山宮浅間神社 鎮座1900年祭
富士宮市山宮の山宮浅間神社で平成22年9月19日、鎮座1900年祭が催された。厳粛な奉祝祭につづき、神楽や雅楽などが舞われ、多くの氏子・崇敬者が佳節を祝った。
山宮浅間神社は、富士山本宮浅間大社(以下本宮)の旧跡に祀られている。本殿は設けず、遥拝所から神奈備である富士山を仰ぎ、祭祀を行なう、古い自然信仰の姿を色濃くとどめた社である。
『富士本宮浅間社記』によると、本宮は垂仁天皇3年(前27)、富士山噴火を鎮めるべく山足之地に祀られたことに始まる。次ぐ景行天皇御代、日本武尊が、富士大神の加護によって野火の災いを免れたことから、大神を山宮へ奉斎した。これが山宮浅間神社の地である。下って大同元年(806)、坂上田村麿が勅により市中心部に壮大な社殿を造営。山宮から大神を遷し、現在の本宮となった。
以降山宮は、本宮の神跡として尊ばれた。主要祭礼に本宮の主要神職・社僧が参仕し、春と秋には大神が本宮から山宮へ里帰りする「山宮御神幸」が行なわれた。
大神が山宮へ奉斎された時期について、前述『富士本宮浅間社記』は「景行帝御宇」と記し、年度は明らかにしていない。しかし、本宮神職・公文富士氏の『富士本宮雑記』には、「景行天皇四十年庚戌年(110)」とある。
つまり今年は、大神が山宮に祀られてから1900年の佳節。節目の年を祝うべく、「鎮座1900年祭」が祭実行委員会主催、富士山本宮浅間大社、山宮全区協賛で開かれた。
午前10時、富士山の遥拝所(普通の神社で本殿に相当)に神職、氏子・崇敬者が集い、奉祝祭が始まった。神職の祝詞奏上やお祓い、巫女による豊栄の舞、関係者の玉ぐし奉てんと、厳かな神事は約30分間つづいた。遥拝所は氏子・崇敬者で満ち、入りきれない崇敬者が玉垣の外まであふれた。厳粛ななかにも熱気に包まれていた。
正午から、参道脇の山宮2区公会堂に場を移し、奉祝行事が行なわれた。浅間大社氏子の優雅な浦安の舞にはじまり、浅間大社伶人会・大仁雅楽会による舞楽「納曽利」がにぎにぎしく演じられた。さらに、北山の中学生が太鼓、地元小学生が合唱を披露。多くの地元住民があたたかく見守っていた。
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Entry ⇒ 2010.09.21 | Category ⇒ まつり
重須本門寺(北山本門寺) 末寺
重須本門寺(日蓮宗大本山)は、かつて100に迫る末寺(塔中・孫末ふくむ)を抱えた。維新後、廃寺や離脱で数を減らしたものの、いまも39か寺が本山とともに日蓮宗の興統法縁に属している。
現在の直末寺院は次のとおり。(重須本門寺塔中は >>こちら)
寺名 | 所在地 |
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近北門中 | |
大久山本妙寺 | 静岡県富士宮市北山4160 |
玉樹山正林寺 | 静岡県富士宮市北山1350 |
富士山東光寺 | 静岡県富士宮市下条343 |
妙見山宗円寺 | 静岡県富士宮市馬見塚515-1 |
蓮華山本源寺 | 静岡県富士宮市原873 |
立正教会 | 静岡県富士宮市上井出760 |
富士山法華寺 | 静岡県富士宮市宮原477 |
近南門中 | |
成就山本国寺 | 静岡県富士市今泉1-1-1 |
八王子山妙善寺 | 静岡県富士市田端町1132 |
大鏡山本光寺 | 静岡県富士宮市宝町13-20 |
久日山福泉寺 | 静岡県富士市天間802 |
道場山妙隆寺 | 静岡県静岡市清水区蒲原1395 |
駿田門中 | |
実成山久成寺 | 静岡県御殿場市清後559 |
富蔵山本能寺 | 静岡県沼津市獅子浜240 |
宝樹山伊豆国分寺 | 静岡県三島市泉町12-31 |
伊東山蓮正寺 | 静岡県伊東市芝町13-5 |
光照山妙典寺 | 静岡県御殿場市山之尻145 |
相模門中 | |
本興山常在寺 | 神奈川県海老名市社家3746 |
宝松山本禅寺 | 神奈川県厚木市飯山3515 |
白東山宗川寺 | 神奈川県横浜市瀬谷区瀬谷町1466 |
弁財山蓮妙寺 | 神奈川県茅ヶ崎市芹沢2472 |
東京門中 | |
泉光山蓮華寺 | 東京都中野区大和町4-37-15 |
萬年山法輪寺 | 東京都新宿区西早稲田1-1-15 |
須加山本法寺 | 埼玉県行田市須加1919 |
甲斐門中 | |
法永山本照寺 | 山梨県韮崎市竜岡町下条東割499 |
蓮華山正法寺 | 山梨県中巨摩郡昭和町押越2165 |
中央山本妙寺 | 山梨県中巨摩郡昭和町押越850 |
興榮山本源寺 | 山梨県北杜市長坂町中丸3904 |
佐渡門中 | |
令法久住山世尊寺 | 新潟県佐渡市竹田643 |
法教山本光寺 | 新潟県佐渡市泉377 |
戸河山本興寺 | 新潟県佐渡市下相川285 |
紀備門中 | |
法輪山本覚寺 | 和歌山県和歌山市数寄屋町14 |
大導山顕本寺 | 岡山県岡山市北区芳賀2629 |
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新六日郷が正和元年(1312)に開いた古刹。大正7年の『寺院財産調』では「境内地1,317坪、境外地6町2反4畝26歩、本堂58坪、庫裏33坪、垂迹堂6坪、門1坪、鐘楼堂4坪、回廊4坪、附属建物11坪、檀徒99」とある。◆所在地/富士宮市北山4160。宗派/日蓮宗。本尊/曼荼羅。
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六老僧日頂が乾元元年(1302)3月に小林寺として開創。のち常林寺、さらに正林寺へ改号した。安政3年『諸末寺書上扣』に「富士郡横道 正林寺」、慶応4年『本門寺書上縁起』に「上人格 正林寺」と所載。境内に日頂の廟所がある。◆所在地/富士宮市北山1350。宗派/日蓮宗。本尊/曼荼羅。
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開創は鎌倉期の正応5年(1292)2月8日。日興が母妙福尼の3回忌に際し、本六日禅に命じて両親ならびに一門の墓を移させた霊跡。江戸期は朱印高3石。現在の本堂は昭和初期、重須本門寺塔中西之坊の本堂を移築した。◆所在地/富士宮市下条343。宗派/日蓮宗、本尊/曼荼羅。
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開創は江戸初期の寛永5年(1628)9月。隣接する妙見神社の管理者・渡井宗右衛門が発願して1宇を建立し、重須本門寺12世日賢を請じて開山した。山号は妙見神社、寺号は開基檀越の名にちなむと考えられている。◆所在地/富士宮市馬見塚515-1。宗派/日蓮宗。本尊/曼荼羅。
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慶長3年(1598)に重須本門寺12世日健が、富士郡和田(外神)に開創した。21年後の元和5年(1619)、弟子恵光坊日仙が当地へ移した。昭和9年、中興15世が入山。戦後、精力的に諸堂を建て、現在の寺容を整えた。◆所在地/富士宮市原873。宗派/日蓮宗。本尊/曼荼羅。
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重須本門寺33世日信が明治4年、万野原地区に入植した旧幕臣の檀那寺として開創した。一時衰微したが、地域の人口増加にともない寺勢を回復。昭和44年に本堂、同52年に客殿、同59年には庫裏・位牌堂を新築した。◆所在地/富士宮市宮原477。宗派/日蓮宗。本尊/曼荼羅。
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大永5年(1525)重須本門寺日国が城山に開創し、のち現在地に移転した。寛政3年(1791)客殿修繕・鐘楼堂建立、安政2年(1855)地震で倒壊、20~21世の代に復興。現本堂は大正12年に再建した。菩提樹は市天然。◆所在地/富士市今泉1-1-1。宗派/日蓮宗。本尊/大曼荼羅。
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寺記によると、古くは八王子堂(真言宗)といった。寛永18年(1641)重須本門寺13世日延が八王子堂住持を折伏し、八王子堂を譲り受けた。のち、その地に堂宇を建立し、明暦3年(1657)に八王子山妙善寺と号した。◆所在地/富士市伝法1132。宗派/日蓮宗。本尊/曼陀羅。
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開創は大永5年(1525)。重須本門寺7世日国が神田橋付近に建立し、富士山本光寺と号した。天正13年(1585)駿河代官井出志摩守の支援により、現在地へ拡張移転。境内地形が姿鏡に似ていることから、山号を大鏡山に改めた。◆所在地/富士宮市宝町13-20。宗派/日蓮宗。本尊/曼荼羅。
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吉野万右衛門が、重須本門寺の日悟を招じて開創した。江戸期は35間×80間の境内地に客殿、庫裏、山門、鐘楼、鬼子母神堂があり、4斗8升3合の除地があった。明治初期、塔頭玄了坊、山本法伝寺、川坂清流寺を合併した。◆所在地/富士市天間802。宗派/日蓮宗。本尊/曼荼羅。
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重須本門寺(北山本門寺) 塔中
重須本門寺の塔中はこんにち、養運坊・西之坊・養仙坊・蓮行坊・東陽坊・行泉坊の6か坊となっている。いずれも本山と同じく日蓮宗の興統法縁に属している。
寺名 | 所在地 | 創建年 | 開山 |
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養仙坊 | 北山4954 | 永仁6年(1298) | 日華 |
蓮行坊 | 北山4952 | 日国 | |
行泉坊 | 北山4956 | 日道 | |
養運坊 | 北山4951 | 永仁6年(1298)3月 | 日代 |
西之坊 | 北山4957 | 永仁6年(1298)3月 | 日助 |
東陽坊 | 北山4949 | 応永7年(1400) | 日恩 |
所在地/静岡県富士宮市北山4954。宗派/日蓮宗。◆本六日華が永仁6年(1298)に開創。
所在地/静岡県富士宮市北山4952。宗派/日蓮宗。◆重須本門寺7世日国が開創。昭和50年本堂改築。
所在地/静岡県富士宮市北山4956。宗派/日蓮宗。◆上条大石寺4世日道が開創。昭和14年再建決議。
所在地/静岡県富士宮市北山4951。宗派/日蓮宗。◆新六日代が永仁6年(1298)3月に開創。昭和50年10月、本堂改築。
所在地/静岡県富士宮市北山4957。宗派/日蓮宗。◆新六日助が永仁6年(1298)3月に開創。
所在地/静岡県富士宮市北山4949。宗派/日蓮宗。◆重須本門寺3世日恩が応永7年(1400)に開創。昭和27年本堂改築。
天明6年(1786)の『法華宗勝劣派北山本門寺派寺院本末帳』では塔中28か寺、安政3年(1856)の『諸末寺書上扣』では塔中25か寺が載っている。次は『諸末寺書上扣』に載った塔中。
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重須本門寺(北山本門寺)
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市北山4965 | ||
宗派 | 日蓮宗 | 寺格 | 大本山 |
本尊 | 曼荼羅 | 創建 | 永仁6年(1298) |
開基 | 石川能忠 | 開山 | 白蓮阿闍梨日興上人 |
寺紋 | 鶴の丸、三巴 | 鎮守 | 垂迹堂、重須大神 |
備考 | 貞観政要巻第一 藍紙細字金字法華経(以上、重文)、曾我物語重須本(県文)、題目杉(県天然) | ||
交通 | JR富士宮駅より北6km 駐車場有 |
県道414号と国道469号が交わる「本門寺入口」交差点から東へわずかに歩くと、本門寺の豪壮な仁王門が現れる。地名を冠し「重須本門寺」「北山本門寺」などと呼ばれるこの寺は、日蓮の高弟日興が鎌倉期に開いた古刹。いまは日蓮宗大本山に列している。
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日興は日蓮入滅後、甲斐国・身延山久遠寺で祖廟の輪番守塔にあたった。しかし、地頭波木井実長らと教義上の確執が生じたため、正応元年(1288)12月に離山。布教拠点だった駿河国富士郡におもむき、熱心な法華信者だった上野郷地頭南条時光に迎えられた。
日興は正応3年、南条氏の寄進により大石寺を建立。次いで重須郷に移り、日蓮十七年忌にあたる永仁6年(1298)2月15日、重須郷の地頭石川能忠や南条時光、小泉法華衆、上野講衆の協力により、御影堂・本化垂迹天照大神宮・法華本門寺根源の3堂を造営した。本門寺の始まりである。
また檀林の重須談所を設立。正慶2年(1334)に入滅するまで、重須で後進育成にあたった。
日興入滅後、高弟日代が重須本門寺を継承した。しかし地頭石川氏や衆徒と対立し、康永2年(1343)重須を離山。日代は西山の領主大内安清に招かれ、同所に西山本門寺を建立。宗門は二分した。
以降、両寺は正嫡・寺号相承をめぐって相論を続けつつも、日興門流の中核寺院として発展していく。
重須本門寺は中世、駿河守護今川氏歴代のあつい保護を受けた。今川氏親は永正12年(1515)6月、7世日国に日蓮の正嫡であることと「本門寺」の寺号相承を認め、大永2年(1522)3月には守護不入の安堵や棟別・諸役の免除を行っている。
今川氏輝は享録3年(1530)1月、諸役免除や寺号相承を重ねて安堵。今川義元も天文5年(1536)9月、北山重須郷一円の百姓職や諸役免除を安堵し、同13年にも判物で当寺を保護した。
ところが、武田信玄の駿河侵攻を境に、重須を取り巻く状況は暗転した。駿河を奪った武田氏は、西山本門寺を外護し、重須を冷遇した。(時の西山住職日春は武田氏出身とも)
永禄12年(1569)2月4日、信玄の駿河侵攻による兵火で伽藍焼失(天正6~7年再建)。天正9年(1581)3月17日には、武田氏の奉行増山権右衛門と西山衆、興国寺奉行衆が重須に押し入り、重宝100余点を略奪した。重須は同月27日、武田氏に重宝の返還を訴えたが、受け入れられなかった。まさに冬の時代である。
しかし武田氏が滅び、徳川家康の治世になると、重須本門寺は家康の外護を受けた。
家康は天正10年(1582)甲斐攻略のさい、重須に武運長久の祈祷を要請し、9世日出は日蓮直筆の曼荼羅(鉄砲御本尊)を貸与。戦後、家康は曼荼羅のおかげで鉄砲の難を避けられた礼に陣羽織を納め、さらに日出が望んだ用水路の開削に着手。井出志摩守正次の指揮により、同年12月本門寺堀(北山用水)が完成した。
また、武田氏に奪われていた重宝の一部が、家康の重臣本多正信、甲斐の平岡岡右衛門によって返還されている。
天正18年(1590)3月10日、徳川家康の5か国検地により、寺内・門前をのぞく寺領が180俵と確定。同年12月28日、豊臣秀吉から寺領50石や諸役免除などが認められた。
江戸期は日蓮法華宗勝劣派の一本寺で、朱印50石。年頭御礼の江戸参府では帝鑑間詰、独礼席、乗輿御免の資格を有した。
天明6年(1786)の『法華宗勝劣派北山本門寺派寺院本末帳』を引くと、塔頭28か寺、末寺43か寺。安政3年(1856)10月の『諸末寺書上扣』では、本末合わせて99か寺で、うち直末41か寺、孫末4か寺、塔頭48か院(26か院は畳置)、持庵5か院の規模だった。
寛永18年(1641)8月、14世日優は3代将軍家光の側室お楽の方(宝樹院)の安産を祈願。その報恩としてお楽の方は、緋紋白の五条袈裟、金入七条袈裟を寄進し、のち日優に書状も送っている。
またお楽の方の母・泉光院増山氏は万治元年(1658)、江戸目白台へ泉光山蓮華寺を建立して重須本門寺末とし、日優を開山に招聘。貞享元年(1684)12月2日には、本門寺五重塔の建立資金として金300両を寄せ、ほかにも山門や黒門などの造営に尽くした。
明治9年、重須本門寺をふくむ富士門流の8本山(重須本門寺、上条大石寺、下条妙蓮寺、小泉久遠寺、西山本門寺、伊豆実成寺、京都要法寺、保田妙本寺)および関連諸山は、「日蓮宗興門派」を結成し、同32年「本門宗」へ改称した。重須本門寺は同宗総本山で、宗務院がおかれた。
同33年、大石寺が末寺とともに本門宗より独立し、「日蓮宗富士派」を公称。大正元年、「日蓮正宗」へ改称した。
本門宗は昭和16年、日蓮宗、顕本法華宗と三派合同を行い、日蓮宗を結成。重須本門寺は同宗七大本山のひとつとなった。現在は興統法縁の縁頭寺。
仁王門の南2km、外神の甲州街道から参詣道が分かれている。追分の道しるべには「本門寺道 従是十五町五拾間」。道はまっすぐで、一部は草に深く埋もれて古道の趣。昔はここに土手門、冠木門、総門、三門が建っていたが、いまは礎石が名残をとどめるのみ。
やがて左右に塔中が現れ、これを通りすぎると仁王門につく。市街地から遠く、杉や桧、桜の木々に抱かれた静かな環境だ。門をぬけると左手に法喜門、正面に二天門。法喜門の奥には客殿や大庫裏、題目杉がたち、二天門の先には本堂や開山堂、鐘楼堂などがある。
本堂の後ろは一面、ほの黒い林となっている。静謐な空間だ。杉桧のあいだに下草や苔が生え、その緑の絨毯へ木漏れ日がまだらに落ちる様子はとても美しい。そこに、ふたつの社が鎮まっている。本化垂迹天照大神宮と重須大神。林に溶け込み、「聖」を濃く漂わせる。
なお重須本門寺はしばしば火災にあい、古色を帯びた建物は少ない。特に明治43年の火災では、五重塔をはじめほとんどの堂宇を失ってしまった。のち復興は進んだものの、五重塔はいまだ再建にいたらず、偉容を誇っていた旧観に復したとは言い難いようだ。
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天明6年(1786)の『法華宗勝劣派北山本門寺派寺院本末帳』を引くと、塔頭28か寺、末寺43か寺。安政3年(1856)10月の『諸末寺書上扣』では本末合わせて99か寺で、うち直末41か寺、孫末4か寺、塔頭48か院(26か院は畳置)、持庵5か院の規模だった。
現在の直末は39か寺(県内23か寺、県外16か寺)。内訳は、塔中6か寺、近北門中7か寺、近南門中5か寺、駿田門中5か寺、相模門中4か寺、東京門中3か寺、甲斐門中4か寺、佐渡門中3か寺、紀備門中2か寺。
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神力神社
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名称 所在 静岡県富士宮市北山字貫間418
主神 貫間大明神 創建 不詳
例祭 9月19日(陰暦) 敷地 459坪
神紋 七曜(本殿) 社格 旧無格社
備考 重須本門寺元末社(末寺) 神徳 不詳
交通 JR富士宮駅より北6km 駐車可能
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本門寺本化垂迹天照大神宮の末社
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社頭風景 |
神力神社は、重須本門寺から700mほど離れた甲州街道沿いにある。
重須本門寺と関わりが深く、『富士郡北山村誌』によれば、寛永14年(1637)の棟札に「本門寺垂迹堂の末社を改め神力寺の号となす」とあったといい、明治初年ごろ神社へ復したという。
安政3年(1856)の『諸末寺書上扣』に重須本門寺の末寺として「貫間村 神力寺」と見え、慶応4年(1868)の『本門寺書上縁起』にも「平寺 神力寺」と所載。それが明治16年の『皇國地誌編輯』では「天手力社 祭神天手力命」となっている。神社に復した事由は伝えられていないが、おそらく廃仏毀釈のあおりを受けたのだろう。
ほかの記録をみると、延宝6年(1678)神像奉献時の法華曼荼羅に「奉造立本化天照八幡宮 神力寺大明神之尊像壱体 本門寺根源」。重須本門寺33世日信が安政6年(1859)に納めた棟札には「貫間村玉山神力大明神修覆成就」とある。
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拝殿兼覆屋 |
神域は、農地が広がるのどかな風景のただ中。まわりに高い建物はなく、見晴らしがすこぶるいい。甲州街道に東面した鳥居をくぐり石段を上ると、小粒な砂利敷きの広場。木々は少なく開放的で、青くひらけた空と白っぽい地面でひどく明るい。境内に貫間区公会堂や遊具、ゴミ集積場が設けられ、地域交流の場になっているようす。
社殿は北西角に南向きで建つ。えんじ色の屋根が明るい寄棟造りで、どこか仏堂風。隣の公会堂に比べれば簡素な建物である。なかに古色を帯びた朱塗りの本殿、神輿が安置されている。参道に文化10年(1813)、文政4年(1821)9月、社殿前には天保10年(1839)4月奉献の石灯籠が残されている。
祭神は貫間大明神で、神像は座した女神。いずれの神か判然としないが、『富士郡北山村誌』は「本門寺垂迹堂の祭神天照皇大神に縁由ある神ではなかろうか。伊勢神宮の相殿神である天手力雄神、あるいは萬幡豊秋津姫命か」と推量している。
前述の『皇國地誌編輯』は「天手力社 祭神天手力命」と紹介しているし、女神像から萬幡豊秋津姫命も連想できる。一方、延宝6年(1678)の棟札に「奉造立本化天照八幡宮」とあるから、むかしは垂迹神として天照皇大神や八幡神を祀っていた可能性もあるだろう。また神話の神ではなく無名の地主神だったかもしれない。
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参考文献 皇國地誌編輯、富士郡北山村誌、富士郡神社銘鑑、岳南朝日、北山区のあゆみ、月の輪、富士宮市の棟札集成、本門寺並直末寺院縁起、日本神祇由来事典、神道事典、日本神名辞典 |
Tag ⇒ 北山地区 北山 貫間 重須本門寺(北山本門寺) 重須本門寺(北山本門寺)末寺
Entry ⇒ 2010.03.28 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市 | Trackbacks (0)
玉樹山 正林寺
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名称 所在 静岡県富士宮市北山1350
宗派 日蓮宗 本尊 曼荼羅
創建 嘉元元年(1303) 開山 日頂上人
本寺 寺紋 鶴の丸
備考 日頂上人廟所
交通 JR富士宮駅より約6.8km 駐車場有
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鎌倉末期の開創
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境内入口 |
重須本門寺から北へ約400mゆくと末寺の正林寺がある。山号は玉樹山。日蓮の最高弟「六老僧」のひとり伊豫阿闍梨日頂が乾元2年(1303)2月16日に開いた日蓮宗の古刹だ。
日頂は建長4年(1252)に重須郷、いまの富士宮市北山に生まれた。
幼いころ父・南条伊豫守定時を亡くし、母の再縁により下総国八幡荘の豪族・富木常忍の養子となった。富木は日蓮の強力な檀越で、後年出家して日常と名乗り、中山門流の祖となった人である。
8歳のとき天台宗求法寺(千葉県)の化主了性に入門して伊予坊と名乗ったが、のち日蓮に師事して日頂と改名。これには養父の影響があったのだろう。以降、日蓮の佐渡配流や身延入山に随従して修学。日蓮から学生・器量者と評価された。
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真新しい本堂 |
のち求法寺を日蓮宗弘法寺に改め、ここを拠点に教線拡大に努めたが、後年は生まれ故郷の重須に隠棲した。重須を選んだのは、重須本門寺に法兄日興がいて、日興のもとに実弟日澄(本門寺初代学頭)がいたからだろう。
重須に居を移したのは乾元元年(1302)3月8日と伝えられ、翌年「小林寺」を創建。そこから本門寺に通い、日興を助けながら後進育成に携わり、文保元年(1317)3月8日、66歳で入寂した。
のちに小林寺は常林寺、さらに正林寺へ改号。本門寺末となり、安政3年(1856)の『諸末寺書上扣』に「駿州富士郡横道 正林寺」、慶応4年(1868)の『本門寺書上縁起』には「上人格 正林寺」と載っている。
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日頂上人廟所 |
寺域一帯は畑地がつづく素朴な風景。幹線道路から離れた静かな環境にある。辺りに高層建築はなく、背後にそびえる富士山がやけに大きく感じた。
門前に題目塔がぽつんと立っている。寛政2年(1790)建立と古く、正面に「日頂上人示寂之霊地也」。その先に幾ばくかの木々に守られて本堂・庫裡が建つ。本堂は再造営したばかりらしく、壁の白さが際立っていて、やや周りの景色から浮いた印象。
本堂の左手、植栽に囲まれた一角に日頂の墓所がある。入口の石碑に「伊予阿闍梨日頂上人御正廟」とあり、表に「玉樹山正林寺」、裏に「真間山弘法寺」の寺名も刻まれている。日頂と両親、妹が供養され、中央の石葺き土盛が日頂の墓とされる。
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参考文献 境内掲示板、皇國地誌編輯、富士郡北山村誌、本門寺並直末寺院縁起、富士重須本門寺、日蓮宗寺院大鑑、日興上人、日蓮辞典、日本仏教史辞典、日本仏教人名辞典 |
Tag ⇒ 北山地区 北山 日蓮宗 重須本門寺(北山本門寺) 重須本門寺(北山本門寺)末寺
Entry ⇒ 2010.03.19 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市 | Trackbacks (0)
峯 八幡宮
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名称 所在 静岡県富士宮市北山字峯4526
祭神 応神天皇 野見宿禰 鬼子母神
創建 不詳 敷地 75坪
祭日 八幡宮:1月16日 10月16日、鬼子母神:8月17日
社格 旧無格社 神徳 五穀豊穣・厄除けほか
交通 JR富士宮駅より約6.8km 駐車可能
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重須本門寺と深い関わり
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社頭風景 |
北山地区は八幡宮が多い。小祠を除く14社のうち9社、じつに3分の2が八幡宮である。この地区は古くから日蓮宗が盛んで、八幡神は法華守護の護法神として積極的に祀られてきた。
そのひとつが峯に鎮座している。ごく小さな社だが、日蓮宗大本山の重須本門寺と関わりが深く、八幡神と野見宿禰、それに鬼子母神を祀っている。
縁起によれば、八幡神は延宝4年(1676)2月16日、重須本門寺の垂迹堂から遷座した。垂迹堂とは本化垂迹天照大神宮のことで、鎌倉後期の本門寺創建時に建てられた堂宇。名の示すように天照大神を祀るが、江戸後期の『駿河記』に「本化垂迹堂天照皇大神宮八幡大菩薩」とあるから、八幡神も祀られていたらしい。垂迹堂はいまも本門寺に在るので、当地には神像のひとつを遷した、ということだろう。
本門寺垂迹堂から遷された理由は詳らかでない。ただ鎮座地は正林寺(本門寺末)の鬼門にあたるため、同寺が鎮守として勧請した、といったところか。あるいは6年前の寛文9年(1668)に垂迹堂が焼失したことが遠因かもしれない。
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左から野見宿禰、八幡神、鬼子母神 |
一方、鬼子母神は明治8年に祀られた。これも本門寺にあったという。
江戸後期の『駿河記』『踏査聞書縁起』などを引くと、本門寺堂宇に「鬼子母神堂」が見える。本門寺塔中養運坊の過去帳によれば延宝3年(1675)9月に勧請されたという。それが明治10年8月の『明治書上縁起』では堂宇のリストから外れている。
やはり本門寺にあった宮原法華寺(本門寺末)の鬼子母神像は、明治の宗制改正に伴い本門寺山内での祭祀が不許になったため移された、という。つまり維新後、本門寺の鬼子母神堂は破却され、神像は宮原法華寺や峯八幡宮に移されたようだ。
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円頂衲衣姿の八幡神像 |
畑地が多いのどかな地域の一角に、明神鳥居が平屋建ての社殿兼区民館を背にたつ。外観は完全に区民館で、もし鳥居がなければ神社だと気づきそうにない。あたりに高い建物はなく、富士山が裾野まできれいに見えた。
地元の方に区民館へ上げていただき参拝した。静まった建物の奥、観音開きの戸棚に厨子&神像が並んでいた。左から野見宿禰、八幡神、鬼子母神。野見宿禰と八幡神は座像、鬼子母神は立像。各々はさほど大きくはないが、3体並ぶとなかなか見栄えがいい。
八幡神像は円頂衲衣姿。いわゆる僧形八幡神である(あるいは御影か)。寺院と結びつきが強いだけのことはある、とひどく得心。野見宿禰は衣冠装束姿で、頭部が傾ぎ、目つきが怖い。鬼子母神はふくよかな顔つきのお母さん風。手にするはずのザクロは欠損していた。
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⇒ 画像倉庫 |
参考文献 区民館内の由緒書、駿河記、修訂駿河国新風土記、駿河志料、富士郡北山村誌、富士郡神社銘鑑、北山区のあゆみ、本門寺並直末寺院縁起、宮原区誌 |
Tag ⇒ 北山地区 北山 八幡宮 日蓮宗 重須本門寺(北山本門寺)
Entry ⇒ 2010.03.14 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市 | Trackbacks (0)
前坂稲荷神社
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名称 所在 静岡県富士宮市北山字下組968
主神 宇迦之御魂神 創建 不詳
例祭 2月初午日 敷地 20坪
社格 旧無格社 神徳 五穀豊穣、家内安全ほか
交通 JR富士宮駅より北6.4km 駐車場無
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参考文献 境内石碑、富士郡北山村誌、富士郡神社銘鑑、富士宮市の棟札集成、月の輪、富士宮市歩く博物館ガイドブック、北山区のあゆみ |
Tag ⇒ 北山地区 北山 稲荷信仰
Entry ⇒ 2010.02.09 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市 | Trackbacks (0)
大久保 八幡宮
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名称 所在 静岡県富士宮市北山字大久保4160
主神 応神天皇 配神 月読尊(『富士郡北山村誌』)
創建 不詳 例祭 9月15日(陰暦)
敷地 本妙寺境内 社格 旧無格社
神徳 五穀豊穣・厄除けほか
交通 JR富士宮駅より北7.5km 駐車場有
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本妙寺境内に鎮座
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社殿側面 |
北山の大久山本妙寺(日蓮宗)境内に八幡宮が建つ。大久保や小野沢など付近一帯の鎮守で、主祭神に応神天皇、相殿に月読神を祀る(『富士郡北山村誌』)。本妙寺の鎮守堂然とした佇まいながら、同寺とは別に神社本庁包括の宗教法人として登記している。
社殿は、本妙寺本堂の左手。寺域を縁どる杉桧の木立へ食い込むように、本殿と拝殿が連なっている。本殿はスリムな平入り、一回り大きい拝殿は入母屋造り。ともに平成8年再建と新しく、白壁もきれい。「母屋」たる本妙寺本堂に比べれば小さいが、なかなか端正だ。
ただ鳥居や狛犬、社号標・神額といた装飾はなく、神社らしさを感じさせる部分といえば向拝の注連縄くらい。この部分では、ひどくあっさりとした印象である。
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社殿全面 |
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社殿と本妙寺本堂 |
当八幡宮はもともと他所で祀られていたといい、大正9年編纂の『富士郡北山村誌』には60年前に遷座した、と載る。だいたい幕末のころとなる。
創祀年月を示す資料はないが、棟札を多数残しており、最も古いものは江戸前期の明暦3年(1657)12月。いずれも法華曼荼羅で、ほとんど本妙寺の住職により納められている。日蓮宗は八幡神を護法神として積極的に祀ったが、当八幡宮も現在地に遷る前から本妙寺によって管理されていたようだ。
以下、棟札から変遷を追ってみる。
元禄10年(1697)に「奉勧請月読神擁護所」。このとき月読神を勧請、あるいは神座を再造営したらしい。富士地区では月読神はたいへん珍しい。
享保14年(1729)雨屋を建て、明和4年(1767)拝殿を再造営。享和元年(1801)拝殿修復、文化13年(1816)鳥居などを造り、明治44年に屋根を葺き替えた。願主や世話人に大久保、小野沢、町屋、下宿など周辺地域民が名を連ねている。
なお安政3年(1856)の棟札のみ、本妙寺の本寺・重須本門寺が納めている。さらに名を連ねる世話人・大工の数が多い。先に触れた八幡宮遷座の時期と重なることから、これが遷座時の棟札かもしれない。
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⇒ 画像倉庫 |
参考文献 富士郡北山村誌、富士郡神社銘鑑、本門寺並直末寺院縁起、北山区のあゆみ、富士宮市の棟札集成、富士宮市の伝統建築 |
Tag ⇒ 八幡信仰 北山地区 北山 重須本門寺(北山本門寺)
Entry ⇒ 2010.01.28 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市 | Trackbacks (0)
大久山 本妙寺
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名称 所在 静岡県富士宮市北山4160
宗派 日蓮宗 本尊 曼荼羅
創建 正和元年(1312) 開山 日郷上人
本寺 寺紋 鶴の丸、三巴
鎮守 八幡宮
交通 JR富士宮駅より北7.5km 駐車場有
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鎌倉期の正和元年に開山
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整備された桧並木の参道 |
本妙寺は、日興の高弟「新六」のひとり日郷が正和元年(1312)に開いた古刹。寺号は本門十妙を略したという。
日郷は小泉久遠寺(日蓮宗本山)や保田妙本寺(単立)など日興門流の主要寺院を開いたことで知られ、本妙寺は日郷が初めに開いた寺とされる。
開創後の沿革は不明だが、江戸期は重須本門寺の末寺になっている。安政3年(1856)の重須本門寺『諸末寺書上扣』に「駿州富士郡大久保村 本妙寺」、慶応4年(1868)『本門寺書上縁起』に「除地高3石5斗 院代上人寺 本妙寺」。本門寺末寺の中でも格の高い寺だったようだ。末寺に円覚坊があったが、明治期に吸収合併している。
明治16年調査の『皇國地誌編輯』によると、当時の規模は「東西37間 南北16間 面積4町8畝8歩」。大正7年の『寺院財産調』では「境内地1,317坪、境外地6町2反4畝26歩、本堂58坪、庫裏33坪、垂迹堂6坪、門1坪、鐘楼堂4坪、回廊4坪、附属建物11坪、計118坪、檀徒99」。往時はかなり広い土地を有したらしい。
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山門 |
寺域は重須本門寺の北西1.2km。旧国道139号(県道414号)沿いに建ち、すぐ南側に北山小学校の大きな体育館が見える。余談になるが、北山小学校の前身は「北明舎」といい、明治6年の学制施行を受けて本妙寺境内で開校している。
入口に題目塔がたち、そこから整備された参道が一筋。すらりと伸びた桧が並木づくり、両側には平成19年奉納の真新しい灯籠が間隔をあけてたつ。
突き当たりの山門をぬけると、正面に本堂、右に鐘楼堂。本堂は銅板葺きの入母屋造り。シンプルな造形だが、朱塗りの向拝に浮び上がる手挟の彫刻は色鮮やかで目を引く。本堂の左に八幡宮がたち、裏手へまわると山林越しに雄大な富士山。
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入母屋造りの本堂 |
開山の日郷は越後国の人。延慶3年(1310)大石寺久成坊日世について得度、のち日興や日目(大石寺3祖)に師事した。若くして頭角を現し、正和元年(1312)に日興の命により本妙寺を開創。弱冠20歳のことだった。
日興の晩年には「新六」に選ばれ、元弘3年(1333)日目の上洛に随行。日目が道中で入寂すると、遺骨を大石寺に持ち帰った。ほどなく大石寺塔中蓮蔵坊の組織・機構を小泉久遠寺に移して大石寺を離れ、やがて安房法華堂(現妙本寺)に居を移した。
その後の活動を追うと、暦応元年(1338)足利尊氏から安房法華堂の坊地寄進を受け、康永3年(1344)小泉へ戻り、翌年3月には天奏して光明天皇より綸旨及び嵯峨天皇宸翰法華経10巻を拝領。文和2年(1353)4月25日、61歳で入寂した。
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参考文献 駿河記、修訂駿河国新風土記、皇國地誌編輯、富士郡北山村誌、北山村地史、本門寺並直末寺院縁起、富士門流の歴史重須篇、日興上人日目上人正伝、日蓮宗寺院大鑑、富士宮市の伝統建築、富士宮市史、北山区のあゆみ |
Tag ⇒ 日蓮宗 北山地区 北山 重須本門寺(北山本門寺) 重須本門寺(北山本門寺)末寺
Entry ⇒ 2010.01.26 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市 | Trackbacks (0)