富士山の南西麓、御塔川(潤井川)のほとりに壮大な伽藍を構えている。山号は多宝富士大日蓮華山。日蓮の高弟日興によって開かれた古刹で、日興の法脈を継承する富士門流の主要寺院。こんにちは日蓮正宗700か寺の総本山である。
- 開創
- 中世
- 江戸期以降
日興の身延離山と大石寺開創
日蓮の高弟・六老僧日興は、宗祖の入滅後、身延山久遠寺で祖廟の輪番守塔にあたった。しかし、同じ六老僧の日向や地頭波木井実長らと教義上の確執が生じたため、正応元年(1288)に久遠寺を離山。布教拠点だった駿河国富士郡へ向かい、熱心な法華信者だった上野郷地頭南条時光に迎えられた。
日興ははじめ南条氏の持仏堂(現・下之坊)に寄宿し、正応3年(1290)10月、南条氏の寄進により大石ヶ原に大坊を建立した。大石ヶ原は、南条氏居館の鬼門にあたる。さらに随行した高弟の日目や日秀、日仙、日華らが坊を建て、延元2年(1337)までに「表塔中」と呼ばれる13の塔中が成立。こうして大石寺の基礎が築かれた。
現在の大坊(奥)
日興は、宗祖十七年忌にあたる永仁6年(1298)2月、南条時光や重須郷地頭石川能忠らの助力により、重須本門寺(北山本門寺)を建立。また壇林として重須談所を設け、正慶2年(1333)2月に入滅するまでの36年間、重須で後進育成に努めた。
身延山を離れた日興は、南条氏に迎えられる前、外祖父由比入道の屋敷(富士郡上方庄河合)に逗留した。のち日禅に命じてその地に妙福寺を建て、両親の菩提を弔ったと伝えられる。
妙福寺は焼失して廃れたが、元禄年間、跡地に妙興寺が再建された。境内に、日興が石に爪で曼荼羅を刻んだという「爪引きの石曼荼羅」や、説法の際に座ったという「腰掛け石」がある。
爪引きの石曼荼羅
日興入滅後の争い
正慶2年(1333)に日興、3祖日目が相次いで入滅すると、弟子のあいだで塔中蓮蔵坊および東坊地の帰属をめぐる係争が発生した。大檀那である南条氏のお家騒動も絡んだこの係争は約70年間に及び、その間、新六日郷が大石寺を離れて小泉久遠寺・保田妙本寺を創建するなど、宗門は分裂。おおいに疲弊したという。
大石寺と
小泉久遠寺・保田妙本寺が帰属を争った蓮蔵坊
しかし15世紀初頭、中興9世日有の代に諸堂を再建。16世紀初頭(12世日鎮の代)にも本堂、御影堂、垂迹堂、総門などを次々に建立し、境域を整えた。
中世、駿河守護今川氏は大石寺を無縁所として保護した。今川氏親は門前棟別銭・諸役などを免除し、のちに後室寿桂尼が重ねて安堵。氏輝も享禄5年6月に同様に安堵し、天文3年(1534)には周辺諸給主の山での薪取りを免許。義元、氏真らも先例に準じた。
また門前には定期的に市がたち、天文24年(1555)には義元から市の諸役免除を保証されている。付近一帯の信仰、経済両面での中心地だったに違いない。
寺格および朱印
江戸期は日蓮宗勝劣派の一本寺。6代将軍の正室天英院や諸大名からあつく外護され、年頭御礼の江戸参府では独礼席を許された。
朱印領は66石8斗5升で、これは富士郡下において富士山本宮浅間大社、村山三坊、富士山東泉院に次ぐ規模。村山三坊と東泉院は別当寺だったことを鑑みれば、一寺としてはもっとも高い石高だった。
文政6年(1823)の『富士大石寺明細誌』によれば、境内に本堂、天王堂(祭神/日天月天)、垂迹堂(祭神/天照大神・八幡神)、鐘楼、鼓楼、青蓮鉢、経蔵、十二角堂、位牌堂、五重塔、常唱堂、常唱堂番長屋、中門(二天門)、三門、下馬札、惣門、制札方丈、客殿、御霊屋、玄関、書院、奥居間、庫裡、下台所、雲板、不明門、裏門、表門、門番所、寶蔵、同門があった。
御影堂(県文)は寛永9年(1632)、阿波国徳島藩・初代藩主蜂須賀至鎮の夫人敬台院が大施主となって再建。三門(同)は享保2年(1717)、6代将軍徳川家宣と正室天英院らの寄進で再建された。
五重塔(国重文)は寛延2年(1749)6月、備中松山藩初代藩主・板倉勝澄の寄進などで落慶した。県下唯一の五重塔である。その他、中門(二天門)は寛永15年(1638)、鬼門は享保2年(1717)、宝蔵は寛政2年(1790)の建立。
中門(二天門)
塔頭・末寺は、天明6年(1786)の『法華宗勝劣派大石寺派寺院本末帳』を引くと、塔頭30軒、末寺40寺だった。
江戸後期の『駿河記』『駿河国新風土記』は「日蓮宗一本寺 常唱首題之道場と称す」と載せ、塔頭17軒。『駿河志料』には「境内2万7千坪」とあり、塔頭18軒と載っている。
明治9年、大石寺をふくむ富士門流の8本山(大石寺、重須本門寺、下条妙蓮寺、小泉久遠寺、西山本門寺、伊豆実成寺、京都要法寺、保田妙本寺)および関連諸山は、日蓮宗興門派となる。(同32年、日蓮宗興門派は本門宗に改称)
同33年、大石寺は末寺とともに本門宗より独立し、日蓮宗富士派を公称。そして大正元年、日蓮正宗に改称した。同宗はこんにち、全国658か寺(平成19年度版『宗教年鑑』)を数える。
大石寺の境域は、まことに広い。総門から約1.3kmかけて三門、中門(二天門)、御影堂、奉安堂が一直線に並び、左右に客殿や大坊、大講堂などの大型建造物が重々しく建つ。堂宇・塔中は60余を数え、その規模は県下最大級である。
総門から石畳を歩くこと400m、朱塗りの三門がどっしりと建っている。高さ22.5m、東海屈指の荘厳な楼門だ。6代将軍夫妻らの寄進により享保2年(1717)に建立され、県文化財に指定されている。富士山を借景にした風景が雄大で、みな判で押したように写真撮影。
三門
三門からは桜並木の表参道がつづく。左右のしだれ桜が参道へ降注ぐように咲き、樹下に700年前後の歴史をもつ表塔中が連なる。歩みを進めると、やがて瀟洒な中門(二天門)があり、その先に寛永9年(1632)再建の御影堂(県文化財)と大建築の奉安堂が建つ。
表参道
参道脇の法祥園
奉安堂から東へゆき、御塔川(潤井川)にかかる朱の橋を渡ると五重塔。備中松山藩主らの寄進で寛延2年(1749)に落慶した塔で、国の重要文化財。大石寺建造物の白眉といえよう。閑寂な杉林に抱かれ、ひっそりと屹立する姿はまことに端正で、蠱惑的ですらある。
五重塔
日興が正応3年(1290)に大坊を建立した際、高弟の日目や日尊らが蓮蔵坊、久成坊、了性坊、上蓮坊(現百貫坊)、寂日坊、少輔坊(現南之坊)の6か坊を建てたという。さらに延元2年(1337)までに7か坊が開創それ、「表塔中」と呼ばれる13か坊が成立した。
その後、盛時には36か坊を数えたが、江戸中期ごろから数を減らしていった。江戸後期の『駿河記』は17坊、文政6年(1823)『富士大石寺明細誌』は16坊、幕末の『駿河志料』は18坊と載せている。しかし戦後から増加に転じ、こんにちは塔中と大型坊舎など合わせて約30軒が甍を並べている。