(今昔)廣国山先照寺
◇・・・廣国山先照寺(富士宮市大中里)の本堂。
Tag ⇒ 寺院 富士宮市の寺院 富丘地区 青見 曹洞宗 廣国山先照寺
Entry ⇒ 2014.04.01 | Category ⇒ ふじ今昔
恵日山千光寺
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市精進川2830 | ||
宗派 | 曹洞宗 | 本尊 | 千手千眼観世音菩薩 |
創建 | 応永年間(1394~1428) | 開山 | 天外清輪大和尚 |
本寺 | 青見先照寺 | 寺紋 | 丸に揚羽蝶 五七の桐 |
備考 | 富士横道観音霊場第7番札所 | ||
交通 | JR西富士宮駅より北7km 駐車場有 |
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水田と山林のみどりに包まれた精進川・大倉地区で古くから法幢をかかげてきた曹洞禅刹。60年に1度開帳される秘仏の本尊・千手千眼観音像にちなみ、「大倉の観音さん」と親しまれている。
本尊の千手千眼観音は、最澄が唐から持ち帰り、比叡山の補陀落堂に安置した像という。のちに平重盛、維盛父子(重盛は平清盛の嫡男、維盛は嫡孫)の手にわたり、守り本尊として崇められたと伝えられる。
平維盛は、通説では寿永3年(1184)に没した。この年の2月、源氏に追われて都落ちした平氏一門の陣中から離れ、高野山で出家したのち熊野を詣で、3月末、那智の浦で入水したという。
ところが千光寺縁起では、維盛は入水せずに駿河国に落ちた。そこで旧知の僧以典(平貞能)と再会。彼のすすめで富士郡上野に草庵をむすび、千手千眼観音像と高野山で得た毘沙門天像、それに以典所持の地蔵像を安置した――千光寺の草創である。
維盛は山ひとつ越えた上稲子に隠棲し、同所で亡くなったという。上稲子の棚田のなかに、「平維盛の墓」が守り伝えられている。また維盛は、精進川から上稲子に至る道ぞいの上柚野延命寺に父重盛の牌を納めたともいう。延命寺は重盛ゆかりの寺であった。
やがて室町期の応永年間(1394~1428)、青見先照寺2世天外清輪が曹洞宗寺院として開山した。天外清輪は先に触れた上柚野延命寺の開山でもある。その後、武田信玄の駿河侵攻時に兵火で全焼したというが、無事再建を果たして洞家の法幢をかかげてきた。
江戸期の諸地誌は「因智山千光寺」と載せ、『駿河記』は「傳云此観音は小松内大臣平重盛公守本尊にて、初め御堂原と云所にあり。後世此寺に移て本尊とす」と紹介している。山号を改めた時期は知らないが、大正期『上野村誌』ではすでに「恵日山」だった。
寺の規模は、明治中期『皇國地誌』が「東西56間 南北120間 面積1町9反17歩」と所載。このころは広い寺域だったことが分かる。
ところは精進川の大倉地区。芝川にかかる観音橋の西詰めに、千光寺の伽藍は建っている。寺は濃い山林を負い、一帯は見渡すかぎり水田と山林のみどり。いわゆる典型的な田舎風景だ。門前の道は県道だが、それすら交通量はまばらで、まことのどかな里である。
寺域を隔てる塀や垣根などはなく、赤い屋根が印象的な山門と本堂が、密な山林を負って建っているのみ。開放的なたたずまいだ。山門に入ると、古く小さな仁王さんが1対、寺を護っている。仁王像を有する寺は、富士地域では割とめずらしい。
山門を抜けると短い石段が設けられ、中ほどに石造物がならぶ。左手に姿のよい六地蔵(文化2年)、右手に庚申塔2基と石祠。ことに青面金剛が彫られた庚申塔は延宝8年製と古く、像容は一面二臂、上に日月、下には二猿。損傷激しいが、秀逸な石造物である。
本堂は古びた入母屋造。昭和7年以前の建築だという。なるほど、風雨に打たれた木肌は干し柿のように浅黒く染まり、経た月日の長さを感じさせる。兎の毛通しにカラフルな鳳凰の彫刻があり、扉ガラスには揚羽蝶の紋があしらわれていた。揚羽蝶は平氏ゆかりの紋。
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Entry ⇒ 2012.12.16 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
柚野山延命寺
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市上柚野197-1 | ||
宗派 | 曹洞宗 | 本尊 | 地蔵菩薩 |
創建 | 不詳 | 開山 | 天外清輪和尚 |
本寺 | 青見先照寺 | 寺紋 | 丸に揚羽蝶(幟) |
備考 | 木造剛目地蔵菩薩立像 阿弥陀三尊雲越之来光図(旧芝川町文) | ||
交通 | JR芝川駅より北8.5km |
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旧芝川町の北部、上柚野にある禅寺。柚野地域は日蓮宗強勢(柚野13寺のうち12寺が日蓮系)の土地ながら、延命寺は古くから禅の法幢をかかげてきた。縁起も空海や平重盛・維盛に彩られ、周辺寺院と趣を異にする古刹である。
古い梵鐘に詳しい縁起が刻まれている。
いわく、空海が自彫の地蔵を安置して開山したと伝わり、草創当時は真言密教の寺だった。下って治承3年(1179)、平重盛が熊野を詣でたのち富士登山を志し駿河へ入った。重盛は稲子に用意された館に滞在のみぎり、当寺の延命地蔵を深く信仰。堂宇を造営し、中将姫が刺繍した阿弥陀三尊雲越之来光図を寄進した。重盛はほどなく没し、元暦元年(1184)春、子の維盛が父の牌を納めた――。
大正期の『柚野村誌』などには、平重盛云々のころに真言宗から浄土宗へ改めたとあり、また重盛は阿弥陀三尊雲越之来光図のほか、不動尊1軸と河原左大臣筆の1軸も寄進したと載せている。
下って応永24年(1417)、青見先照寺2世・天外清輪が禅林に改め、以降は洞家の法幢をかかげている。
戦国期は駿河国守護・今川氏から朱印地を受け、天正10年(1582)3月には織田信長から禁制を与えられた。徳川氏の治世は5石5斗の朱印を与えられ、維新まで安堵されている。このころは檀越500有余、末寺6か寺を有し、七堂伽藍を備えていたという。
しかし、堂宇は安政大地震(1855)で倒壊したといい、再建した建物も明治44年に全焼した。ただ本尊、過去帳、宝物は、住職が火中から運び出し、いまに伝えている。現伽藍は大正期の再建。
現在の地蔵尊(木造剛目地蔵菩薩立像)は、建保3年(1215)10月、仏師・原田兵部郷佑円によって再造された。桧材を用いた寄木造で、高さはおよそ70cmという。中将姫伝承の「阿弥陀三尊雲越之来光図」ともども、旧芝川町の文化財に指定されていた。
県道75号(清水富士宮線)に小さな看板がでている。それに従い山手へ折れると、青々とした山林を負った寺域につく。門前を振り返れば勾配のゆるやかな棚田がはるかに広がり、その向こうには富士山。まことに美しい。日本の良き田舎風景だ。
門柱を抜け、六地蔵に挨拶して境内へ。まず左手に、禅寺らしく禁牌石がたつ。寛政8年(1796)建立とそこそこ古い。その後ろに大木2本が門柱のようにそそり立ち、間をすり抜けて短い石段を上がると、用水路が右から左へすばやく流れている。「土井の川」という。
土井の川は、江戸期に土井氏が開削したことからその名がついた。上柚野、下柚野、鳥並を灌漑しているため、「三区用水」ともいう。周辺寺院の門前を一様に潤しており、富士山を眺めつつ水路沿いの散策道をたどれば、いい塩梅に「お寺巡りの散策コース」となる。
土井の川に架かった小橋を渡ると、目の前に本堂が現れる。大正期再建の寄棟造で、屋根は瓦葺き。向拝を飾る波間に千鳥の彫刻がアクセントだ。本堂の傍らに水子地蔵がたち、揚羽蝶の紋をあしらった幟がはためいている。蝶紋は平氏ゆかり。寺紋なのかもしれない。
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Tag ⇒ 寺院 富士宮市の寺院 柚野地区 上柚野 柚野山延命寺 曹洞宗 廣国山先照寺 廣国山先照寺末寺 平維盛
Entry ⇒ 2012.11.11 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
富士山重林寺 秋葉三尺坊火祭
富士山重林寺(富士宮市大岩/曹洞宗)境内の秋葉三尺坊大権現で27日、「秋葉三尺坊火祭」が行われた。大勢の地域住民や檀信徒が火渡り修行を行い、防火や無病息災を祈願した。
重林寺の秋葉三尺坊は、明治20年に可睡斎から勧請された。
このころ重林寺は市中心部の大宮にあり、周辺地域では火災が頻発していた。そこで時の住職は大衆と相談し、火難除けに霊験あらたかな秋葉三尺坊大権現の勧請を決定。富士郡下の町村をはじめ、沼津・清水・焼津などの特信者からも助力を受け、分霊を得た。
以降、重林寺は「秋葉さんの寺」として定着し、火祭は100年以上連綿と続いている。(火祭ははじめ12月15日、中古11月15日、最近は10月下旬に開催)
当日は、午後4時30分から僧侶による鎮守回向などが龍王殿と威徳殿(秋葉堂)で行われ、つづいて行者による祈祷が修された。その後、御神火を「火渡り道場」の護摩壇に移し、行者が読経しながら奉納護摩木を燃えさかる炎へ投じ、所願成就を祈念した。
やがて木が炭になり火勢が弱まると、火渡り修行が始まった。行者を先頭に住職、役員、地元消防団、檀家信徒らが列をなし、炭の道を素足で歩いた。ある者はこわごわ足を踏み出し、ある者は熱心に手を合わせ、火難除け・無病息災などを祈願していた。
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- 関連リンク
- 富士山重林寺
- 富士山重林寺の関連リンク一覧
- 萬松山可睡斎
Tag ⇒ 寺院 富士宮市の寺院 富士根地区 大岩 曹洞宗 富士山重林寺 富士横道観音霊場 廣国山先照寺 廣国山先照寺末寺 萬松山可睡斎
Entry ⇒ 2012.10.29 | Category ⇒ まつり
綱敷天満宮 神像
ところは富士宮市大中里。旧青見村の氏神である丘路八幡宮の境内に、綱敷天満宮が鎮座している。祭神は菅原道真。平成18年10月に改築された社殿の中に、小さな綱敷天神像が祀られている。
綱敷天神像は、高さ30cmばかりの坐像。平安装束姿で、綱を巻いて作った円座に座り、左手で綱の端を握りしめている。これは菅原道真が太宰府に流され浜辺に着いたとき、地元漁師が船の艫綱をまいて即席の円座を用意したという故事にちなむ。面立ちは眼光鋭く眉をつり上げた憤怒の相で、いわゆる「怒り天神」。
この綱敷天神像は、山本勘助の祖父貞久の子孫である山本八郎右衛門幸光が享保19年(1734)青見先照寺へ奉納したもの(台座裏の銘文)。江戸後期の『駿河志料』を引くと、先照寺項に「綱敷天満宮木像 座像長9寸、佛殿にあり」と載っている。
明治初年の神仏判然令によって青見村で祀るようになったが、明治41年、像を祀っていた天神屋敷が土石流で被災したことから、丘路八幡宮境内へ遷座した。
なお像の由来については、「豊臣秀吉が天正18年(1590)後北条氏の山中城(三島市)を攻めたとき、北条方に勘助の子孫がいた。かれは落城後、菩提寺である先照寺に逃れて傷を手当てし、天神像を当地に残して三河国へ落ちた」などと伝承されている。厨子は勘助が護身用に持ち歩いた背負い厨子と伝えられる。
Tag ⇒ 神社 富士宮市の神社 富丘地区 大中里 青見 丘路八幡宮 天神信仰 廣国山先照寺 山本勘助
Entry ⇒ 2012.09.22 | Category ⇒ 神像・仏像
廣国山先照寺 末寺
廣国山先照寺(曹洞宗)はかつて、多くの末寺を抱えた。そのほとんどは明治期の廃仏毀釈までに廃されたものの、いまも孫寺をふくめ10か寺が洞家の法幢をかかげている。
先照寺末のうち、名が判明している寺は40か寺余り。下のリストは『廣國山先照寺縁起』(廣國山先照寺護持会発行)に載る末寺で、42か寺を数えている。
寺名の判明している末寺 | ||
---|---|---|
山寺号 | 所在地 | |
(廃)西陽軒 | 先照寺境内 | |
(廃)老梅軒 | 先照寺境内 | |
(廃)東岳寺 | 先照寺境内 | |
(廃)向陽庵 | 先照寺境内 | |
(廃)正受林 | 先照寺境内 | |
柚野山延命寺 | 富士宮市上柚野197-1 | |
├ (廃)玄龍寺 | 富士郡・稲子 | |
├ (廃)慶雲寺 | 富士郡・稲子 | |
├ (廃)金昌寺 | 富士郡・上野 | |
└ (廃)洞明院 | 富士郡・精進川 | |
恵日山千光寺 | 富士宮市精進川2830 | |
大安山法蔵院 | 富士宮市内野325 | |
├ (廃)桃陽軒 | 富士郡・内野 | |
├ (廃)積善寺 | 富士郡・内野 | |
├ (廃)清岩寺 | 富士郡・人穴 | |
└ (廃)龍光院 | 富士郡・佐折 | |
大富山松岳寺 | 富士市入山瀬408 | |
└ (廃)慈眼寺 | 富士郡・若宮 | |
曹洞山永源寺 | 富士市岩本1941 | |
├ 松岡山永光寺 | 富士市松岡2409 | |
├ 不動山円通寺 | 富士市木島488 | |
├ 普門山松雲寺 | 富士市木島679 | |
├ (廃)宝蔵院 | 庵原郡・宝野 | |
├ (廃)安相寺 | 富士郡・岩本 | |
└ 不死山岳松寺 | 富士宮市光町11-25 | |
亀鶴山萬松院 | 富士宮市元城町13-23 | |
富士山重林寺 | 富士宮市大岩418-1 | |
(廃)鳳林寺 | 富士郡・大宮 | |
(廃)龍泉寺 | 富士郡・山本 | |
(廃)宗持院 | 富士郡・山本 | |
(廃)東照寺 | 富士郡・柚野 | |
(廃)法源寺 | 富士郡・大宮 | |
(廃)二桂院 | 富士郡・大宮 | |
(廃)東盛院 | 富士郡・中里 | |
(廃)白光寺 | 富士郡・入山瀬 | |
(廃)清涼寺 | 富士郡・厚原 | |
(廃)心照寺 | 庵原郡・松野 | |
(廃)宗安寺 | 庵原郡・松野 | |
(廃)松雲寺 | 庵原郡・小山 | |
(廃)清泉寺 | 庵原郡・宝野 | |
(廃)神光寺 | 浅間大社内 | |
(廃)東漸庵 | 富士郡・小泉 |
いまも存続している末寺は次の11か寺。なお、不死山岳松寺は孫寺(永源寺末)だったが、延享元年(1744)以降は星山大悟庵の末となっている。
存続している末寺 | ||
---|---|---|
山寺号 | 所在地 | |
柚野山延命寺 | 富士宮市上柚野197-1 | |
恵日山千光寺 | 富士宮市精進川2830 | |
大安山法蔵院 | 富士宮市内野325 | |
大富山松岳寺 | 富士市入山瀬408 | |
曹洞山永源寺 | 富士市岩本1941 | |
├ 松岡山永光寺 | 富士市松岡2409 | |
├ 不動山円通寺 | 富士市木島488 | |
├ 普門山松雲寺 | 富士市木島679 | |
└ 不死山岳松寺 | 富士宮市光町11-25 | |
亀鶴山萬松院 | 富士宮市元城町13-23 | |
富士山重林寺 | 富士宮市大岩418-1 |
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伝承いわく、空海が自彫の地蔵を安置して開山し、平安期に浄土宗へ改め、室町期に先照寺2世天外清輪が禅林に改宗した。戦国期は今川氏から朱印地を受け、天正10年には織田信長から禁制を与えられた。◆所在地/静岡県富士宮市上柚野197-1。宗派/曹洞宗。本尊/地蔵菩薩。
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応永年間(1394~1428)、先照寺2世天外清輪が開山。本尊の千手千眼観音は、最澄が唐より持ち帰り比叡山に安置したものといい、のちに重盛・維盛父子が守り本尊としていたものと伝承されている。◆所在地/静岡県富士宮市精進川2830。宗派/曹洞宗。本尊/千手千眼観音菩薩。
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伝承いわく、最澄が富士登山のみぎり携帯の地蔵尊を当地に遺す。里人が来仮堂を建ててこれを祀り、のち来仮堂は天台宗・宝蔵庵となった。文明5年(1473)4月、先照寺3世榮崇祖繋が曹洞宗へ改めた。◆所在地/静岡県富士宮市内野325。宗派/曹洞宗。本尊/延命地蔵菩薩。
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文明7年(1475)真言寺院として開創(弘仁10年に真言宗平坊寺として開かれたという伝承もあり)。文亀3年(1503)先照寺4世梅巌祖春が再建し、曹洞宗へ改めた。江戸期は除地2石8斗。富士横道観音霊場16番札所。◆所在地/静岡県富士市入山瀬408。宗派/曹洞宗。本尊/観音菩薩。
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空海が9世紀初頭に開いた「白金山永見寺」が起源、と伝えられる。その跡地に16世紀初頭、先照寺5世寿天宗聖が伽藍を再建。岩本や富士川対岸の木島などに教線を広げ、江戸期は色衣着用を許された小本山格。◆所在地/静岡県富士市入山瀬408。宗派/曹洞宗。本尊/釈迦牟尼仏。
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もとは真言寺院で四ツ家にあったものの、明応年間(1492~1500)洪水で流失。文亀2年(1502)再興・改宗し、元禄7年(1694)永源寺11世霊明韻英によって現在地へ移転した。明治初期、境内に「巌松舎」設立。◆所在地/静岡県富士市松岡2409。宗派/曹洞宗。本尊/観音菩薩。
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永源寺4世富岩了銀が天正年間(1573~92)に開創。江戸期は除地8畝歩。大正期は境内7畝20歩、田畑山林合反別2町7反29歩を所有。木島不動尊を管掌しており、2月末の祭典では木綿20反に描かれた不動明王を開帳。◆所在地/静岡県富士市木島488。宗派/曹洞宗。本尊/観音菩薩。
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永禄3年(1560)岩淵と岩本を結ぶ富士川渡船鎮護のため開創されたと伝えられる。下って元禄13年(1700)霊明韻英が法地開山。明治6年、室野法蔵院を併合。大正期は田畑山林4町3反6畝余歩を所有していた。◆所在地/静岡県富士市木島679。宗派/曹洞宗。本尊/観音菩薩。
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永禄2年(1559)能室南芸が沼久保に開いた。もとは永源寺の末だったが、本寺から遠く不便だったため、延享元年(1744)星山大悟庵の末となった。大正年間、現在地へ移転。旧地に観音堂(えんま堂)が建っている。◆所在地/静岡県富士宮市光町11-25。宗派/曹洞宗。本尊/地蔵菩薩。
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神田長者が嘉禎元年(1235)1宇を建て、行基作の子安地蔵を安置したことに始まるという。他方、大宮城の鬼門除けに建てられた、との説も。永禄8年(1566)先照寺7世天雪寶重が再建し、草創開山。明治16年、法源寺・鳳林寺を併合。◆所在地/静岡県富士宮市元城町13-23。宗派/曹洞宗。
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先照寺第11世大休演奕が永禄2年(1559)に開創した。江戸期は除地5反7畝5歩。富士横道観音霊場の2番札所。もとは市中心部にあったが、昭和49年、富士宮駅・中原線の新設にともない現在地へ移転した。◆所在地/静岡県富士宮市大岩418-1。宗派/曹洞宗。本尊/釈迦牟尼仏。
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Entry ⇒ 2012.09.07 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
〔社寺探訪〕平維盛をしのぶ
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平成24年9月1日(土)
9月突入もいまだ暑い。厳しい残暑を避け、日の出から歴史さんぽ。今回の題は平維盛。
- 探訪リスト
- 維盛の墓→桜峠→柚野山延命寺→恵日山千光寺→本応山常境寺→廣国山先照寺→岡路八幡宮→富士山本宮浅間大社
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富士宮市(旧芝川町)には平家の落人伝説がある。伝説の主人公は平維盛。そんじょそこらの下級武士ではなく、かの平清盛の嫡孫にして、平氏一門の嫡流にあたるゆゆしい将だ。
そう、今年の大河ドラマは「平清盛」。なれば、この繋がりをブログで活用しない手はない。ドラマ放映に合わせて平維盛の伝承地を紹介すべく、現在、鋭意作業をすすめている。
この日は、伝承地の写真撮り直しを目的に、思いつくままぶらぶらと歴史散策した。
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平維盛の墓
朝一、眠い目をこすりつつ家をでて、まずは平維盛の墓(富士宮市上稲子)へ。午前6時ごろ到着。山あいのため日がとどかず、まだうす暗い時間だった。
平維盛は、平清盛のお孫さん。かなりのイケメンだったらしい。通説では那智の沖で入水したとなっているけれど、上稲子では、維盛は駿河国富士郡へ逃れてこの地で没したと伝承されている。現在の墓は、江戸後期に村人が領主松平氏の支援を受けて再建したもの。
墓は棚田のど真ん中にあり、棚田は「静岡県棚田等十選」認定。今回の訪問は、稲穂が実った棚田風景の撮影が目的だったんだけど、肝心の稲穂はゼロ。刈り取られた後・・・って雰囲気ではなかったから、作付けしなかったのかな。残念。
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桜峠
次の目的地は上柚野の延命寺。上稲子からだと、桜峠を越えていくことに。この峠、国道なんだけど道幅がせまく、車を慎重に運転せにゃならん。
写真上は平維盛の墓から望む桜峠。下は桜峠から見る柚野の風景。
桜峠の名については諸説あるけど、一説に「維盛が延命寺から稲子に向かった際、桜の杖を刺した」――。とってつけた感がすごいけれど、それはそれで微笑ましくもあり(´∀`)。それだけ維盛さんがこの地で愛されている証に相違ない。
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柚野山延命寺
6時40分ごろ、延命寺(富士宮市上柚野)に到着。こちらは平維盛の父・重盛(つまり清盛の嫡男)が信仰したという伝説のある寺。元暦元年(1184)には維盛が父の牌を納めた――とも。
延命寺は室町期に曹洞宗となり、戦国期は今川氏から朱印地を受け、織田信長からは禁制を与えられている。重盛・維盛伝説は別にしても、なかなか由緒あるお寺なのだ。
ちなみに上柚野をふくむ柚野地域は日蓮宗強勢の土地で、所在する13寺のうち12寺が日蓮系!。残る1寺が延命寺。
延命寺の門前にはうつくしい棚田が広がっている。目にやさしい佳景なり。・・・平維盛の墓でもこういう稲穂風景を期待したんだけどなぁ。なお、条件があえば富士山もばっちり見えるんだけど、この日はややかすんでいた。残念。
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恵日山千光寺
次に精進川・大倉地区へゆき、曹洞宗千光寺を参詣。7時ちょっとすぎ。こちらは本尊の千手千眼観音が有名で、俗に「大倉の観音さん」。
ここにも平維盛の伝説がある。いわく、駿河国富士郡に落ち延びた維盛は、僧以典(平貞能)と再会し、彼のすすめで当地に草庵を結んだ――。本尊の千手千眼観音は、最澄が唐より持ち帰り比叡山に安置したものといい、のちに重盛・維盛父子が守り本尊としていたものという。
久しぶりの参詣だけど、境内設備は特に変化なし。なお、千光寺はごく小さな寺ながら仁王門があり、小ぶりな仁王像が安置されている。仁王像は、富士地域ではそこそこめずらしい。岩本実相寺(富士市)のそれは市文化財で、あと北山本門寺(富士宮市)とかにもあるけど、総数は少ないと思う。
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本応山常境寺
千光寺を辞し、すぐそばの常境寺(日蓮宗)へ。こちらは富士山としだれ桜の撮影スポットで人気のお寺。いまは参道にアサガオが増殖し、足の踏み場もない状態。どうすればいいのだろう。
なんとなく落ち着かない雰囲気で、お参りもそこそこに辞去することにした。あ、常境寺以降の社寺は、維盛さんとは関係ありませぬ。
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廣国山先照寺
お次は青見の先照寺(富士宮市大中里)。曹洞宗の古刹である。おそらく富士地域における現存最古の曹洞禅刹・・・だとおもう。
先照寺は応永6年(1399)に開かれ、開基は富士山本宮浅間大社大宮司の富士駿河守成時。以降、浅間大社の大宮司富士氏や公文富士氏の菩提寺として発展した。今川義元や氏真、武田信玄の駿河侵攻後は同氏一族の穴山氏からあつく保護された名刹。
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岡路八幡宮
続いて先照寺そばの丘路八幡宮。じつに4年ぶりの参拝。
・・・その間になにがあったのかは分からないけれど、境内の両部鳥居が無残な姿になっていた(写真上)。写真中は、4年前の丘路八幡宮のすがた。木製鳥居だったから、単に老朽化かな。それとも地震の影響か。界隈で両部鳥居は珍しい存在だったんだけど。
丘路八幡宮を参拝し、次いで境内社の綱敷天満宮も参拝。こちらの神像は、山本勘助の祖父貞久の子孫が享保19年(1734)青見先照寺へ奉納した像。明治期の神仏分離で村持ちとなり、のち丘路八幡宮の境内社になった。
丘路八幡宮を参拝していた最中、富士宮市の広報で防災訓練を失念していたことに気がつく。 (´・д・`)
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富士山本宮浅間大社
そして午前9時、富士山本宮浅間大社をお参りし、本日の寺社巡りは終了。ちょっと暑かったけれど、いいお参りができた~。ヾ(o´ヮ`)ノ
Tag ⇒ 平維盛の墓 桜峠 柚野山延命寺 恵日山千光寺 本応山常境寺 廣国山先照寺 岡路八幡宮 富士山本宮浅間大社
Entry ⇒ 2012.09.06 | Category ⇒ 参詣履歴
松山神社(西町)
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市西町10-6(旧:大宮字松山町899) | ||
主神 | 大国主神 | 配神 | 庚申神 |
創建 | 不詳 | 例祭 | 陰暦7月15日 |
社地 | 15坪 | 社格 | 旧無格社 |
神徳 | 不詳 | ||
交通 | JR西富士宮駅より徒歩4分 駐車場無 |
明治初期まで西町に在った瑞松山寶積寺の元鎮守。社名「松山」や旧町名「松山町」は、寶積寺の山号からとられた。松山神社は、寶積寺が廃されたのちも存続し、いまも地域で敬われている。
神社が鎮座している一帯には、江戸期まで瑞松山宝積寺(真言宗、高野山宝性院末)があった。浅間大社大宮司家の菩提寺である。もともと大宮司家は青見先照寺(曹洞宗)を菩提寺としていたが、寛文年間(1661~73)先照寺との間に確執が生じたため離壇。新たに寶積寺を建て、菩提寺に定めた。
以降、寶積寺は浅間大社社家や社領の町人・百姓の菩提寺として大いに栄えたが、明治8年、廃仏毀釈によって廃された。
寶積寺檀家のうち、仏式を続けたい人々は先照寺へ移転。残る檀家80軒は神葬祭に改め、「富士祖霊社」を寶積寺鎮守(=松山神社)の別殿に祀った。富士祖霊社は昭和26年、立宿に移転している。
記録をみると、昭和初期の『大宮町誌』は、本社2尺5寸×2尺、雨覆並拝殿3間半×2間半、別殿3尺×2尺、境内15坪(持主富士神一郎)、例祭陰暦7月15日と所載。富士神一郎は浅間大社の別当宝幢院最後の住職で、神仏判然令によって還俗、神職に転じた人。
同時期の『富士郡神社銘鑑』は「配祀 庚申神」と記し、神社規模は境内15坪、本殿3尺5寸×2尺、雨覆兼拝殿3間半×2間半、崇敬者120名と載せている。
浅間大社前の商店街を西(JR西富士宮駅方向)へゆく。栄橋稲荷神社の鎮座する十字街の交差点をすぎて西町商店街へ入り、さらに150mばかり歩いた北側路地に松山神社は鎮座。西富士宮駅からなら東300mといったところ。
西向きの明神鳥居をくぐり、10歩ばかりすすめば小さな社殿につく。神域も極めてささやかで、そこに防災倉庫やら遊具やらが並んでまことに所狭く、いかにも「地域の氏神様」といった印象。社殿は昭和35年再建の流造で、真っ赤な塗装がやけに際立っていた。
社殿の裏に水神と庚申塚が並んでいる。水神は昭和17年、庚申塚は同55年建立と、いずれもさほど古いものではない。なお、昭和初期『富士郡神社銘鑑』は、松山神社の配祀に「庚申神」と所載(同時期の『大宮町誌』には載らず)。この庚申塚と関係あるのだろうか?
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Tag ⇒ 神社 富士宮市の神社 大宮地区 大宮 出雲信仰 松山神社(西町) 富士山本宮浅間大社 浅間大社 瑞松山宝積寺 廣国山先照寺
Entry ⇒ 2012.09.03 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
廣国山先照寺
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市大中里11-1 | ||
宗派 | 曹洞宗 | 本尊 | 地蔵菩薩 |
創建 | 応永6年(1399) | 開基 | 富士駿河守成時 |
開山 | 純白融清和尚 | 本寺 | 山梨龍華院 |
寺紋 | 久我竜胆 | 末寺 | 10か寺 |
交通 | JR西富士宮駅より徒歩25分 駐車場有 |
先照寺は、古代寺院・廣国寺跡に創建された古刹で、富士宮市最古の曹洞禅刹といわれる。室町期に浅間大社・大宮司富士氏の支援で山容を整え、爾来、同氏の菩提寺として発展。今川、武田、徳川ら時の権勢者から庇護されてきた。
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前身とされる廣国寺は、奈良期の神亀3年(726)に行脚僧・満随沙門が富士浅間(富士山の神)に祈誓をこめて建てたと伝えられる。満随沙門とその弟子・満澄沙門が70有余年住山したが、その後は無住となって堂宇は荒廃、寺名が残るのみになったという。無論、今となっては口碑のみで、伝説の範ちゅうである。
下って室町期の応永6年(1399)、豊後泉福寺の僧・純白融清が富士駿河守成時(富士山本宮浅間大社の大宮司)の助力を得て、廣国寺跡に曹洞宗先照寺(千勝寺)として再興した。
縁起によれば、富士成時が霊夢で「僧が参じている。この者を庇護せよ」と託宣を受けた。翌朝、成時が神域にゆくと1人の僧が誦経していた。純白融清である。聞けば彼も霊夢を見たといい、奇しくも内容は符合。両人、神慮の不可思議に感激し、ついには寺を創建した――。
古くは「千勝寺」とも書かれた。「千勝寺」は開山が東行千里霊夢を感じて勝地を得たことから名付けられ、「先照寺」は朝日が早く照らし嶺雪(富士山の雪)を見る環境から名付けられたという。また山号「廣国山」は、旧跡の廣国寺による。
先照寺として開創以降、大宮司富士氏や公文富士氏の菩提寺として発展し、また歴代の領主・武将からも外護された。
駿河国守護・今川氏は先照寺を祈願寺とし、今川義元は天文24年(1555)大宮司富士氏寄進の9貫260文余を安堵。弘治3年(1557)には検地増加分の1貫100文余を寄進している。氏真は永禄5年(1562)門前在家5軒の棟別ほか諸役を免除し、末寺神光寺領2貫200文も認めている。
武田信玄の駿河侵攻後は、同氏一族の穴山信友、信君(梅雪)親子からあつい庇護を受け、信友からは寺宝の蛇堂や本尊・延命地蔵菩薩像を寄進された(地蔵は信友が母の菩提を願い寄進)。このころ信君の命で、泉福寺末から甲州龍華院末になっている。
天正11年(1583)10月には徳川家康から10貫36文、同18年12月には豊臣秀吉から朱印16石を安堵された。
江戸期は末寺40数か寺を抱え、朱印地16石のほか、門前17石が寺所有と保障され、境内地は約4,000坪、山林など含めると東西16町、南北22町に及んだ。
江戸中期の境内絵図をみると、渋川付近に総門がたち、そこから松並木の長い参道がつづく。黒門、薬医門を経て、左に隠寮・禅堂・衆寮、右に鎮守・鐘楼堂・東岳寺・庫裡などがあり、正面に仏殿(本堂)、開山堂が建ち並んでいた。
しかし、万治3年(1660)の火災や、宝永4年(1707)の富士山噴火にともなう地震で被災。幕末には住僧太秀が借財返済のため本堂・禅堂・祖堂・鐘楼を売却してしまい、さらに維新後の廃仏毀釈による上地、戦後の農地改革などで寺容はいちじるしく縮小した。
末寺は、多くが廃仏毀釈で廃されたが、いまも孫寺ふくめ10か寺(※)が存続している。末寺=延命寺、千光寺、法蔵院、松岳寺、永源寺、萬松院、重林寺。孫寺(永源寺末)=永光寺、松雲寺、円通寺。※元孫寺=岳松寺。
先照寺は、古い地名でいえば青見(あおみ、おおみ)にある。JR西富士宮駅から北西へ約2km、潤井川に架かる青見橋を渡ると青見の地で、寺は南北に長い中里山を負って東向きに建つ。山門から門前を見渡すと参道がまっすぐのび、やや左手に富士山がみえる。
山門前に庚申塔や巡拝塔などがあり、門をぬけると右手に六地蔵と六観音がずらり。いずれも江戸期の石造物だ。六地蔵は市内山本、六観音は同山宮の人が寄進し、また参道の古灯籠は同佐折の人の寄進。富士宮市一帯から信仰されていた様子がうかがえる。
参道のはてに新しい本堂が建つ。平成19年に建て替えた寄棟造。旧本堂は寛文5年(1665)建立で大中里最古の建物だったが、老朽化や白アリ被害が進んだため改築に至った。新本堂は桧造で、漆喰塗の白壁が目にまぶしい。隣には壇信徒会館も新築された。
本堂の南は、きれいな植栽の庭園。そこに無着塔がある。先照寺開山・純白融清の師僧、無着妙融を祀る。その南側は墓地となり、納骨堂、歴代塔などが並ぶ。墓地経由で本堂裏山へゆくと山林が青々と茂り、林間に稲荷社が鎮座。2月初午に祭典を行っているという。
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記録により名が判明している末寺は40か寺余り。そのほとんどは明治期の廃仏毀釈までに廃されたものの、いまも孫寺をふくめ10か寺(※)が洞家の法幢をかかげている。
末寺=延命寺、千光寺、法蔵院、松岳寺、永源寺(永源寺末=永光寺、松雲寺、円通寺)、萬松院、重林寺。※元孫寺=岳松寺。
Tag ⇒ 寺院 富士宮市の寺院 富丘地区 青見 曹洞宗 廣国山先照寺 富士山本宮浅間大社
Entry ⇒ 2008.08.12 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
丘路八幡宮
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市大中里字岡路96 | ||
主神 | 応神天皇 | 創建 | 不詳 |
例祭 | 年2回(春秋) | 社地 | 165坪7合 |
社格 | 旧村社 | 神徳 | 家内安全、家運隆昌ほか |
交通 | JR西富士宮駅より徒歩25分 駐車場無 |
旧富士宮市と旧芝川町の境にそびえる丘陵の東すそ、農道風の狭い道からわずかに山手へ入ったところに鎮座している八幡さん。祭神は応神天皇1座。「おおみ」と通称される旧青見村の氏神で、字名を冠して「丘路八幡宮」と称される。
創建のいきさつや年代は伝わっていない。ただし、境内に寛保3年(1743)の石灯籠があるので、それ以前の成立なのだろう。
文献を引くと、江戸後期の『駿河記』は「八幡宮」、『駿河志料』は「八幡社」と所載。下って大正期の『富丘村誌』には、本社2尺×1尺、雨覆1間半×1間半、拝殿2間半×2間、鳥居高1丈6寸×明6尺3寸、境内165坪7合、例祭陰暦9月15日、氏子26戸とあり、昭和初期の『富士郡神社銘鑑』もおおむね同じ内容を載せている。
また昭和初期までは念仏講があり、命乞いや雨乞いをおこなう風習があったという。何事かあれば拝殿に集い、「ナンマイダブツ、ナンマイダブツ・・・」――と。浄土系の寺院が少ない富士地域ではあるが、念仏講は草の根の民俗行事として浸透していたらしい。
道ばたに幟台があり、そこから山手へ30mばかり歩けば白い明神鳥居がたち、間をおかず朱の両部鳥居、拝殿とつづく。かつて境内に枝垂れ桜の老木2本がそそり立っていたらしいが、昭和30年代に枯れてしまい、いまは緑一色に包まれた社である。
拝殿の後ろは一段高い石垣で、上に本殿が建ち、下にはふたつの力石が並ぶ。力石は、かつて例祭の余興に行われた力比べで使われた。左側は105kg、右側は120kg。担ぎ上げた3人(青見の熊吉、大中里の小野田清、山本の望月勇次郎)の名が刻まれている。
石垣上には八幡宮本殿と境内社が並ぶ。中央に本殿、その左に三峯神社と山神社、右には綱敷天満宮と天王神社。大正期の『富丘村誌』には「境内社 天神社」とだけあるから、他社はそれ以降の創祀、または遷座だろうか。八幡宮本殿は、明治初期製の一間社流造。
境内社のうち、ひときわ大きな社殿は綱敷天満宮。祭神は菅原道真。神像は、山本勘助の祖父貞久の子孫が享保19年(1734)青見先照寺へ奉納した。先照寺の仏殿で祀られていたが、明治初年の神仏判然令によって青見村で祀るようになり、後にここへ遷座した。
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Tag ⇒ 神社 富士宮市の神社 富丘地区 大中里 青見 八幡信仰 丘路八幡宮 廣国山先照寺
Entry ⇒ 2008.07.18 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市