御本社荒魂奉齋(別宮):3月24日 桃花祭(例大祭):4月3日
敷 地 9,119坪 神 紋 九枚笹
社 格 式内社(名神大) 尾張国一宮 旧国幣中社 別表神社
備 考 木造舞楽面12面(重文) 獅子頭・御饌台盤・甘杯器・御膳銅皿・舞楽面・宗教面(県文)
神 徳 事業守護、機織守護など
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尾張の国祖まつる尾張国一宮
ふるくから織物業の盛んな地域として知られ、明治以降は毛織物の一大産地として栄えた愛知県一宮市。市名が示すように、「尾張国一宮」の門前町として発展してきた街であり、JR尾張一宮駅から歩いて10分、駅前の商店街を抜けた目抜きに、その一宮である真清田神社(ますみだ)は鎮座している。 祭神は、尾張国を拓いた尾張氏の祖神・天火明命。御子・天香山命が当地を開拓するにあたり、父・天火明命を祀ったのが起こりという。延喜式神名帳に名神大「眞墨田神社」として所載、江戸期は尾張藩主からあつく信奉され、大正年中には国幣中社に列格した名社。真清田というきれいな社号は、当地が木曽川の清く澄んだ水によって形成された水田地帯であったためと言われている。
社殿は昭和20年の戦災で焼失したが、同30年代から順次復興されていった。鳥居と楼門をくぐると玉砂利敷きの境内。豊かな社叢を背にたつ社殿群は、「尾張造り」と称されるこの地方独特の配置形式を用いる。拝殿・祭文殿・渡殿・本殿を直線で連結し、祭文殿の左右から伸びた回廊が後方の本殿などを囲む。 境内社の服織神社は、祭神の母神であり、織物神とされる萬幡豊秋津師比賣命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)を奉祭。東海地区最大級の七夕祭り「おりもの感謝祭一宮七夕まつり」では、特産の毛織物が奉納される。また、楼門前の通りや広場には、毛織物の商店が軒を並べる。「昭和」の面影を色濃く残し、どこか寂しく、そして懐かしい雰囲気に包まれた一角だ。 |
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楼門前の太鼓橋 | 昭和36年再建の楼門 |
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正面からのぞむ拝殿 | 服織神社社頭 |
別宮及び境内摂社・末社境内裏山に別宮・三明神社。その他、境内社が散在している。 社殿の右隣に、祭神の母神を祀る服織神社。右上部に愛鷹社・犬飼社・天神社合殿。最右部には須佐男社、愛宕社、秋葉社。右下部には神池があり、そこに水関係の八龍社と厳島神社、その隣に稲荷神社。境内左部には三八稲荷神社、神水舎井館がある。各神社の祭神および例祭日は以下のとおり。 ◆服織神社=摂社。祭神:萬幡豊秋津師比賣命。例祭:11月2日。月次祭:毎月15日。おりもの感謝祭一宮七夕まつり:7月第4日曜前后。◆須佐男社=須佐之男命。木造流造り。◆愛宕社=訶遇突智神。木造流造り。社の手前に灯籠1対。◆秋葉社=木造神明造り。 ◆稲荷神社=木造流造り。傍らに小社。社頭には連なる鳥居、社殿の周りには朱色の前垂れを身につけた神使像3対(社殿手前の2対は石製、社殿脇の1対は木製のもよう)。 ◆八龍社=木造流造り。社前に両部鳥居、後方(神池の入口)に明神鳥居と社号標。◆厳島神社=市杵嶋姫命。木造流造り。社の手前に両部鳥居、社の後方(神池の入口)に明神鳥居と社号標。◆神水舎井館=御祭神:彌都波能賣大神齋。境内左手の井戸。 ◆愛鷹・犬飼・天神社合殿=愛鷹社祭神:愛鷹神、瀬織津姫命、気吹戸主命、速秋津姫命、速佐須良姫命、木花咲屋姫命。犬飼社祭神:犬飼神、神功皇后、底筒男神、猿田彦命、中筒男神、真清田曽根連、表筒男神、菊理姫命。天神社祭神:天神七代神、伊弉冉命、速玉男神、事解男神、〓神、市杵島姫命。社前に狛犬1対と明神鳥居。 ◆三八稲荷神社=末社。御祭神:倉稲魂命。例祭:初牛大祭。社殿:平入りの拝殿と流造りの本殿。右隣にも流造り1基。往古は神苑の西北に鎮座していたが、昭和26年に遷座。 |
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三明神社? | 服織神社本殿 |
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須佐男社 | 愛宕社 | 秋葉社 |
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稲荷神社・神使 | 稲荷神社 | 稲荷神社・神使 |
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神池 | 八龍社・厳島神社 | 神水舎井館 |
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愛鷹・犬飼・天神社合殿 | 三八稲荷神社 |
由来端緒社伝は神武天皇33年の創建とし、祭神は尾張氏の祖とされる天火明命。祭神の御子・天香山命が、葛城の高尾張邑から当地へ移って開拓するにあたり、父・天火明命を祀ったとしている。ただ、諸文献によると、江戸時代までは大己貴命あるいは國常之尊を祭神としており、正式に天火明命を祀ったのは明治以降のこと。また、祭神が8頭8尾の大龍に乗ってきたという伝承があることから、水神としても信仰され、尾張藩主はたびたび晴雨祈願をしている。 承和14年(847)、無位より従五位下に昇進。仁壽元年(851)に官社へ列し、同3年に従五位上より従四位下へ陞叙。貞観7年(865)に従四位上より正四位上へ進み、延喜の制では「眞墨田」の名で名神大社に列格した。中世以降は、尾張国一宮として朝野の崇敬をあつめ、鎌倉時代には順徳天皇が多数の能楽面(重文)を奉納。神領は、嘉禎元年(1235)に記された久我文書に、「水田129町9反300歩」と所載されている。 江戸期は、尾張藩主のあつい庇護を受ける。松平忠吉は神領200石を寄進、寛永4年(1627)には徳川義直から神領105石を寄進され、旧来からの神領とあわせて336石6升に。同16年(1639)、義直からあらためて黒印状を寄せられ、これより歴代の領主は、先規によって朱印状を寄せるにいたった。近代社格制度では県社へ列し、同18年に国幣小社、大正3年に国幣中社へ昇格。 |
参考文献 由緒掲示板、公式リーフレット、日本歴史地名体系、全国神社名鑑、日本社寺大觀神社篇、日本「神社」総覧、日本の神々 神社と聖地 |
(フォト撮影日:平成18年12月16日) |
Tag ⇒ 神社 静岡県外の神社 尾張国 式内社 一宮 その他の信仰
Entry ⇒ 2007.07.13 | Category ⇒ 神社仏閣-静岡県外 | Trackbacks (0)
桑名宗社
![]() 旧東海道に面する青銅製鳥居 |
名 称 桑名神社 中臣神社 (通称:桑名宗社 春日神社)
所 在 三重県桑名市本町46
主 神 (桑) 天津彦根命 天久久斯比乃命 (中) 天日別命
配 神 (中) 建御雷神 斎主神 天児屋根命 比売神
創 建 (桑) 不詳 (中) 神護景雲3年(769)
祭 礼 石取御神事:8月第1日曜日 比与利祭(桑名神社例大祭):8月16~17日 御車祭(中臣神社例大祭):9月17~18日
社 格 式内社(小) 旧県社 境 内 1,600坪
神 紋 (桑) 上り藤の内三 (中) 上り藤の内大
備 考 石取御神事(国文) 安南国王書簡(旧重文) 青銅鳥居(県文) 松尾芭蕉筆短冊 狩野探幽筆東照神君画像 御膳水井(市文)
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「春日さん」と親しまれる桑名城下の総鎮守
北勢の商工業都市・桑名の市街地に鎮座している古社。桑名は、『日本書記』の天武天皇元年(762)6月26日条に「桑名郡」と所載された歴史ある地名で、桑名宗社は、この地方を拓いた古代豪族・桑名首の祖神、天津彦根命(天照大御神3御子)と御子・天久久斯比乃命をまつる、桑名の総鎮守社である。 桑名宗社は、式内社の桑名神社・中臣神社2社で構成され、ふるくは「三崎大明神」、あるいは「春日大明神」といった。中世、当社を中心に、自治運営・自由取引の市が発展、桑名は「十楽の津」と称された。江戸期には桑名藩11万石の城下町、さらには東海道42番目の宿駅として賑わい、その鎮守社である当社は、歴代の桑名城主によって社殿営繕されるなど、あつく庇護された。
城主造営の社殿は、昭和20年の戦災で焼失してしまい、現社殿は戦後に復興されたもの。旧東海道に面する青銅製鳥居は寛文7年(1667)製で、「勢州桑名に過ぎたるものは、銅の鳥居に二朱女郎」とうたわれた桑名の名物。鳥居から約30m歩くと楼門、くぐると石畳の参道が続き、石鳥居をへて拝殿・本殿にいたる。 数ある祭礼のうち、有名なのが「桑名三祭礼」と呼ばれる石取祭・比与利祭・御車祭。うち石取祭は、比与利祭に先立って氏子が町屋川で禊を行い、このとき採取した栗石を神前に奉納した神事で、宝暦年間(1751~64)に比与利祭から分かれたという。現在は8月第1土・日曜日。山形12張の提灯を飾った三輪祭車が、鉦や太鼓でにぎにぎしく囃す、北勢地方最大の夏祭りだ。 |
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楼門をくぐると石畳の参道 | 白御影石製の二の鳥居 |
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狛犬。吽形に角あり。 基壇に天保3年と刻字 |
拝所を2ヶ所設けた合殿の 拝殿。左は中臣、右が桑名 |
境内社確認できた境内社は4社。社殿左側に、摂社の母山神社。ふるくから当地に鎮座していた地主神だという。右側には皇大神宮御分霊社、東照宮、稲荷社。皇大神宮御分霊社は明治9年勧請、例祭11月15日。また、『明治神社誌料』や『日本社寺大觀神社篇』は、境内社として皇大神宮御分霊社、八重垣神社、金刀比羅社、伊奈利社、住吉神社の4社を所載している。 |
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摂社・母山神社 | 皇大神宮御分霊社 |
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東照宮 | 稲荷社 |
由来端緒桑名神社と中臣神社を併せ祀り、通称は「桑名宗社」「春日神社」など。ふるくは「三崎大明神」または「春日大明神」と称され、桑名の総鎮守として崇敬を集めた。神宮寺は天台宗仏眼院で、朱印地100石のうち50石があてられた。 桑名神社:祭神は、天照大御神の第3御子・天津彦根命と、その御子・天久久斯比乃命。天久久斯比乃命は、桑名地方を開発した古代豪族・桑名首の祖神とされる。創建年代は不詳ながら、『延喜式』神名帳に所載された古社。ふるくは桑部地区に祀られていたが、景行天皇40年(110)には宮町あたりに鎮座して「三崎大明神」と称せられ、のちに宝殿町、さらに同45年に現在地へ遷座したと伝わる。古来より桑名の地主神として崇敬されてきた。 中臣神社:神護景雲3年(769)、鹿島神宮の神霊が通過した基址(上野地区)に祀られた伝わる式内社。祭神は、神武天皇の功臣で中臣伊勢連(伊勢国造の子孫)の遠祖、天日別命。ふるくは現地より西方ヘ2km余隔てた山上にあったが、正応2年(1289)に桑名神社境内へ遷座。永仁4年(1296)、春日大社より春日四柱神を勧請合祀。以後、「春日大明神」と称された。 貞和2年(1346)足利幕府より三丁掛のうちに800石、上之輪村に300石の寄進を受け、永禄10年(1566)には吉田家より一の宮として認可される。同12年に織田信長が社領寄進、天正年間(1573~92)には滝川一益が社殿造営。慶長6年(1601)徳川家康は、桑名三丁掛のうちに朱印地100石を寄進、以後、歴代の桑名城主から社領寄進・社殿営繕を受けた。明治元年の御東行および同2年の東京遷都では、天皇・勅使が宿泊。同8年に郷社へ列格、同14年には県社へ昇格した。 石取祭桑名神社の例大祭(比与利祭)から宝暦年間(1751~64)に分かれた神事がもと。山形12張の提灯を飾った三輪祭車が、大太鼓1個と鉦4~6個でにぎにぎしく囃す。当初は簡素な台車を用いていたが、江戸後期から高欄、彫刻、金細工、漆塗などが施された豪華絢爛な祭車が増え、祭りの規模も拡大したという。昭和20年の戦災で大半の祭車を失うものの、現在は復興されている。平成19年、国無形民俗文化財に指定された。 青銅鳥居寛文7年(1667)、桑名城主・松平定重が、慶長金250両を投じて建立。製作者は鋳物師・辻内善右衛門種次。暴風雨で3度倒壊しているが、そのつど辻内の子孫によって復旧されている。昭和40年、県文指定。 |
参考文献 公式リーフレット、境内掲示板、明治神社誌料、日本社寺大觀神社篇、神社事典、全国神社名鑑、全国神社大要覧、日本歴史地名体系、角川日本地名大辞典 |
(フォト撮影日:平成19年1月13日) |
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Entry ⇒ 2007.06.22 | Category ⇒ 神社仏閣-静岡県外 | Trackbacks (0)