(今昔)廣国山先照寺
◇・・・廣国山先照寺(富士宮市大中里)の本堂。
Tag ⇒ 寺院 富士宮市の寺院 富丘地区 青見 曹洞宗 廣国山先照寺
Entry ⇒ 2014.04.01 | Category ⇒ ふじ今昔
八幡宮(西ノ山)
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市青木字西ノ山1810 | ||
主神 | 応神天皇 | ||
創建 | 不詳 | 例祭 | 10月17日 |
社地 | 1,069坪 | 社格 | 旧無格社 |
摂末 | 山神社 | 神徳 | 五穀豊穣・厄除けほか |
交通 | JR西富士宮駅より北へ4.3km 駐車場無 |
富士宮市青木と馬見塚の境ちかくに鎮座している八幡宮。古くから青木・坂下集落および馬見塚・小屋敷集落によって祀られ、こんにちの氏子は青木12戸、馬見塚12戸だという。
創建は詳らかでない。口碑いわく、建久4年(1193)富士の巻狩りの際に遠藤某という鎌倉武士が当地にとどまり、八幡大神を鎮守として祀ったことにはじまるというが、むろんハナシであろう。
一方、天保15年(1844)11月28日に大石寺51世日英が納めた法華曼荼羅には、「当社八幡宮者往昔当山勧請」とある。裏には享保2年(1717)正月に神体として祀った本尊が腐朽したため、こたび新たな本尊を奉納する――といった内容が記されている。
在所は大石寺からさほど離れていないばかりか、西には同寺末頭の下之坊もある。さらに当社の面する道は、かつての大石寺参詣道のひとつ。おそらく、氏子は大石寺系の檀家でもあったのだろう。
他の記録をみると、安永8年(1779)正月15日の拝殿棟札が残されている。「正八幡宮拝殿奉建立」とともに氏子が列記され、そしてやはり七字題目も付記。ここでも大石寺との関わりがうかがえる。
くだって大正期の『富丘村誌』には、境内34坪、雨覆兼拝殿2間×3間、本社1尺9寸×1尺4寸とあり、別殿として山神社1尺×9寸が載る。信徒は馬見塚の小屋敷12人、青木の坂下8人、例祭は陰暦9月15日。昭和初期の『富士郡神社銘鑑』も内容は変わらない。
青木を縦断するように古い道が通っている。ところによっては車1台通るのがやっとのか細い道で、そこかしこに道祖神や道しるべ、題目塔などが祀られている。かつて大石寺参詣に使われた道であり、この道ぞいに八幡宮の神域がある。
うっそうと生い茂る林を背に鳥居がたち、これをくぐって暗い林の中の石段を上がると社殿につく・・・のだが、なぜか大きな石祠が石段を塞ぐように建っている。祠は「平成二十四年十月吉日」建立と新しく、石肌は富士の雪のようにまっさらな白。
怪訝におもいつつ祠を避けて石段を上がった。が、この石段がきつい。1段の幅がせまく、しかも急で、手すりはついているものの、気をぬけばひっくり返りそうで怖い。おもえば石祠は、参拝の便――石段を上がることができない人のこと――を考えたのかもしれない。
石段を数えること40。木々に包まれたささやかな平坦地に、入母屋造の社殿が建っている。山小屋のような素朴な造りだ。右手には山神社の石祠。『富丘村誌』にのる社だろうか。階下の石祠の白さとは対照的な古びようは、遅くとも江戸後期には祀られていたと思わせる。
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Tag ⇒ 神社 富士宮市の神社 富丘地区 青木 八幡宮(西ノ山) 八幡信仰 大石寺
Entry ⇒ 2013.01.27 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
上行山安立寺
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市青木672 | ||
宗派 | 日蓮宗 | 本尊 | 曼荼羅および祖師像 |
創建 | 不詳 | 開基 | 諏訪部氏 |
開山 | 法輪坊日覚上人 | 本寺 | 西山本門寺 |
寺紋 | 十曜、鶴の丸 | 鎮守 | 八幡宮? |
交通 | JR西富士宮駅より北西3km 駐車場有 |
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安立寺は富士宮市青木のほぼ中央、西ノ山と通称される丘陵を背負って建っている。富士門流(西山本門寺末)の日蓮宗寺院で、山号は上行山、本尊は曼荼羅および祖師像。
開創は文献ごと差異があって判然としない。
寛永18年(1641)9月の棟札に、西山本門寺末流であることや、諸檀那の助成により建てられたことが記され、本願主は「法輪坊日覚」とある。『富丘村誌』『青木区誌』などはこの人を開山としている。
ただし、同棟札に「現当2世」の文字がみえ、また『日蓮宗寺院大鑑』を引くと「開山は不明。中興開山は法輪坊日覚」となっている。
くだって元文5年(1740)6月18日の棟札に、中興日覚の50遠忌につき住職と檀越諏訪部氏が協力して客殿(現本堂だろう)を再建した旨が記されている。となると、日覚は中興開山であり、寺は寛永18年以前に存立していたとみていいようだ。
なお安立寺の隣に八幡宮(祭神/天照大御神・応神天皇)が鎮座している。口碑によれば、古くは西ノ山2113番地に在ったが、慶長10年(1605)11月に現在地へ遷座。このとき社名を「権現」から「天照八幡」に改称したという。
日蓮系寺院は天照八幡を諸天善神として盛んに祀る。手もとの文献に安立寺と八幡宮の関わりを示す記述はないが、立地を鑑みれば無関係ではないだろう。ひょっとすると寺建立の際、地域の産土神(「権現」)を寺の鎮守とし、祭神を「天照八幡」に改変したのでは。開創=慶長10年と考えれば、寛永や元文の棟札とも符合する。
他の文献をみると、天明8年(1788)の『法華宗勝劣派西山本門寺寺院本末帳』に「上行山安立寺 駿州富士郡青木村」と所載。また江戸後期の諸地誌にも「安立寺 日蓮宗 西山本門寺末」と載る。
境内規模は、明治中期の『皇國地誌』に東西15間×南北20間、面積8畝14歩。大正期『富丘村誌』には境内254坪、本堂6間×4間半、境外所有地田畑山林5反1畝24歩2厘、檀徒20人と載る。
安立寺は西ノ山の東裾にたち、背に緑林を背負い、門前はいちめん農耕地。そばでは牛が草を食んでおり、いわゆる昔ながらの農村風景のなかにある。そんなのどかな景色を楽しみつつ民家のあいだの細い参道をゆくと、山の緑を背に本堂がたつ。
現本堂は元文5年(1737)建立の寄棟造。旧富丘村において最も古い建物とされる。明治7年、この本堂で小学新曦舎が開校され、同17年6月に青木学校へ移転するまで学校として用いられた。あるいは、明治以前から近隣の学び舎だったのかもしれない。
本堂のそばに水神が祀られている。表に「水神 妙法蓮華経蓮寿日宗」、裏に「川原新開廣大願主 嘉永五子年四月十二日卒 俗号諏訪部喜宗次政辰」。喜宗次政辰は水資源に恵まれなかった当地の水利発展につとめた人で、碑はかれの功績をたたえ建立されたようだ。
ごくつつましい墓地を見渡すと、「諏訪部」の姓がめだつ(というより諏訪部氏ばかり)。上で触れた喜宗次政辰氏も諏訪部氏、「由緒」で触れた開基檀越も諏訪部氏。あたりに諏訪部氏が多いのか、同氏の家寺なのか。おそらくその両方なのだろう。
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Tag ⇒ 寺院 富士宮市の寺院 富丘地区 青木 上行山安立寺 八幡宮(下耕地) 日蓮宗 西山本門寺 西山本門寺末寺 富士門流
Entry ⇒ 2012.12.09 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
綱敷天満宮 神像
ところは富士宮市大中里。旧青見村の氏神である丘路八幡宮の境内に、綱敷天満宮が鎮座している。祭神は菅原道真。平成18年10月に改築された社殿の中に、小さな綱敷天神像が祀られている。
綱敷天神像は、高さ30cmばかりの坐像。平安装束姿で、綱を巻いて作った円座に座り、左手で綱の端を握りしめている。これは菅原道真が太宰府に流され浜辺に着いたとき、地元漁師が船の艫綱をまいて即席の円座を用意したという故事にちなむ。面立ちは眼光鋭く眉をつり上げた憤怒の相で、いわゆる「怒り天神」。
この綱敷天神像は、山本勘助の祖父貞久の子孫である山本八郎右衛門幸光が享保19年(1734)青見先照寺へ奉納したもの(台座裏の銘文)。江戸後期の『駿河志料』を引くと、先照寺項に「綱敷天満宮木像 座像長9寸、佛殿にあり」と載っている。
明治初年の神仏判然令によって青見村で祀るようになったが、明治41年、像を祀っていた天神屋敷が土石流で被災したことから、丘路八幡宮境内へ遷座した。
なお像の由来については、「豊臣秀吉が天正18年(1590)後北条氏の山中城(三島市)を攻めたとき、北条方に勘助の子孫がいた。かれは落城後、菩提寺である先照寺に逃れて傷を手当てし、天神像を当地に残して三河国へ落ちた」などと伝承されている。厨子は勘助が護身用に持ち歩いた背負い厨子と伝えられる。
Tag ⇒ 神社 富士宮市の神社 富丘地区 大中里 青見 丘路八幡宮 天神信仰 廣国山先照寺 山本勘助
Entry ⇒ 2012.09.22 | Category ⇒ 神像・仏像
廣国山先照寺 末寺
廣国山先照寺(曹洞宗)はかつて、多くの末寺を抱えた。そのほとんどは明治期の廃仏毀釈までに廃されたものの、いまも孫寺をふくめ10か寺が洞家の法幢をかかげている。
先照寺末のうち、名が判明している寺は40か寺余り。下のリストは『廣國山先照寺縁起』(廣國山先照寺護持会発行)に載る末寺で、42か寺を数えている。
寺名の判明している末寺 | ||
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山寺号 | 所在地 | |
(廃)西陽軒 | 先照寺境内 | |
(廃)老梅軒 | 先照寺境内 | |
(廃)東岳寺 | 先照寺境内 | |
(廃)向陽庵 | 先照寺境内 | |
(廃)正受林 | 先照寺境内 | |
柚野山延命寺 | 富士宮市上柚野197-1 | |
├ (廃)玄龍寺 | 富士郡・稲子 | |
├ (廃)慶雲寺 | 富士郡・稲子 | |
├ (廃)金昌寺 | 富士郡・上野 | |
└ (廃)洞明院 | 富士郡・精進川 | |
恵日山千光寺 | 富士宮市精進川2830 | |
大安山法蔵院 | 富士宮市内野325 | |
├ (廃)桃陽軒 | 富士郡・内野 | |
├ (廃)積善寺 | 富士郡・内野 | |
├ (廃)清岩寺 | 富士郡・人穴 | |
└ (廃)龍光院 | 富士郡・佐折 | |
大富山松岳寺 | 富士市入山瀬408 | |
└ (廃)慈眼寺 | 富士郡・若宮 | |
曹洞山永源寺 | 富士市岩本1941 | |
├ 松岡山永光寺 | 富士市松岡2409 | |
├ 不動山円通寺 | 富士市木島488 | |
├ 普門山松雲寺 | 富士市木島679 | |
├ (廃)宝蔵院 | 庵原郡・宝野 | |
├ (廃)安相寺 | 富士郡・岩本 | |
└ 不死山岳松寺 | 富士宮市光町11-25 | |
亀鶴山萬松院 | 富士宮市元城町13-23 | |
富士山重林寺 | 富士宮市大岩418-1 | |
(廃)鳳林寺 | 富士郡・大宮 | |
(廃)龍泉寺 | 富士郡・山本 | |
(廃)宗持院 | 富士郡・山本 | |
(廃)東照寺 | 富士郡・柚野 | |
(廃)法源寺 | 富士郡・大宮 | |
(廃)二桂院 | 富士郡・大宮 | |
(廃)東盛院 | 富士郡・中里 | |
(廃)白光寺 | 富士郡・入山瀬 | |
(廃)清涼寺 | 富士郡・厚原 | |
(廃)心照寺 | 庵原郡・松野 | |
(廃)宗安寺 | 庵原郡・松野 | |
(廃)松雲寺 | 庵原郡・小山 | |
(廃)清泉寺 | 庵原郡・宝野 | |
(廃)神光寺 | 浅間大社内 | |
(廃)東漸庵 | 富士郡・小泉 |
いまも存続している末寺は次の11か寺。なお、不死山岳松寺は孫寺(永源寺末)だったが、延享元年(1744)以降は星山大悟庵の末となっている。
存続している末寺 | ||
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山寺号 | 所在地 | |
柚野山延命寺 | 富士宮市上柚野197-1 | |
恵日山千光寺 | 富士宮市精進川2830 | |
大安山法蔵院 | 富士宮市内野325 | |
大富山松岳寺 | 富士市入山瀬408 | |
曹洞山永源寺 | 富士市岩本1941 | |
├ 松岡山永光寺 | 富士市松岡2409 | |
├ 不動山円通寺 | 富士市木島488 | |
├ 普門山松雲寺 | 富士市木島679 | |
└ 不死山岳松寺 | 富士宮市光町11-25 | |
亀鶴山萬松院 | 富士宮市元城町13-23 | |
富士山重林寺 | 富士宮市大岩418-1 |
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伝承いわく、空海が自彫の地蔵を安置して開山し、平安期に浄土宗へ改め、室町期に先照寺2世天外清輪が禅林に改宗した。戦国期は今川氏から朱印地を受け、天正10年には織田信長から禁制を与えられた。◆所在地/静岡県富士宮市上柚野197-1。宗派/曹洞宗。本尊/地蔵菩薩。
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応永年間(1394~1428)、先照寺2世天外清輪が開山。本尊の千手千眼観音は、最澄が唐より持ち帰り比叡山に安置したものといい、のちに重盛・維盛父子が守り本尊としていたものと伝承されている。◆所在地/静岡県富士宮市精進川2830。宗派/曹洞宗。本尊/千手千眼観音菩薩。
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伝承いわく、最澄が富士登山のみぎり携帯の地蔵尊を当地に遺す。里人が来仮堂を建ててこれを祀り、のち来仮堂は天台宗・宝蔵庵となった。文明5年(1473)4月、先照寺3世榮崇祖繋が曹洞宗へ改めた。◆所在地/静岡県富士宮市内野325。宗派/曹洞宗。本尊/延命地蔵菩薩。
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文明7年(1475)真言寺院として開創(弘仁10年に真言宗平坊寺として開かれたという伝承もあり)。文亀3年(1503)先照寺4世梅巌祖春が再建し、曹洞宗へ改めた。江戸期は除地2石8斗。富士横道観音霊場16番札所。◆所在地/静岡県富士市入山瀬408。宗派/曹洞宗。本尊/観音菩薩。
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空海が9世紀初頭に開いた「白金山永見寺」が起源、と伝えられる。その跡地に16世紀初頭、先照寺5世寿天宗聖が伽藍を再建。岩本や富士川対岸の木島などに教線を広げ、江戸期は色衣着用を許された小本山格。◆所在地/静岡県富士市入山瀬408。宗派/曹洞宗。本尊/釈迦牟尼仏。
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もとは真言寺院で四ツ家にあったものの、明応年間(1492~1500)洪水で流失。文亀2年(1502)再興・改宗し、元禄7年(1694)永源寺11世霊明韻英によって現在地へ移転した。明治初期、境内に「巌松舎」設立。◆所在地/静岡県富士市松岡2409。宗派/曹洞宗。本尊/観音菩薩。
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永源寺4世富岩了銀が天正年間(1573~92)に開創。江戸期は除地8畝歩。大正期は境内7畝20歩、田畑山林合反別2町7反29歩を所有。木島不動尊を管掌しており、2月末の祭典では木綿20反に描かれた不動明王を開帳。◆所在地/静岡県富士市木島488。宗派/曹洞宗。本尊/観音菩薩。
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永禄3年(1560)岩淵と岩本を結ぶ富士川渡船鎮護のため開創されたと伝えられる。下って元禄13年(1700)霊明韻英が法地開山。明治6年、室野法蔵院を併合。大正期は田畑山林4町3反6畝余歩を所有していた。◆所在地/静岡県富士市木島679。宗派/曹洞宗。本尊/観音菩薩。
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永禄2年(1559)能室南芸が沼久保に開いた。もとは永源寺の末だったが、本寺から遠く不便だったため、延享元年(1744)星山大悟庵の末となった。大正年間、現在地へ移転。旧地に観音堂(えんま堂)が建っている。◆所在地/静岡県富士宮市光町11-25。宗派/曹洞宗。本尊/地蔵菩薩。
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神田長者が嘉禎元年(1235)1宇を建て、行基作の子安地蔵を安置したことに始まるという。他方、大宮城の鬼門除けに建てられた、との説も。永禄8年(1566)先照寺7世天雪寶重が再建し、草創開山。明治16年、法源寺・鳳林寺を併合。◆所在地/静岡県富士宮市元城町13-23。宗派/曹洞宗。
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先照寺第11世大休演奕が永禄2年(1559)に開創した。江戸期は除地5反7畝5歩。富士横道観音霊場の2番札所。もとは市中心部にあったが、昭和49年、富士宮駅・中原線の新設にともない現在地へ移転した。◆所在地/静岡県富士宮市大岩418-1。宗派/曹洞宗。本尊/釈迦牟尼仏。
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Entry ⇒ 2012.09.07 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
沢登八幡宮(大中里)
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市中里東町67 | ||
主神 | 応神天皇 | ||
創建 | 不詳 | 例祭 | 陰暦9月25日 |
敷地 | 439平方m | 社格 | 旧村社 |
境内 | 山神社、清明社 | 神徳 | 五穀豊穣・厄除けほか |
交通 | JR西富士宮駅より徒歩7分 駐車場無 |
潤井川にかかる八幡橋(県道182号三沢富士宮線)の上流東岸に、沢登八幡宮が鎮座している。祭神は応神天皇。もとは対岸ほとりの大中里字澤登780番地にあったが、昭和50年代の潤井川護岸工事に際し、現在地へ遷座した。
成り立ちは、資料ごと差異があって判然としない。
しかも、「明治初年、稚児八幡社から分かれた」「旧地の隣家が屋敷神として祀り、やがて地域の産土神となった」「開村当時からの産土神」――といった具合に、まったく異なる説ばかり。
棟札よれば、明治8年(1875)4月に大中里村が施主、富士山本宮浅間大社・権禰宜田辺屯倉麿氏が祭主となって社殿を造営しており、ほどなく稚児八幡社が遷っている。稚児八幡社は、下中里および野中の泉・滝戸地区の産土神だった社だ。
稚児八幡社が遷座&改称して沢登八幡宮となったのか、すであった沢登八幡宮に稚児八幡社を合祀したのか、肝要な部分は資料不足でよく分からない。ただいずれにせよ、大中里が“村の氏神”として整備したのが、こんにちの沢登八幡宮である。
このころは潤井川西岸に鎮座し、神域120坪の規模。そこに2間×1間半の雨覆と、2尺×1尺2寸の本殿、2間半×4間の相殿があった。氏子は109戸。また境内社に山神と稲荷があり、他所からの移転社に天神、御嶽、琴平、秋葉各社があった。
下って昭和54年、潤井川の改修工事にともない現在地への遷座に着手。同年12月に社殿完成、翌年3月に落成式を迎えた。境内社は山神社のみ遷り、のち八幡橋の東方にあった清明社(石祠)が遷座。いま、ともに境内で祀られている。
神域は潤井川から道1本へだて、川や道と平行するように南を向いている。やや細長の三角形で、奥にゆくほどせまい。大小の立木が木漏れ日をまだらに落とし、川の湿気をふくんだ地面は、抹茶をふりかけた風にうっすらと緑色に染まっていた。
植栽茂った参道のさきに鳥居がたち、これをくぐると社殿にいたる。ここに移転したとき建てられた鉄筋コンクリート製で、拝殿は入母屋造り、本殿は塔のようにたかだかと伸びた平入り。白地の壁が清々しく、朱の屋根は遠目にも明るい。
社殿の左手に馬頭観音ばかりが5基、仲よく並んでいる。いずれも対岸で祀られていたものの、平成になってここへ移されたという。舟後光型の浮き彫り像が4基、自然石型の文字塔が1基で、建立時期は江戸期3基、明治期1基、不明1基。
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Tag ⇒ 神社 富士宮市の神社 富丘地区 大中里 八幡信仰 沢登八幡宮(大中里) 稚児八幡社(下中里) 稚子八幡神社(泉町)
Entry ⇒ 2011.10.14 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
福之宮
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名称 福之宮
所在 静岡県富士宮市淀師字横町(現朝日町)
主神 大國主神 創建 不詳
例祭 陰暦9月10日 社格 旧無格社
備考 元浅間大社摂社 神徳 商売繁盛、縁結びほか
交通 JR西富士宮駅より徒歩10分 駐車場無
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淀師地区第一の旧社
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石祠と石地蔵 |
いまはまったく無名の社。されど、「淀師地区第一の旧社」と言い伝えられ、江戸期まで富士山本宮浅間大社の摂社に名を連ねた古社である。祭神は〝福徳の神〟こと大國主神。
所在地・淀師は浅間大社と関わりが深かった。天正5年(1577)『富士大宮御神事帳』によれば御酒銭や流鏑馬神事の祭礼銭を負担しており、域内に元末社の金之宮もある。むかしは浅間大社の神領があったのかもしれない。
福之宮の沿革は不詳だが、「淀師第一の旧社」が正しければ金之宮より古いことになる。金之宮は『富士大宮御神事帳』に載るから、福之宮も戦国期には在ったのかもしれない。ただし、江戸期の地誌に未掲載だから、ごく小規模だったのだろう。
下って明治初期、浅間大社から独立し、大正期『富丘村誌』、昭和初期『富士郡神社銘鑑』に「本殿6寸8分×7寸 雨覆3尺四方 境内2坪 崇敬者31名」と載った。
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福之宮と思しき石祠 |
さて今日の福之宮だが、困ったことに消息が分からない。無名の上、宗教法人に未登記で、地誌『淀師区誌』にも未掲載。地図を広げても見当たらない。加えて、『富士郡神社銘鑑』所載の所在地は普通の民家になっていた。
ただ、道向かいに小さな祠が祀られていた。変哲もない石祠である。この祠を『淀師区誌』で引くと、「〝山の神〟とも思えるが、近所の方々、長老に聞くと〝福の神〟として信仰されており、旧大宮町の人達も祈願に来たとの事で多くの参拝者もあり盛大であった」とある。
福之宮に該当する可能性は高い。
場所はJR西富士宮駅から北へ徒歩10分。バス停「朝日町西」のほど近く、往来の片隅で石祠が花々に埋もれていた。隣には大ぶりな石地蔵。鳥居や灯籠、狛犬はおろか、社号標もなく、ごくありふれた路傍の小祠となっている。
祠は流造りで、刻銘によれば明治37年旧10月25日の建造。奉献者は下中村、横丁、筋違橋、田保の人びとである。地蔵は丸彫り型の座像で、裏面に文久3年(1863)6月24日の刻銘。正面には「性快」と刻まれており、子授け地蔵として信仰され、むかしは子を切望する人がよく祈願に訪れていたという。
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参考文献 富丘村誌、淺間神社の歴史、富士郡神社銘鑑、淀師区誌、角川日本地名大辞典、日本歴史地名体系 |
Tag ⇒ 富丘地区 淀師 浅間大社 出雲信仰
Entry ⇒ 2010.05.20 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市 | Trackbacks (0)
宮原 八幡宮
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名称 所在 静岡県富士宮市宮原字下本村143
主神 応神天皇 配神 天照大御神 大山祇神
創建 不詳 例祭 10月16日近くの日曜日
敷地 172坪 社格 旧村社
神徳 五穀豊穣・厄除けほか
交通 JR富士宮駅より北3.2km 駐車場有
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参考文献 駿河記、修訂駿河國新風土記、駿河志料、皇國地誌編輯、富士郡村誌、富丘村誌、富士郡神社銘鑑、宮原区誌、日本歴史地名体系、角川日本地名大辞典 |
Tag ⇒ 富丘地区 宮原 八幡信仰
Entry ⇒ 2010.04.21 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市 | Trackbacks (0)
富士山 法華寺
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名称 所在 静岡県富士宮市宮原477
宗派 日蓮宗 本尊 曼荼羅
創建 明治4年4月28日 開山 日信上人
本寺 寺紋 鶴の丸
交通 JR富士宮駅より北3.5km 駐車場有
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入植士族の檀那寺として開創
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植栽が清々しい境内 |
明治初期、徳川氏の駿府移住にともない旧幕臣が大挙、荒地であった万野原地区に入植した。その数ざっと250戸とも280戸ともいわれる。そんな士族たちの檀那寺として建てられたのが、隣接する宮原地区の法華寺である。
『日蓮宗寺院大鑑』によれば、開山は重須本門寺33世日信で、開創は明治4年4月28日のことだった。
開創当時、檀徒数は十分だったらしい。なにせ入植250~280戸に、万野原の旧戸数と、宮原の戸数を加えれば約350戸となり、人口は1,800人を越えたと思われる。このうち3~4割ほどでも檀徒となれば、寺経営は安泰だったはずである。
ところが、戸数の大半をしめる入植者は、万野原に定着しなかった。心得のない農業に苦労したのだろう、わずか5年ほどで離農が始まった。多くの者が東京へ転居し、残った者も教師や巡査などへ転職。250戸を越えた入植士族は、明治19年は59戸、大正8年ごろには12~13戸まで激減。比例して法華寺を支える檀家も減少の一途を辿り、大正期は檀徒41人、昭和11年ごろにはわずか32戸まで落ち込んだ。
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石畳の参道および本堂 |
寺の財政は逼迫し、一時は無住にもなったらしい。それでも限られた檀徒と協力して寺を維持、法燈は継承した。
すると昭和30年代に転機が訪れた。高度経済成長による開発が宮原地区におよび、宅地化が急速に進行。寺周辺の戸数も急増した。
『宮原区誌』などによれば、宮原の戸数は江戸末期の嘉永年間(1848~54)34戸(163人)、明治16年47戸、同24年47戸(271人)、昭和10年ごろ65戸(261人)と緩やかな伸びだった。ところが昭和35年には157戸(806人)と3倍増を示し、同52年は711戸(2,562人)、平成7年には1,399戸(4,606人)へと急伸した。宮原地区の戸数増加にともない、法華寺の檀徒数も好転した。
いま、法華寺は住宅地のただ中にある。墓地には墓碑が林立し、境内には私立の幼稚園もある。わずか7、80年前は檀徒32戸だったとは一片も想像もできない。
ちなみに、むかしの宮原地区は荒地と林が広がっていたらしく、法華寺は「山寺」(『日蓮宗寺院大鑑』)と呼ばれたらしい。『本門寺並直末寺院縁起』にも「荒野の中の山寺」と記述されている。往古はさぞ山中の趣だったのだろう。
境内はさほど広くないが、堂宇や墓地、植栽豊かな庭園などいずれも整備されていて気持ちいい。整備は檀徒数が回復した昭和中期から進み、昭和44年4月に本堂を新築、同52年に客殿新築ならびに庭園・墓地を整え、同59年には庫裏・位牌堂を新築。豪勢とはいえないまでも必要十分な諸設備を持つりっぱな寺観を整えている。
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参考文献 境内石碑・案内板、皇國地誌編輯、富丘村誌、富士郡村誌、宮原区誌、日蓮宗寺院大鑑、本門寺並直末寺院縁起、富士山南西麓編史跡・史話、富士宮市歩く博物館ガイドブック、角川日本地名大辞典 |
Tag ⇒ 富丘地区 宮原 日蓮宗 重須本門寺(北山本門寺) 重須本門寺(北山本門寺)末寺
Entry ⇒ 2010.01.12 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市 | Trackbacks (0)
八幡宮(下耕地)
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市青木字下耕地666 | ||
主神 | 天照大御神 応神天皇 | ||
創建 | 不詳 | 例祭 | 2月15日 10月17日 |
社地 | 242坪 | 社格 | 旧無格社 |
摂末 | 石祠5社 | 神徳 | 五穀豊穣・厄除けほか |
交通 | JR西富士宮駅より北西3km 駐車場有 |
羽鮒丘陵の北部、「西ノ山」と通称される丘陵のすそに、日蓮宗安立寺とならんで鎮座している。祭神は天照大御神、応神天皇。鎮座地の変遷はあるものの、古くから西ノ山で祀られ、江戸期は「神明八幡」と称していたようだ。
口碑によれば、古くは西ノ山2113に鎮座していたが、慶長10年(1605)11月1日に現在地へ遷座した。現在、旧地には大山祇命を祀った石祠が建てられ、「古氏神様」と呼ばれ崇敬されているらしい。
『富士郡神社銘鑑』を引くと、「元権現ト号セシテ慶長十年十一月天照八幡ト改称シタル趣棟札ニ記載シアリ」とある。断定はできないが、改称には日蓮宗安立寺が関わったのではなかろうか。
日蓮系寺院は天照八幡を諸天善神として盛んに祀った。手もとの文献に安立寺との関わりを示す記述はないものの、立地を鑑みれば同寺の鎮守として祀られてきたことは想像に難くない。ひょっとすると寺開創の際、地域の名もなき産土神(「権現」)を寺の鎮守とし、祭神を「天照八幡」に改変したのかもしれない。
ともかく、江戸初期には祀られていたらしく、境内には天和元年(1681)10月、正徳3年(1713)9月、天保14年(1843)3月の古い石灯籠が残されている。
くだって大正期の『富丘村誌』には境内242坪、鳥居(礎のみ存す)、拝殿2間×3間、雨覆9尺四方、本社8寸×7寸、例祭9月15日と所載。さらに石祠の境内社として天神社(菅原道真)、薬師神社(大己貴命、少名彦命)、山神社(大山祇命)が列記されている。
昭和初期の『富士郡神社銘鑑』でも境内規模は変わらず、崇敬者20名と付記されている。
南北に通じる旧道ぞいに幟台があり、そこから西へ約100mばかり歩くと鉄筋コンクリート製の明神鳥居(昭和46年10月寄進)が西ノ山の緑林を背にたつ。参道の左手は安立寺の駐車場で、鳥居の右手は同寺墓地となり、その先には本堂などが建っている。
鳥居をくぐり石段を上がると竹林に包まれた。西ノ山の自体は杉に覆われているが、神域付近は青い竹林である。おかげで神社というよりも、なにやら昔話にでてくる人里離れた庵のような雰囲気。俗世を離れた隠者や、籠を背負った翁がひょっこりと現れそう。
社殿は平成2年10月改築の入母屋造。足もとは堅牢な石垣、空はくだんの竹林に彩られ、なかなか趣あるたたずまい。手前に天和元年(1681)10月、正徳3年(1713)9月の灯籠が対をなし、ほかに小ぶりな力石が残されている。
神域南側には古びた石祠が5基並び、「山の神」としてひとくくりに信仰されているという。例祭は1月16日。もっとも、前述のように『富丘村誌』に天神社・薬師神社・山神社の名がみえ、また右から2基目には狐の置物がある。本来は異なる信仰の社たちだったのだろう。
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Entry ⇒ 2008.09.12 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市