明星山大悟庵 十一面観音画像
毎年3月第3日曜日に、曹洞宗大悟庵(富士宮市星山)で開帳されている観音書画像。約30m×15mの白布に力強く描かれており、間近でみるとその大きさに圧倒される。
描かれているのは頂上仏面をふくめ11面を戴いた十一面観音。左手に蓮華をさした水瓶をもち、右手は施無畏印。一部に朱や黄の彩色を用いているが大部分は墨で描かれ、髻や11面、瓔珞など細部にいたるまで丁寧。実写的でかつ立体感がある。総体的にふっくらとしてやさしい印象だが、目は美しい切れ長で意志は強そう。
この界隈では新豊院と長谷寺も布観音を開帳するが、大悟庵の観音はもっともきれいな面立ちと感じる。
観音画像の起源は、「孝霊天皇の代、雲中に現れた十一面観音菩薩を浅間大菩薩が写した」「弘仁3年、空海が白絹に観音を描き本尊とした」などと伝承されている。むろんオハナシの世界。
昭和初期『大宮町誌』は「寺記を閲するに、昔より文禄2年(1593)まで書像5回描写ありしといひ傳ふれども真偽定かならず」とし、確かなところでは延宝5年(1677)、元禄11年(1698)、明和8年(1771)、天保3年(1832)、明治42年に書き換えられたと紹介。現在の画像は昭和28年に描かれた。
なお『大宮町誌』は「木綿布を以て之を作るは機織の祖神倭文神社に何等かの縁由あるに似たり」と付記し、隣接している倭文神社との関連性に着目している。倭文神社の祭神は、『大宮町誌』が記したように「機織の神」であり、倭文神社は機織技術をもった職人集団・倭文部によって祀られた神社とされる。
また江戸末期の『駿河志料』も「想ふに(大悟庵が)禅院とならざるさきも、此寺も(倭文神社の)社僧地にて(観音)堂は(倭文神社の)本地堂なりしなるべし、里人も然云へり」と紹介している。※()内はわたしの補足
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Entry ⇒ 2013.01.06 | Category ⇒ 神像・仏像
明星山大悟庵 観音堂
星山丘陵の中段にある観音堂。大悟庵、倭文神社と甍を並べている。古くから観音霊場として名高く、駿河一国、駿・豆両国、富士横道など複数の巡礼札所。尊主は大悟庵と同じ十一面観音で、3月中旬、裏手斜面で約30m×15mの白布に描いた観音を開帳する。
創建年月は不詳だが、江戸末期の『駿河志料』は
「倭文神社の右にあり、寺は左に有り、想ふに(大悟庵が)禅院とならざるさきも、此寺も(倭文神社の)社僧地にて(観音)堂は(倭文神社の)本地堂なりしなるべし、里人も然云へり」
と所載。元は倭文神社の本地堂だったのだろう、と紹介している。 ※()内はわたしの補足
倭文神社の祭神は「機織の神」であり、倭文神社は機織技術をもった職人集団・倭文部によって祀られた神社とされる。よって、開帳される布観音について昭和初期の『大宮町誌』は、「木綿布を以て之を作るは機織の祖神倭文神社に何等かの縁由あるに似たり」と記し、やはり倭文神社との関連性に着目している。
現在の御堂は桁行3間×梁間4間の木製入母屋造。建立時期は『大宮町誌』に延宝5年(1677)3月15日再建修補とあり、『富士宮市の伝統建築』は元禄14年(1701)とする。
垂木は二軒繋垂木、向拝と身舎は海老虹梁で接続。木鼻に獅子と象、手挟に亀、虹梁には菊花の彫刻をあしらっている。黒味を帯びた木肌は渋く、総体的に素朴。御堂前のいびつな石積みや古びた石灯籠ともども古色に染まり、趣あるたたずまいをみせる。
【駿河一国観音霊場27番】御詠歌「富士おろし 迷いの雲も ふき払う 月日とともに おがむ星山」。【駿河・伊豆両国横道観音霊場20番】。【富士横道観音霊場35番】御詠歌「天下る 星の光や よく経ても 消えぬ御法の ためしなるらん」。
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Entry ⇒ 2013.01.06 | Category ⇒ 神社仏閣-建築
明星山大悟庵 観音開帳
「星山の観音さん」と親しまれている明星山大悟庵(富士宮市星山)で3月20日、恒例の観音開帳が行われ、檀信徒や愛好家らでにぎわいをみせた。
開帳されたのは約30m×15mの白布に墨で描かれた十一面観音菩薩画像。朝8時ごろ観音堂裏手の斜面に画像が掲げられ、10時から観音堂、次いで画像前で法要が営まれた。
昔はかなり大きな祭典だったらしく、江戸後期の『駿河記』は「近郷の民人群集、寺内市立あり」、昭和初期の『大宮町誌』も「偉観類なく諸人参詣頗る多し」と紹介している。こんにち、規模こそ縮小されたものの、檀家のほか愛知県など遠方からも愛好者が足を運び、熱心に手を合わせたり、じっくりと眺めたりしていた。
なお祭典の賽銭は、先ごろ起きた東日本大震災の災害義援金にあてられた。(→09年版)
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Entry ⇒ 2011.04.08 | Category ⇒ まつり
倭文神社(星山)
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市星山字坊地1 | ||
主神 | 健羽雷神 | ||
合祀 | 熊王神 高皇産霊神 伊邪那岐命 大山祇神 | ||
祭礼 | 1月15日 7月第2日曜日 10月10日 | ||
創建 | 不詳 | 社地 | 469坪 |
社格 | 式内社(小) 旧村社 | 神徳 | 五穀豊穣・家運隆盛ほか |
備考 | 浅間大社元摂社、スギ スダジイ(市保存樹) | ||
交通 | JR富士宮駅より徒歩25分 駐車場有 |
星山の産土神で、古くは「星山大明神」「嶽王子」とも称した社。祭神は健羽雷神。創祀こそ詳らかでないが、『延喜式』神名帳に列した古社であり、『駿河国神名帳』に「正五位下 委文天神(あるいは織委文天神)」の名で載る。
社伝によると、創祀は神代にさかのぼる。いわく、当地に君臨していた星神・香々背男が中央政府に反乱を企てたため、経津主神・武甕槌命は健羽雷神を派遣して討伐させた。その後、健羽雷神は星山にとどまり、倭織・製紙を興して地域発展に寄与したため、ここに祀られた、としている。
この社伝のベースは『日本書記』の葦原中国平定の段。いわく、經津主神と武甕槌神は従わない神々を討ったが、星神・香々背男のみ従わせることができなかった。そこで2神は倭文神の建葉槌命を派遣し、これを服従させた――。
また、同書の皇極天皇3年(644)条に興味深い話が載る。
いわく秋7月、不尽河(富士川)付近に住む大生部多が、ある虫を「常世の神である。これを祀れば富と長寿を得られる」と里人にすすめ、巫覡らもこれを喧伝した。民は惑わされ、家財を投げ打ち、歌や踊りに明け暮れた。その損害は甚だしく、みかねた葛野の秦造河勝が大生部多を討伐した――。
かいつまめば、新興宗教が富士川付近に興り、その勢いを恐れた中央が攻め滅ぼした、という話。
このふたつの話、あらすじが似ているだけでなく、倭文が関わる部分も共通する。「香々背男討伐」に登場する健羽雷神および建葉槌命は機織の神(倭文神)であり、「常世の虫」に登場する秦氏は機織技術をもった倭文部の氏。そして倭文神社は倭文部が祀った社だ。
社伝は「香々背男討伐」を主題とするが、むしろ富士川という身近な名詞がでてくる「常世の虫」の方が関連はありそう。大生部多を討った秦造河勝の一族が星山に定住し、氏神の倭文神を祀った、と考えれば腑に落ちる(大生部多も倭文部とする説がある)。のちに葦原中国平定を付会、秦造河勝→健羽雷神(=建葉槌命)、大生部多→香々背男に置き換えたのかもしれない。
ちなみに「常世の虫」は、橘や曼椒に生まれ、長さは4寸余、大きさは人差し指ほど。色は緑で黒点があり、蚕に似ている、とある。おそらくアゲハチョウの幼虫ではないか、と考えられている。
現在、神域は大悟庵と観音堂に挟まれている。というより、むしろ「大悟庵境内に鎮座」と表現したほうが適切で、同寺鎮守といった趣。同寺の伝えによれば、明星山に鎮座していた当社を元禄14年(1701)に遷したという。観音堂は当社の本地堂だったとする説がある。
その一方、当社を支配していたのは浅間大社であり、戦後まで浅間大社摂社に名を連ねた。古い記録をみると、天正5年(1577)の『富士大宮御神事帳』の正月項に「嶽王子御神事」とみえ、祭費7斗5升は浅間大社大宮司の知行地が負担している。江戸期も浅間大社末社料から配分を受け、神主は浅間大社所司太夫が兼務していた。
神域の規模は、寛政2年(1790)11月の『本宮及末社間數坪數書』に「星山村倭文之神社 拝殿2間3間 但社無之 社地541坪」とある。くだって昭和初期の『富士郡神社銘鑑』では境内469坪(氏子崇敬者83戸)。江戸期からほとんど変化はないようだ。
星山丘陵中段の神域は、曹洞宗大悟庵と観音堂に挟まれている。大悟庵の門柱を抜けると観音堂の石段があり、その左に神社の石段、さらに左へゆけば大悟庵の山門につく。どこも緑豊かだが、神社部分はひときわ濃く、そこが神域であることを意識させる。
石段を上って華奢な石鳥居(大正13年奉献)をくぐると、1本の老杉が天をつくように真っすぐそそり立つ。幹周り5.9m、太く力強い巨木だ。倭文神社の御神木であり、また境内社熊野神社(祭神大屋毘古命)の依代でもある。富士宮市保存樹。
杉の後ろに素朴な木造拝殿があり、その裏手の林中に玉垣で囲われた3m四方の磐境がある。ごく若い榊がぽつんと生えている。本殿はなく、この榊を御神体としている。昭和初期の古写真に写る榊は比較にならないほど大きいことから、近ごろ代替わりしたらしい。
なお、幕末の地誌『駿河志料』は「神殿なくただ大石を置き神座とす」とし、『駿河記』も「一片の神躰石ありて」と載せる。いま、拝殿前に注連縄をめぐらせた大岩がある。これが神体石だろうか。
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境内社として熊野神社を祀る。昭和初期の『大宮町誌』に「杉の老樹を以て神木とす」とあるように、境内の老杉を依代とする。祭神は木の神、大屋毘古命。
合祀社は次の3社。いずれも星山にあり、境内掲示板によれば昭和35年に合祀した(各社旧地の石碑は昭和27年合祀としている)。
字上ノ原186番地。祭神/熊王神。旧社格/無格社。創建年月不詳。文政13年(1830)の灯籠と水盤、弘化5年(1848)2月17日の棟札記録が残る。農林業の神として信仰され、かつて氏子は年3回、家業を休んで祭祀を行ったという。
昭和初期の『富士郡神社銘鑑』『大宮町誌』は、本殿3尺×1尺7寸、雨覆5尺9寸×5尺9寸、拝殿2間×1間5尺、境内250坪(あるいは205坪)、例祭9月17日(陰暦)、崇敬者56名と所載。
字向山843-2番地。祭神/高皇産霊神・伊邪那岐命。旧社格/無格社。明星山公園野球場近くの山林のなか、御神木のスダジイ(市保存樹)を背に鎮座。創建年月不詳。元禄10年(1697)明星山から遷座したと伝わり、文政11年(1828)9月17日の棟札を所蔵。
江戸後期『駿河記』『駿河志料』に「第六天神社」とみえ、昭和初期『富士郡神社銘鑑』『大宮町誌』に本殿9寸×9寸、境内103坪、例祭9月17日(陰暦)、崇敬者56名。スダジイの幹周は4.47m、3.36m。スダジイとしては市内随一。
字上ノ原130番地。祭神/大山祇神。旧社格/無格社。元禄11年(1698)1月17日、愛媛県越智郡宮浦日吉神社より遷宮したと伝承されている。江戸後期の『駿河記』『駿河志料』に「山神社」とみえ、昭和初期の『富士郡神社銘鑑』『大宮町誌』は本殿1尺×1尺、境内292坪、例祭9月17日(陰暦)、崇敬者56名と所載。
Tag ⇒ 神社 富士宮市の神社 大宮地区 星山 その他の信仰 倭文神社(星山) 明星山大悟庵 富士山本宮浅間大社 浅間大社摂末社 式内社
Entry ⇒ 2009.03.18 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
明星山大悟庵
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市星山9 | ||
宗派 | 曹洞宗 | 本尊 | 十一面観世音菩薩 |
創建 | 伝:弘仁3年(812) | 開基 | 俊山霊龍大居士 |
開山 | 了月玄禅師 | 本寺 | 天澤山深向院 |
寺紋 | 丸に抱き茗荷 五七の桐 | 鎮守 | 倭文神社 観音堂 |
備考 | 観音開帳:3月第3日曜日、駿河一国三十三所観音霊場第27番札所 駿河・伊豆両国三十三番観音霊場第20番札所 富士横道観音霊場第35番札所 駿河国地蔵霊場第26番札所 | ||
交通 | JR富士宮駅より徒歩25分 駐車場有 |
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富士宮市の南部、星山丘陵の一角に倭文神社、観音堂と甍を並べている曹洞禅刹。本尊は十一面観音。中世から連綿とつづく春の観音画像開帳が近郷近在に知られ、「星山の観音さん」の呼び名で親しまれている。
寺伝によると、はじめは「明星山福興寺」という真言宗寺院(摂津国久遠寺の末)だった。
いわく、弘仁3年(812)空海が南方の明星山清水平で百日行を修めたさい、明星が降ったことから山を明星山、里を星山と名付け、星山に福興寺を建立した。これが大悟庵の起こりという。
明星山福興寺は七堂伽藍を備えるなど隆盛したが、中世兵火にかかり荒廃したという。その跡地に元亀2年(1571)4月17日、甲斐深向院3世了月が甥の武田家臣・跡部大炊助勝資の帰依をうけて伽藍を再建。曹洞宗に改め、大悟庵と号した。
下って天正18年(1590)12月28日、豊臣秀吉から朱印領9石ならびに山林竹木などの諸役免除を安堵された。この朱印は徳川政権下もかわらず引き継がれた。
江戸期は小本山、色衣着用の格。末寺は松林寺(星山/廃寺)、不死山岳松寺(光町)があった。
境内の観音堂は、古くから観音霊場として知られ、駿河一国や富士横道など複数の巡礼札所となっている。尊主は大悟庵と同じく十一面観音。3月中旬、裏手斜面で約30m×15mの白布に描いた観音座像を開帳し、檀徒や愛好家らでにぎわいをみせる。
なお、観音堂は「倭文神社の本地堂だった」とする説がある。よって開帳される布観音について昭和初期の『大宮町誌』は、「木綿布を以て之を作るは機織の祖神倭文神社に何等かの縁由あるに似たり」と記し、やはり倭文神社との関連性に着目している。
【駿河一国観音霊場27番】御詠歌「富士おろし 迷いの雲も ふき払う 月日とともに おがむ星山」。【駿河・伊豆両国横道観音霊場20番】。【富士横道観音霊場35番】御詠歌「天下る 星の光や よく経ても 消えぬ御法の ためしなるらん」。
大宮と岩本をむすぶ街道から、星山放水路ぞいに富士川方向へおよそ1km。放水路をふちどるV字谷(星山丘陵)の中段に、緑林を背にした寺域が広がる。市中心部からさほど離れていないものの、一帯は山林と耕作地の比重が大きく、のどかな山里の感が強い。
山寺号を刻んだ門柱の先に観音堂の石段があり、その左手に倭文神社の石段、さらに左へゆけば大悟庵の山門につく。3堂社が横一列に並ぶかたち。山門をぬけるとすぐ後ろに鉄筋コンクリート製の本堂が建ち、さらに裏山が覆いかぶさる風に迫っている。
観音堂は江戸中期の入母屋造で、桁行3間×梁間4間。象や獅子、亀、菊花などの彫刻が向拝を飾っている。黒味を帯びた木肌は趣があり、鉄筋コンクリート製の大悟庵本堂とは対照的。以前は茅葺きだったが、10年ほど前に銅板葺きへ改められた。
境内は丘陵斜面に位置するだけに窮屈な感は否めないが、そのぶん見晴らしはいい。放水路対岸のなだらかな翠黛や、山林の向こうからのぞく富士山を一望できる。また4月下旬になると、住職栽培の牡丹300株が大輪を咲かせ、境内は参詣者で賑わいをみせる。
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永禄2年(1559)沼久保で開創された(『にのみや』)。もとは岩本永源寺末だったが、いつしか堂宇大破・不住となった上に本寺から遠く不便だったため、延享元年(1744)星山大悟庵末となり、翌年堂宇を再建。大正年間、現在地へ移転した。◆所在地/富士宮市光町11-25。宗派/曹洞宗。本尊/地蔵菩薩。
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Entry ⇒ 2009.03.17 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
明星山大悟庵 観音開帳
「星山の観音さん」と親しまれている明星山大悟庵(富士宮市星山)で3月15日、恒例の観音開帳が行われ、檀信徒や愛好家らでにぎわいをみせた。
開帳されたのは約30m×15mの白布に墨で描かれた十一面観音菩薩画像。朝8時ごろ観音堂裏手の斜面に画像が掲げられ、10時から観音堂、次いで画像前で法要が営まれた。
昔はかなり大きな祭典だったらしく、江戸後期の『駿河記』は「近郷の民人群集、寺内市立あり」、昭和初期の『大宮町誌』も「偉観類なく諸人参詣頗る多し」と紹介している。こんにち、規模こそ縮小されたものの、檀家のほか愛知県など遠方からも愛好者が足を運び、熱心に手を合わせたり、じっくりと眺めたりしていた。(→11年版)
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Entry ⇒ 2009.03.15 | Category ⇒ まつり