富士市の東部、増川と江尾の境にある浄土宗寺院。黒仏や岩船地蔵など、所蔵する仏像が地元で知られている。寺は江戸前期に開かれたと伝えられ、当初は現在地よりも北にあったが、江尾江川の氾濫で被災、移転したという。
開創は慶長15年(1610)とも寛永10年(1633)ともいわれる。『郷土誌須津』によれば、古い墓地から寛永7年と刻まれた石碑が発見されたというから、どちらかといえば慶長15年説が有力か。
また過去帳に、飯綱神社神官・大森氏の先祖(当山派修験)の戒名が記されていることから、古くは当山派修験と関わりを持った真言系の寺だった――と推測されている。
江戸期の地誌を引くと、2石9斗7升2合の除地を有していた。『駿河国新風土記』によれば、境内は東西18間、南北22間の規模で、7間四間の本堂、四間七間の庫裏があった。本尊は弥陀座像3尺、ほかに観音立像2尺7寸、脇士の観音、勢至各2尺3寸立像が載る。
下って明治17年の『皇國地誌』は、東西22間3尺、南北25間、面積1反4畝1歩と記している。
寺域は岳南鉄道江尾駅の北西600m。江尾江川に沿って密集した住宅地の隘路を北へ歩くと、ほどなく武骨な東名高速道路が横一文字。その高架下を抜けると山門だ。周りに緑多く、高速道路さえなければ景観も雰囲気も申し分ないだけに、実にもったいない。
四脚門の山門
高速道路の日陰に山門と鐘楼堂が建ち、山門前にまだ新しい六地蔵と古い石仏・石碑が一列に並んでいる。古い石仏・石碑は、貞享5年(1688)の地蔵、元禄15年(1702)11月15日の名号塔、それに享保2年(1717)10月の如意輪観音(巡拝供養塔)。
古い石仏と新しい六地蔵がならぶ
山門を抜けると空は明るく開け、足もとには砂利が清々しく敷かれている。正面に新しい本堂が建ち、左手に庫裡、右手には小ぶりな地蔵堂と観音堂。本堂は平成22年3月に改築落慶した入母屋造。瓦葺き屋根の緩やかな曲線が美しい。
本堂
地蔵堂には岩船地蔵のほか、黒仏、閻魔、青面金剛がまつられている。岩船地蔵は子育てなどの御利益で知られ、8月26日に祭典を行う。黒仏は初代本尊と伝えられ、かつて門前を乗馬したまま往来すると必ず落馬したため、後ろ向きに安置したと伝承されている。
地蔵堂と観音堂