重林寺は富士山南西麓、緩やかな傾斜がつづく大岩にある曹洞宗寺院。本尊は観世音菩薩。境内に可睡斎から勧請した秋葉三尺坊大権現が祀られ、毎年晩秋の火祭では大勢の檀信徒らが防火や無病息災を祈念する。
開創は永禄2年(1559)10月。青見先照寺11世の大休演(寅)奕が、市中心部(富士宮駅から約500m)の大宮町御殿地に開いた。大休演奕は上柚野延命寺の中興1世でもある。
開基は鈴木豊前守。『全国寺院名鑑』『木乃花区史』を引くと、天正年間(1573~92)に武田信玄のもと人質として没し、埋骨の地を寺基にした、とある。かれを詳しく知らないが、寺基にしたくらいだから寺の外護者だったのだろう。つまり、豊前守の外護により永禄2年重林寺が開かれ、豊前守は没後同寺に葬られた、ということか。
江戸後期の地誌を引くと、『駿河記』に「富峰山重林寺 洞家 青見先照寺」とみえ、『駿河志料』には「重林寺 曹洞宗、青見先照寺末、富士山と号す、5反7畝5歩、本尊観音」とある。
本尊の観音は近隣近在に知られていたらしく、富士郡のローカル観音霊場「富士横道観音霊場」の2番札所でもあった。御詠歌は「朝夕に 頼む仏の 道直ぐに 迷わでここに 大宮の里」。
寺の規模は、明治中期の『皇國地誌』に東西29間、南北16間、面積390坪と載る。昭和初期の『大宮町誌』はもう少し詳しく、境内390坪、本堂6間半×5間半、庫裡4間×6間半とし、ほかに境内堂宇として地蔵堂1間×1間半、秋葉堂2間×3間を記している。
くだって昭和42年、富士宮市都市計画街路(富士宮駅・中原線)の新設により移転を余儀なくされ、現在地へ移ることに。同46年着工し、同54年11月18日、入仏落慶法要を奉修した。現在の檀家は約500家という。
秋葉三尺坊大権現
秋葉堂(秋葉三尺坊大権現)は、遠州可睡斎から勧請された。
明治のはじめ、旧地の周辺地域で火災が頻発した。ときの住職は大衆と相談し、防火・火伏せに霊験あらたかな秋葉三尺坊大権現の勧請を決定。郡下町村をはじめ、沼津・清水・焼津などの特信者の助力を受けて分霊を得た。明治20年のことだった。
秋葉三尺坊大権現
重林寺は、民家がわりあい詰まった住宅地の一角に寺域を構えている。空は明るく開け、背に幾ばくかの木立を負う。記録をみると、旧地は400坪足らずだったらしいが、いまは駐車場・墓地・山林を含めると5,000坪はありそう。広々としていて開放的だ。
門前のバス停(重林寺前)で降りると、目前に緩やかな上り傾斜の参道。両側に茂るまるい植栽が毬藻のふうで愛らしく、左手には庚申塔と六地蔵が並んでいる。正面にえんじ色の山門が重々しく構え、屋根越しに富士山が頭をのぞかせる。
参道
庚申塔と六地蔵
近現代に移転しただけあり、境内はきれいに整備されている。本堂や庫裡会館は鉄筋コンクリート製の大型建築で、外壁は白基調で統一され清潔な印象。その一方で山門・本堂の向拝一部には、坪井彫刻師による竜虎や獅子頭の木製彫刻があしらわれている。
本堂
境内右方には鐘楼堂のほか、龍王殿と秋葉三尺坊大権現が鎮座。秋葉三尺坊大権現は、明治20年に可睡斎から勧請した。毎年晩秋に火祭を奉修しており、お祓いや護摩焚き後、火渡り道場で火渡りを行う。多くの地域住民が参加し、防火・無病息災を祈願する。