瀧川神社
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市原田字滝川1309 | ||
主神 | 木花之佐久夜毘賣命 | 配神 | 深淵之水夜礼花神 |
創建 | 伝:孝霊天皇御代 | 例祭 | 5月1日 |
社地 | 1,817坪 | 神紋 | 丸に棕櫚の葉 |
社格 | 式内論社(小) 旧郷社 | 摂末 | 山神社 |
備考 | 社叢(市保存樹林) | 神徳 | 安産・子宝・火難除けほか |
交通 | 岳南鉄道比奈駅より徒歩13分 駐車場無 |
富士郡下方に点在している下方五社のひとつで、原田・今泉・吉永・須津の旧郷社。富士山を崇める浅間信仰の古社であり、江戸期まで「新宮」「原田浅間宮」「富士浅間社」などと号した。また竹取の翁をまつるという縁起もあり、別に「父宮」とも雅称された。
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伝承によると、第7代孝霊天皇の御代(前290~215)に富士山噴火を鎮めるべく創祀され、第12代景行天皇の御代(71~130)日本武尊が東征のさいに参拝したという。『延喜式』神名帳の「富知神社」にあてる説があり、また『駿河国神名帳』にみえる「正三位十八所浅間御子明神」の1社ともいわれる。
別当・富士山東泉院の『東泉院御由緒書』によれば、大同元年(806)に社殿が営まれ、平城天皇から唐本大般若経や行基作の本地仏が寄進された。また源頼朝の崇敬あつく、治承4年(1180)富士川の戦いに際し戦勝を祈願、建久4年(1193)富士の巻き狩り時には黄金の玉を奉納したと伝えられる。黄金の玉は約5寸あり、2重の箱に納められていたものの、明治初年の混乱期に紛失した。
中世になると、「下方五社」「五社浅間」などの名称で多くの史料に現れる。下方五社は、富士郡下方(現富士市)に点在している有力神社5社の古い総称である。富士山東泉院が5社の総別当職を世襲し、神領や社殿の維持管理、祭祀権を握っていた。
下方五社は駿河国主今川氏からあつく崇敬された。古い記録をみると、今川氏親が16世紀前半、「日吉宮(日吉浅間神社)」の再建に尽くした東泉院をわざわざ称えている。さらに今川義元は5社の社殿修理分として米・銭を寄進し、今川氏真も富士川以東における勧進活動の独占権などを与え、下方五社・東泉院を庇護した。
豊臣秀吉は天正18年(1582)12月28日、東泉院に下方五社別当領として190石の朱印地を認めた。この朱印高は徳川政権下も同様に継承された。富士郡下で3桁の朱印高を有したのは、別当東泉院、富士山本宮浅間大社、村山三坊のみであった。
なお、これらは表高であり、内高は新田開発を積極的に推し進めた結果、享保14年(1729)の検地で600石へ著増。寛保年中(1741~44)の調査では、朱印地そのほか含め808石、さらに別当領66石を有していたという。
寛文11年(1671)5月の『冨士六所浅間宮年中祭礼之大概』を引くと、このころ瀧川神社では正月、4月、5月、9月、11月に大きな神事を行っていたらしい。次に列記する。
「正月十四日新宮社而奉射有的小的射手役新宮之鑰取六所之鑰取両人而勤之大的射手役六所宮神主今宮之」
「四月辰日新宮之祭礼神供御幣同社鑰取勤之」
「五月会祭礼 朔日新宮之祭礼流鏑馬有御幣役鑰取宮仕勤之大名役劔太夫御子新三郎供僧惣社家中勤之其外役数多有之」
「九月十一日新宮之祭礼」
「霜月祭礼之作法四月同」
うち「五月会祭礼」は、富士山本宮浅間大社の流鏑馬祭と繋がりのあった祭礼で、東泉院主催のもと流鏑馬が奉納された。射手は「下方五騎」がつとめ、流鏑馬料55石5斗は浅間大社が負担した。なお、瀧川神社の流鏑馬は明治期に廃絶している。
明治初期、政府は神仏判然令を発した。これを受けて東泉院住職は復飾して六所氏を名のり、神官となった。下方五社は仏教色を取り除いて神道へ復し、当社は明治6年5月に「滝川神社」へ改称、同8年2月に原田・今泉・吉永・須津の郷社となった。
大正4年に本殿や拝殿を改築、昭和49年に大昭和製紙の齊藤了英氏の寄進により拝殿・幣殿を鉄筋コンクリート製に改めた。
別当東泉院の『東泉院御由緒書』には、おおむね次のように記されている。
「富士山は三国無双の名山にして国家擁護の霊神ゆえ、浅間宮を数か所に祀って祈祷する必要がある。東泉院が別当をつとめる五社浅間のうち、父宮、母宮、六所浅間宮は富士浅間赫夜姫誕生地により、これを祀る」
中世から江戸初期、浅間神社の祭神(=富士山の神)は「赫夜姫」と考えられた。『竹取物語』のかぐや姫である。中世にさかのぼる『神道集』『富士山大縁起』『源氏物語提要』などに記述がみえ、広く知られていた説らしい。こんにちのように富士山の神=木花之佐久夜賣命が定着したのは、江戸中期以降のことだった。
『東泉院御由緒書』もそれを踏襲し、富知六所浅間の祭神をかぐや姫とし、瀧川神社を竹取の翁を祀る社=父宮、今宮浅間を竹取の嫗を祀る社=母宮と表記している。ほか、地誌『駿河記』などにも「号父の宮」と注記があるから、この縁起は割と流布されていたようだ。
『東泉院御由緒書』は続いて、
「大同元年(806)に5社の社殿を造営したさい、平城天皇から唐本大般若経や行基作の本地仏が寄進され、のち嵯峨天皇から空海作の五大尊不動明王が寄進された。嵯峨天皇のころから年2度の勅使下向が始まり、南北朝のころ一時中断したが、駿河国主の今川範国が勅使代として復活させた。5月の神事では、1~3日にかけて父宮、母宮、六所浅間宮で10騎による流鏑馬を執行する」
と記す。唐本大般若経や本地仏、五大尊不動明王は『富士山大縁起』にも記述があるものの、残念ながら散逸している。祭礼に関しては実際、明治維新まで駿河国惣社(静岡浅間神社)より国方奉幣使が参仕し、奉幣していた。
中世後期以前の内容と考えられている『富士山大縁起』の「五社記」には、
一 | 日吉宮 | 卯日 | 八幡 金色幡 朝日 |
二 | 新宮 | 辰日 | 愛鷹 赫夜妃誕生之処 |
三 | 今宮 | 巳日 | 犬飼神 |
四 | 六所宮 | 午日 | 浅間 惣社 |
五 | 新福地宮 | 申日 | |
同 | 大宮 | 申日 | (※備考:金剛界 千手観音) |
山宮 | 未日 | (※備考:不動尊) |
とある。これは、4月・11月の神事順を示している。日吉=日吉浅間神社、新宮=瀧川神社、今宮=今宮浅間神社、六所宮=富士六所浅間神社、新福地宮=入山瀬浅間神社を指し、大宮は富士山本宮浅間大社、山宮は山宮浅間神社を指す。日吉から山宮まで、繋がりある神事として行なわれていたようだ。
続いて、次のように列記されている。これは下方五社の本地仏を示している。
日吉本地 | 浅間宮 | 八幡宮 愛鷹宮 |
阿弥陀 観音 勢至 |
新宮本地 | 初名新山今名 愛鷹山新宮 |
毘沙門 千手 薬師 | |
今宮本地 | 初名今山今名愛鷹山今宮 (※『富士山大縁起抜書』) |
不動 薬師 | |
六所本地 | 惣宮 | 金剛界大日 | |
新福地本地 | 福地宮 浅間宮 |
薬師 |
瀧川神社を「新宮 辰日 愛鷹 赫夜姫誕生之処」とし、その本地仏は「初名新山今名愛鷹山新宮 毘沙門・千手・薬師」と載せている。
「新宮」は瀧川神社の旧称のひとつで、「辰日」は祭日。「愛鷹」は祭神であり、縁起では竹取の翁を指す。つまり、瀧川神社はかぐや姫の生誕地であり、竹取の翁を祭神にしていた。先に触れた『東泉院御由緒書』の「父宮」は、この竹取の翁に由来する。
瀧川神社の後方に観音堂があり、千手観音(市文化財)が祀られている。いまは妙善寺(臨済宗妙心寺派)が管理しているものの、同寺建立前は村山系の修験が関わっていたらしい。
この観音堂は、鎌倉期の文保元年(1317)10月11日に再建されている。この時の大発願主は頼尊だった。
頼尊は富士山の修験者で、「般若上人」とも呼ばれた。俗名は分からないが、『富士大宮司系図』によると浅間大社大宮司・富士直時の従兄弟にあたる。鎌倉期に富士行を興し、一般人にも登山を勧めたとされ、村山修験の中興の祖。村山と同じく本山派修験に属した須津多門坊の開祖頼尊や、東泉院の『富士山大縁起』を書写した正別当頼尊も同一人物と目されている。
瀧川神社は、頼尊ゆかりの東泉院が管掌した古社である。しかも「千手」を本地とした。神社と観音堂の位置関係や縁起を鑑みれば、観音堂はかつて瀧川神社の本地堂だったのではなかろうか。
岳南鉄道比奈駅で降車。根方街道を越えて御崎坂と呼ばれる傾斜のきつい坂を上ると、やがて瀧川神社の森が見えてくる。駅から徒歩10分といったところ。裏手に滝川観音堂、東隣に吉原第三中学校があり、東150mには『竹取物語』由来と伝える竹採公園がある。
境内はクスやスダジイ、イヌマキなどの緑濃い社叢(市保存樹林)に包まれ、神域独特の厳かさを保っている。ただ、さほど広くはない。諸施設に貸与され、神社そのものはずいぶん狭まったようだ。往古はもっと広く、おそらく隣り合う中学校の地も含まれていたに違いない。
樹下の明神鳥居をくぐり、広く短い参道を歩くと空がぽっかりとひらけた。日がさんさんと差している。そこに灯籠、手水舎、狛犬、そして社殿が建つ。いずれも昭和期造立と新しく、大昭和製紙(現日本製紙)や春日製紙工業など地元製紙会社による奉献物が多い。
神域の後方には滝川観音堂と妙善寺がある。観音堂は室町期には存在し、のち妙善寺が寄りそうように建った。「縁起」で触れたが、観音堂は当社の本地堂だったに違いないとわたしはみている。御堂の後ろの山神社(祭神/大山祇神)は瀧川神社の境外社だ。
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瀧川神社の北200m、原田字大金免1852番地に鎮座している。南は臨済宗妙善寺と接し、北は東名高速に面する。祭神は大山祇神、旧無格社。口伝によると享保年間(1716~35)の創祀で、旧暦9月17日が祭礼日だった。勾配のきつい坂道に石垣があり、その上に鬱蒼とした社叢が広がっている。
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Entry ⇒ 2008.03.28 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市