産業開発の神として信仰される北勢第一の社
 | 神奈備・多度山と大鳥居 |
養老山地の南端、標高403.3mの多度山南麓に鎮座し、本宮に天津彦根命(天照大御神第3皇子)、別宮に御子・天目一箇命をまつる。天照大御神との関係から、伊勢神宮に対して「北伊勢大神宮」と称され、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と詠われ、朝廷・庶民の信仰を集めた大社である。
神代より神奈備だった多度山に、初めて社殿が築かれたのは5世紀後半。天平宝字7年(763)には日本で3番目の神宮寺が建立され、のちに寺院70坊・僧侶300余名を抱える大寺へ発展した。朝廷の崇敬もあつく、神位昇階、遣使奉幣がくり返され、『延喜式』では桑名郡唯一の名神大社。戦国期、兵火にかかり荒廃したが、桑名藩主・本多忠勝が復興に尽力、旧観へ復した。
 | 本宮・別宮前に於葺門 |
深緑の神域は、緩やかに流れる落葉川の清流に沿って多度山を上がっていく。枝葉のあいだから差す陽はやわらかく、耳にとどく水音が心地よい清浄な境内だ。深部に「多度両宮」の扁額を掲げた於葺門がたち、少しさきで落葉川と交差。対岸では迫る山肌を背に、本宮・別宮両殿がほぼ向かい合って鎮座している。
例大祭は5月4・5日の多度祭。南北朝期に起こったという流鏑馬神事や上げ馬神事、神輿渡御などが催される。とくに著名なのは、県民俗の上げ馬神事。氏子から選ばれた花笠・鎧姿(4日は陣笠・袴姿)の少年騎手6名が、人馬一体となって高さ2m余の絶壁を駆け上がる勇壮な神事であり、上がった頭数で農作物の豊凶を占う。また、11月8日には別宮のふいご祭りが行われる。
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由来端緒
本宮の多度神社(天津彦根命)と、別宮の一目連神社(天目一箇命)、それに3摂社・6末社で構成。天津彦根命は、天照大御神の第3皇子で、北勢地方を拓いた桑名首の祖神(『新撰姓氏録』)。天目一箇命は、天津彦根命の御子で、『古語拾遺』によると伊勢忌部氏の祖神。時に応じて「一目竜」と呼ばれる龍神に姿をかえ、天高く昇って慈雨を恵むと信仰されているため、神殿に扉を設けていない。多度大社は、かつて「多度両宮」「多度大神宮」などと称したほか、天津彦根命と天照大御神の関係により、伊勢神宮に対して「北伊勢大神宮」と称され、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と詠われた。
神代より背後の多度山(標高403.3m)を神奈備として崇め、5世紀後半、雄略天皇の御代に初めて社殿が建立されたと伝わる。社域東方の磐境から銅鏡30面が発見されており、この磐境が最古の鎮座跡と推測されている。『多度神宮寺伽藍縁起並資財帳』によれば、神仏習合思想の起こりによって天平宝字7年(763)、私度僧満願が日本で3番目となる神宮寺(法雲寺)を建立。のちに国分寺に準ずる扱いを受けて発展、寺院70坊に僧侶300余名を抱える大寺となった。神・寺領は伊勢国桑名郡・三重郡から尾張国海部郡にわたったという。
朝廷の崇敬もあつく、嘉祥3年(850)9月10日に宮社、同10月9日には名神に選ばれ、『延喜式』神名帳では明神大。後一条天皇の御代、東海道六社(多度・熱田・浅間・三島・香取・加島)に数えられ、天皇即位後の寛仁元年(1017)10月20日には一代一度の大奉幣に預かっている。神階は延暦元年(782)10月に従五位下へ進み、天長10年(833)4月正五位下、承和6年(839)12月正五位上、承和11年(844)6月従四位下、貞観元年(859)正月27日正三位、翌2年17日従二位、同5年6月26日正二位、建仁元年(1201)2月従一位。弘長元年(1261)には正一位に昇叙している。
中世になると社勢はいくぶん衰えるが、それでも国司北畠氏の加護を受けるなど、まずまず順風だったようす。ところが元亀年間(1570~73)、織田信長と長島一向宗徒が対立。このとき、宗徒に組した土豪・社寺たちが多度大社で信長調伏を祈願したため、織田勢の報復を受けて社寺ともに焼失、社頭は荒廃した。下って慶長6年(1601)、桑名藩主となった本多忠勝が復興に着手、神領30石を寄進するとともに神事も再興。以後、歴代藩主のあつい庇護を受けて旧観へ復した。明治6年に県社へ列格、大正4年に国幣大社へ昇格。
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参考文献 公式パンフレット、境内掲示板、明治神社誌料、日本社寺大觀神社篇、神社事典、全国神社大要覧、全国神社名鑑、神詣で、角川日本地名大辞典、日本歴史地名体系 |
(フォト撮影日:平成17年12月18日、19年1月13日、20年10月4日) |