上行山安立寺
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市青木672 | ||
宗派 | 日蓮宗 | 本尊 | 曼荼羅および祖師像 |
創建 | 不詳 | 開基 | 諏訪部氏 |
開山 | 法輪坊日覚上人 | 本寺 | 西山本門寺 |
寺紋 | 十曜、鶴の丸 | 鎮守 | 八幡宮? |
交通 | JR西富士宮駅より北西3km 駐車場有 |
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安立寺は富士宮市青木のほぼ中央、西ノ山と通称される丘陵を背負って建っている。富士門流(西山本門寺末)の日蓮宗寺院で、山号は上行山、本尊は曼荼羅および祖師像。
開創は文献ごと差異があって判然としない。
寛永18年(1641)9月の棟札に、西山本門寺末流であることや、諸檀那の助成により建てられたことが記され、本願主は「法輪坊日覚」とある。『富丘村誌』『青木区誌』などはこの人を開山としている。
ただし、同棟札に「現当2世」の文字がみえ、また『日蓮宗寺院大鑑』を引くと「開山は不明。中興開山は法輪坊日覚」となっている。
くだって元文5年(1740)6月18日の棟札に、中興日覚の50遠忌につき住職と檀越諏訪部氏が協力して客殿(現本堂だろう)を再建した旨が記されている。となると、日覚は中興開山であり、寺は寛永18年以前に存立していたとみていいようだ。
なお安立寺の隣に八幡宮(祭神/天照大御神・応神天皇)が鎮座している。口碑によれば、古くは西ノ山2113番地に在ったが、慶長10年(1605)11月に現在地へ遷座。このとき社名を「権現」から「天照八幡」に改称したという。
日蓮系寺院は天照八幡を諸天善神として盛んに祀る。手もとの文献に安立寺と八幡宮の関わりを示す記述はないが、立地を鑑みれば無関係ではないだろう。ひょっとすると寺建立の際、地域の産土神(「権現」)を寺の鎮守とし、祭神を「天照八幡」に改変したのでは。開創=慶長10年と考えれば、寛永や元文の棟札とも符合する。
他の文献をみると、天明8年(1788)の『法華宗勝劣派西山本門寺寺院本末帳』に「上行山安立寺 駿州富士郡青木村」と所載。また江戸後期の諸地誌にも「安立寺 日蓮宗 西山本門寺末」と載る。
境内規模は、明治中期の『皇國地誌』に東西15間×南北20間、面積8畝14歩。大正期『富丘村誌』には境内254坪、本堂6間×4間半、境外所有地田畑山林5反1畝24歩2厘、檀徒20人と載る。
安立寺は西ノ山の東裾にたち、背に緑林を背負い、門前はいちめん農耕地。そばでは牛が草を食んでおり、いわゆる昔ながらの農村風景のなかにある。そんなのどかな景色を楽しみつつ民家のあいだの細い参道をゆくと、山の緑を背に本堂がたつ。
現本堂は元文5年(1737)建立の寄棟造。旧富丘村において最も古い建物とされる。明治7年、この本堂で小学新曦舎が開校され、同17年6月に青木学校へ移転するまで学校として用いられた。あるいは、明治以前から近隣の学び舎だったのかもしれない。
本堂のそばに水神が祀られている。表に「水神 妙法蓮華経蓮寿日宗」、裏に「川原新開廣大願主 嘉永五子年四月十二日卒 俗号諏訪部喜宗次政辰」。喜宗次政辰は水資源に恵まれなかった当地の水利発展につとめた人で、碑はかれの功績をたたえ建立されたようだ。
ごくつつましい墓地を見渡すと、「諏訪部」の姓がめだつ(というより諏訪部氏ばかり)。上で触れた喜宗次政辰氏も諏訪部氏、「由緒」で触れた開基檀越も諏訪部氏。あたりに諏訪部氏が多いのか、同氏の家寺なのか。おそらくその両方なのだろう。
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Tag ⇒ 寺院 富士宮市の寺院 富丘地区 青木 上行山安立寺 八幡宮(下耕地) 日蓮宗 西山本門寺 西山本門寺末寺 富士門流
Entry ⇒ 2012.12.09 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
〔社寺探訪〕青木巡拝
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平成24年10月20日(土)
しばらく訪ねていなかった富士宮市青木の神社・仏閣を思いつくまま再訪した。
- 探訪リスト
- 妙栄山法典寺→上行山安立寺→八幡宮(下耕地)→十頭森八幡宮→日吉神社(下条)→八幡宮(西ノ山)→林正山妙善寺→八幡宮(明善谷戸)→妙覚山大泉寺
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妙栄山法典寺(富士宮市青木)の移転計画を知った。いまのうちに現在のようすを撮影しておこうと思い立ち、法典寺を含めた青木の神社・仏閣を訪ねることにした。
ちなみにこの辺りは日蓮宗強勢につき、日蓮宗寺院と八幡宮ばかりなり。
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妙栄山法典寺
まずはお目当ての法典寺(日蓮宗/玉沢妙法華寺末)。11時45分。江戸の昔からここで活動してきたお寺だが、現在、市内山本への移転を計画している。
いまの境域は西ノ山のすそにあり、「急傾斜地崩壊危険区域」「土砂災害特別警戒地区」に指定されている。
堂宇はひどく荒れているものの、上記の理由により改築はかなわないため、こたび移転することになったという。(参拝前に移転予定地も見てきたが、まだ着工はされておらず)
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上行山安立寺
お次は安立寺。法典寺からやや南へ下ったところにある。11時56分。こちらも日蓮宗寺院で、旧本寺は西山本門寺。
本堂は元文5年(1737)建立。富丘地区における最も古い建造物とされる。明治期は小学校「新曦舎」の校舎としても用いられていた。
実に5年ぶりの参拝。なれども境内に変化はなく、ほっと一安心。本堂前で一礼し、一通り写真を撮り直し。
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八幡宮(下耕地)
続いて安立寺隣の八幡宮を参拝。12時8分。祭神は天照大御神、応神天皇。
口碑いわく、古くは西ノ山2113に鎮座していたが、慶長10年(1605)に遷座してきたという。現在、旧地には大山祇命を祀った石祠が建てられ、「古氏神様」と呼ばれ崇敬されているらしい。
こちらも5年ぶりの参拝。ごくささやかな社だが、青い竹林に抱かれていて、妙に趣がある。
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十頭森八幡宮
八幡宮(下耕地)を辞し、字見崎原鎮座の八幡宮へ。12時19分。こちらは、昔風にいえば青木村の村社にあたる。
江戸後期の諸地誌に「十頭森八幡宮」などと載り、古老はいまでも在地を十頭森(とうどのもり)と呼ぶそうだ。・・・由来は残念ながら知らない。
ここも久々なれど、これといった変化なし。シンボルである社殿屋根の神使(鳩)も健在。なお、手水舎に柿などが沈んでいた。イタズラなのか、はたまた意味(風習など)があるのか。分からないので、そのままにしておいた。
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日吉神社(下条)
続いて西ノ山八幡宮にいくつもりだったが、その前に下条日吉神社(浅間大社の旧摂社/旧郷社)へ寄り道。翌日が例祭なので、なにかそれらしい景色を撮影できれば、と考えて。12時44分。
思惑通り、まつりの準備は万端といったところ。幟や幕、きれいにならされた土俵などの写真をGET♪。いつか例祭本番の写真も撮りたい。
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続いて字西ノ山の八幡宮へ向う。この社は大石寺の参詣に使われた古い道ぞいに鎮座しており、その道の方々には道しるべや道祖神、題目塔が点在している。(写真左の道しるべには「左大石寺道」「右馬見塚村道」とある)
道しるべ 題目塔 道祖神 -
八幡宮(西ノ山)
13時3分、西ノ山の八幡宮に到着。祭神は応神天皇。旧社格は無格社。
古くから青木・坂下集落と馬見塚・小屋敷集落によって祀られ、こんにちの氏子は青木12戸、馬見塚12戸だという。
道ばたの鳥居をくぐって暗い林の中の石段を上がると社殿がある・・・のだが、大きな石祠が石段を塞ぐように建っている。祠は今月建てられたばかり。なぜ??。
怪訝に思いつつ祠を避けて石段を上がった。すると、この石段が存外きつい。1段の幅が狭く、しかも急で、手すりはついているものの、気をぬけば反りかえりそうで怖い。
階下の石祠は、参拝の便――石段を上がることができない人のこと――を考えたのかもしれないな、とふと思った。
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林正山妙善寺
続いて妙善寺。13時27分。ここもやはり日蓮宗である(身延久遠寺末)。
室町期の永正11年8月、久遠寺13世日伝の弟子林正院日躰が開創したとされる。現在の本堂は昭和56年改築。
境内に市内最大のシダレザクラがある。まぁ、この時期は変哲もない風景なのだけど。寺域はやや小高い場所にあり、視界の開けた駐車場からは富士山を一望できる……はずなのだけど、わたしが参拝するときはいつも雲の中。無念。
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八幡宮(明善谷戸)
お次は字明善谷戸の八幡宮。13時39分。「八幡宮」「須度神社」「須度八幡宮」などと称されているらしい。
西ノ山より遷座した社らしいが、手もとの史料乏しく、また詳しい縁起も伝えられていないことから、「なにも分からない」のが実情。
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青木めぐりの最後は、青木寄合の熊野神社を参拝予定だった。しかし、境内に人が大勢いたため、この日は泣く泣く回避。
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妙覚山大泉寺
現在 在りし日の山門 大泉寺(日蓮宗)に着いた途端、ひどく驚かされた。山門がない。跡形もなく、それはもう、きれいさっぱりと消えていた。どうやら建て替えらしい。
山門は万治3年(1660)建立で、同寺最古の建造物だった。平成になって本堂は改築されたものの、山門はそのままだったから、てっきり大切に保存していくものと思っていたのだけど…。華やいだ少女のようにかわいい門だっただけに、個人的にはかなり残念。
ま、こうなったら新たな山門に期待。基礎や案内板を見るかぎり、木造の四脚門だろうか。立派な本堂に負けない建築となりそうで、こと景観のつり合いに関しては、旧山門よりも優れそう。
Tag ⇒ 妙栄山法典寺 上行山安立寺 八幡宮(下耕地) 十頭森八幡宮 日吉神社(下条) 八幡宮(西ノ山) 林正山妙善寺 八幡宮(明善谷戸) 妙覚山大泉寺
Entry ⇒ 2012.10.26 | Category ⇒ 参詣履歴
八幡宮(下耕地)
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市青木字下耕地666 | ||
主神 | 天照大御神 応神天皇 | ||
創建 | 不詳 | 例祭 | 2月15日 10月17日 |
社地 | 242坪 | 社格 | 旧無格社 |
摂末 | 石祠5社 | 神徳 | 五穀豊穣・厄除けほか |
交通 | JR西富士宮駅より北西3km 駐車場有 |
羽鮒丘陵の北部、「西ノ山」と通称される丘陵のすそに、日蓮宗安立寺とならんで鎮座している。祭神は天照大御神、応神天皇。鎮座地の変遷はあるものの、古くから西ノ山で祀られ、江戸期は「神明八幡」と称していたようだ。
口碑によれば、古くは西ノ山2113に鎮座していたが、慶長10年(1605)11月1日に現在地へ遷座した。現在、旧地には大山祇命を祀った石祠が建てられ、「古氏神様」と呼ばれ崇敬されているらしい。
『富士郡神社銘鑑』を引くと、「元権現ト号セシテ慶長十年十一月天照八幡ト改称シタル趣棟札ニ記載シアリ」とある。断定はできないが、改称には日蓮宗安立寺が関わったのではなかろうか。
日蓮系寺院は天照八幡を諸天善神として盛んに祀った。手もとの文献に安立寺との関わりを示す記述はないものの、立地を鑑みれば同寺の鎮守として祀られてきたことは想像に難くない。ひょっとすると寺開創の際、地域の名もなき産土神(「権現」)を寺の鎮守とし、祭神を「天照八幡」に改変したのかもしれない。
ともかく、江戸初期には祀られていたらしく、境内には天和元年(1681)10月、正徳3年(1713)9月、天保14年(1843)3月の古い石灯籠が残されている。
くだって大正期の『富丘村誌』には境内242坪、鳥居(礎のみ存す)、拝殿2間×3間、雨覆9尺四方、本社8寸×7寸、例祭9月15日と所載。さらに石祠の境内社として天神社(菅原道真)、薬師神社(大己貴命、少名彦命)、山神社(大山祇命)が列記されている。
昭和初期の『富士郡神社銘鑑』でも境内規模は変わらず、崇敬者20名と付記されている。
南北に通じる旧道ぞいに幟台があり、そこから西へ約100mばかり歩くと鉄筋コンクリート製の明神鳥居(昭和46年10月寄進)が西ノ山の緑林を背にたつ。参道の左手は安立寺の駐車場で、鳥居の右手は同寺墓地となり、その先には本堂などが建っている。
鳥居をくぐり石段を上がると竹林に包まれた。西ノ山の自体は杉に覆われているが、神域付近は青い竹林である。おかげで神社というよりも、なにやら昔話にでてくる人里離れた庵のような雰囲気。俗世を離れた隠者や、籠を背負った翁がひょっこりと現れそう。
社殿は平成2年10月改築の入母屋造。足もとは堅牢な石垣、空はくだんの竹林に彩られ、なかなか趣あるたたずまい。手前に天和元年(1681)10月、正徳3年(1713)9月の灯籠が対をなし、ほかに小ぶりな力石が残されている。
神域南側には古びた石祠が5基並び、「山の神」としてひとくくりに信仰されているという。例祭は1月16日。もっとも、前述のように『富丘村誌』に天神社・薬師神社・山神社の名がみえ、また右から2基目には狐の置物がある。本来は異なる信仰の社たちだったのだろう。
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Tag ⇒ 神社 富士宮市の神社 富丘地区 青木 八幡信仰 八幡宮(下耕地) 上行山安立寺
Entry ⇒ 2008.09.12 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市