境の産土神
富士市の南東部、境の産土神。
境は、駿東郡と富士郡の郡境に位置し、立地がそのまま地名となった地区。昔は駿東郡に属したが、昭和31年に西船津・船津とともに富士郡域の富士市(当時は吉原市)へ編入した。
鎮座地は根方街道から北へわずかに入ったところ。すぐ後ろに新幹線が通り、時おり白い車両が風を切って走り抜けてゆく。左隣に火の見櫓と消防団倉庫が設置され、右隣は日蓮正宗正光寺。
社頭に黒ずんだ鳥居と白い氏子会館が並び、奥の傾斜地に木立が茂る。社叢はケヤキやクスなどの大木で形成され、こと境内西側のクスはたくましい。
30段足らずの石段を一気に上がりきると、小さな平坦地に社殿や狛犬、水盤、稲荷社がある。拝殿は昭和40年、本殿は昭和36年の再建。いずれも古びてはいるものの荒れた雰囲気はなく、たたずまいは端正だ。
江戸中期の明和元年再建
創祀年月・経緯は不詳。ただ、明和元年(1764)の再建棟札が残ることから、成立はそれ以前らしい。
熊野信仰は富士・駿東郡域でも人気だが、かといって八幡や山神、浅間ほどありふれたものでもない。境のある浮島地域に限っても、浅間や八幡は複数あるものの熊野は1社のみで、周辺ではやった形跡もない。想像するに、境に熱心な熊野信者がいて紀州から勧請した、といったところだろう。
もしくは隣接する正光寺の前身・妙光寺が絡んだとも考えられる(妙光寺は明治期に東京へ移転)。もっとも、先に触れた棟札は日蓮宗法華寺(沼津市平沼)17世が納めている。同じ日蓮系でも妙光寺は大石寺派、法華寺は身延派と系統は異なるので、はたしてどうか。
記録類をみると、江戸後期の諸地誌は「熊野三社」「熊野権現社」の名で所載。棟札・神札は、明和元年に続き明治8年8月の札が残り、行司は一帯の郷社である桃沢神社(沼津市)の神官が務めている。
大正初期の『浮島村誌』によれば、当時は神域191坪に1丈×8尺の鳥居、2間×3間の拝殿がたち、2間半×3間の雨覆内に5尺×1間半の本殿があった。絵図をみると、根方街道沿いに鳥居がたち、やや奥くに拝殿、さらに奥まったところに雨覆と本殿が描かれている。いま鳥居・氏子会館がある場所に拝殿が建っていたようだ。
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