〔社寺探訪〕増川を歩く
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平成24年11月10日(土)
増川妙蓮寺の法燈継承式を見学し、ついでに増川の神社仏閣を訪ね歩いた。
- 探訪リスト
- 法経山妙蓮寺→八幡宮(増川)→浅間神社(増川)・浅間古墳→圓通山福聚院→法経山妙蓮寺法燈継承式
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この日は増川妙蓮寺で「法燈継承式」、岩本実相寺で「お会式」があり、どちらに行こうか悩んだ。結局、法燈継承式はそうそうあるものではないし、また稚児行列に知人の孫が参加することを聞き、増川妙蓮寺を参詣することにした。
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足は電車を選んだ。吉原の勤め先に車を止め、吉原本町駅から岳南鉄道に乗り込み、終点の岳南江尾駅で降車。そこから歩いて妙蓮寺をめざした。本当はひとつ前の駅で降りた方が近いのだけど、久しぶりの岳鉄だったことから、なんとなく終点まで乗りたくなったのだ。
狭い根方街道を10分ほど歩いて妙蓮寺へ。時計をみると10時30分前。稚児行列は12時30分、法燈継承式は14時からだが、事前に境内のようすを写真に撮りたかったし、周辺社寺も参拝したかったから、早めに到着。
本堂や七面堂は幕や幟で飾り付けられ、境内は僧や役員、檀信徒で賑わっていた。一角には「鮎壺太鼓」の姿もあり、なかなか小気味良い音を響かせていた(長泉町で活動しているらしい)。
写真をほどほどに撮り、どことなくそわそわした境内の雰囲気を味わったところでいったん妙蓮寺を辞し、周辺の社寺めぐりへ。
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創祀年月は詳らかでないが、『神社明細書』に寛文2年(1672)再建とあり、他史料を孫引くと同3年の社寺帳に名が記されているらしい。
立地環境から、最初は「妙蓮寺が鎮守として祀ったのか」と想像したけれど、妙蓮寺は延享~寛延年間(1744~50)ごろ神谷から移転してきたから、その線はない(八幡宮の別当は修験大福院だった)。ただ、日蓮系寺院と八幡神はなにかと関わりが深いから、妙蓮寺が移転した際、八幡宮の存在を考慮して場所をきめた可能性はあるかもしれない。
参拝は3年7か月ぶり。ご無沙汰だったが、境内にこれといった変化はみられない(やや木立が薄くなったかな)。ただ、社のすぐ前まで妙蓮寺墓苑が迫っている。おぼろげながら、以前よりも墓石が増えた気がしなくもない。ますます寺の鎮守風なたたずまいになってきた。
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八幡宮の50m後ろに、高速道路が東西に横たわる。古い方の東名だ。これを越えて西へ5分ほど歩いた場所に、浅間神社と浅間古墳(国史跡)が茶畑に囲まれて鎮座。西増川の産土神である。
付近一帯は古墳の密集地域で、浅間古墳はそれらの中で最大最古。内部は未発掘のため詳細は明らかになっていないが、4世紀後半~5世紀初頭の築成と推定され、年代・規模から古代珠流河国の王墓と考えられている。
浅間神社は墳上に鎮座している。創祀年月は不明ながら、正當山大福院が増川の産土神として勧請したと伝えられる(『神社明細書』)。大福院については八幡宮項で触れた。
ふと思ったのだけど、古墳上にはなにかしら祀られることが多いだろうか。少なくとも富士地域ではそう。富士市の場合、ぱっと思いつくだけで、浅間古墳、琴平古墳、山の神古墳、伊勢塚古墳、庚申塚古墳、天神塚古墳…。小高い地形が、神仏をまつるにふさわしいのかしら。
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浅間神社の南――東名高速の向かい――に福聚禅院がある。根方街道に面し、東名高速を負っている。本尊は秘仏の準提観音(33年ごと開帳)で、駿河一国観音霊場や駿河・伊豆両国横道観音霊場、富士横道観音霊場などの札所。
ここは石像物の宝庫。
まず街道ぞいに霊場道標や石碑、道祖神、某ネコ像が並ぶ。そこからやや奥まった場所に石段があり、階下で某ネズミ像が参詣者を迎え、上りきったところに江戸期奉納の石仏・巡拝碑が整列。奥に古風な本堂がしずかに建ち、前庭には干支地蔵や羅漢、布袋、宇宙人、怪獣などが所狭しと鎮座。まこと賑々しい。
数百年後、風化したかれら(ネコやネズミ、宇宙人怪獣など)はどう見られるのだろう。固有名詞で認識されるのだろうか。あるいは、路傍の道祖神や地蔵と同じ扱い――信仰対象――になっているかもしれない。ひどく気になる。
神社仏閣めぐりをしていると時おり正体不明な石造物を見つける。もしや、あれはわれわれが知らない、往時の「はやりモノ」を彫ったものだったりして……。
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詳しくは個別エントリーを参照されたい。 >>法経山妙蓮寺 法燈継承式
以下、メモ書き。
稚児行列/狭い根方街道を歩いた。短距離かつ歩くペースが早かったため、ひどく慌しかった。違う道を通ればもっと美しい行列になったかもしれない。いまさら詮無いけれど、もったいなかった。
法燈継承式/祝辞は貫名県中部宗務所長と伊藤宗務顧問。先月の本照寺法燈継承式と同じ。伊藤宗務顧問の話はユーモアに富み、まことおもしろい。
法燈継承式/妙蓮寺の本尊、『日蓮宗寺院大鑑』や『富士市の仏教寺院』を引くと「一尊四士」となっている。けれど、みたところ「一塔両尊四士」だった。新造したのだろうか。
Tag ⇒ 法経山妙蓮寺 八幡宮(増川) 正當山大福院 浅間神社(増川) 浅間古墳 圓通山福聚院
Entry ⇒ 2012.11.29 | Category ⇒ 参詣履歴
浅間神社(船津)
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市船津字浅間原619 | ||
主神 | 木花開耶姫命 | 配神 | 天照大日留賣命 大山祇命 |
創建 | 不詳 | 例祭 | 10月17日 |
社地 | 398坪 | 社格 | 旧村社 |
備考 | クス(市天然記念物)、社叢(市保存樹林) | ||
神徳 | 水徳・安産・子宝ほか | ||
交通 | 岳南鉄道岳南江尾駅より徒歩18分 駐車場無 |
富士市最東端、船津の産土神。船津をふくむ浮島の村々――特に根方街道ぞい――は富士信仰が盛んだったらしく、浅間神社が多く祀られた。当社もそのひとつで、木花開耶姫命を主祭神に、天照大日留賣命・大山祇命を配祀している。
これといった縁起は伝わらず、創建も詳らかでない。ただし元禄2年(1689)11月の棟札が残るから、それなりの歴史を有しているのは間違いない(棟札の神名は「富士淺間大菩薩」)。
『浮島村誌』を引くと、「昔ハ大ナル社ニシテ一ノ鳥居ハ石川ニアリシト云フ」とあり、隣村の石川(沼津市)に鳥居があったと述べている。先の棟札にも石川村の名は見えるから、ここは素直に信じたい。
棟札をさらに見ていくと、江戸後期の天保14年(1830)9月に社殿改築、嘉永元年(1848)11月に改築遷宮している。神名はいずれも「富士淺間大明神」と書かれ、法主は「正大先達法印大福院元靜」と「大先達大福院順靜法印」がつとめた。大福院は、富士市江尾の飯綱神社を本拠とした当山派修験である。
下って明治8年8月の神札では、神名は「木花開耶姫命」となり、祠掌も桃澤神社(沼津市)の神官へ替わった。
大正期の『浮島村誌』によれば、当時は境内地202坪で、鳥居1丈×8尺、拝殿2間×3間(6坪)、雨覆3間×3間4尺(10坪2合)、本社1間×1間1尺(1坪1合)の規模。いまよりもやや狭い。
付されている絵図を見ると、道路ぞいに鳥居がある。あまりに大ざっぱな絵のため分かりづらいが、道路=根方街道だろうか。
明治以降、神明社、山神社を合祀している。元の詳しい鎮座地は分からないが、江戸後期の『駿河志料』で東船津項を引くと、富士浅間社とともに「神明社」「山神社」が載る。該当社だろう。
山神社は多くの棟札を残す。享保7年(1716)と寛延4年(1748)のそれは「山神明王」、寛政11年(1789)や天保4年(1830)の札には「山神宮」と書かれている。法主は大福院や船津興隆寺だった。
根方街道のバス停「浅間原入口」から、北へ伸びた路地をたどる。そのまままっすぐ4、5分ばかり歩くと東海道新幹線が一文字に横たわり、その高架下をぬけると鎮守の森。バス停の名の「浅間原」はこの付近の字名で、むろん当社から興った名である。
神域はなかなか緑濃く、ほの暗い。参道や社殿そばにイチョウやクス、シイの大木がそそり立ち、その外に若いヒノキが林立している。社叢は市保存樹林に指定され、ひときわ姿が良く枝ぶりもみごとなクスは市天然記念物。特に明示はないが、御神木に相当するのだろう。
社殿は、入母屋造の拝殿と本殿が幣殿で繋がっている。拝殿はやや傷み、壁など補修済み。きわめて素朴な造りで、向拝彫刻なども最低限といった様相だ。一方、背後の本殿(覆屋)は先ごろ改築されたばかりで、そばに寄ると新しい木材独特の香りがつよく漂ってきた。
境内社は1社。くだんのクスの下に、黒く染まった石祠がある。石自神宮だ。検地で使われた縄や竿を祀った社といわれ、この系統の社は「おしゃもっさん」「おしゃごさん」「社宮司神社」などと呼ばれる。富士地域でも各地で散見され、近くは江尾にも鎮座している。
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Tag ⇒ 神社 富士市の神社 浮島地区 船津 浅間神社(船津) 浅間信仰 正當山大福院 愛鷹山興隆寺 桃澤神社
Entry ⇒ 2012.10.09 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市
佛立山圓照寺
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市江尾18 | ||
宗派 | 浄土宗 | 本尊 | 阿弥陀如来三尊像 |
創建 | 不詳 | 開基 | 誓運社願誉存香和尚 |
開山 | 誓運社願誉存香和尚 | 本寺 | 京都知恩院 |
寺紋 | 月影杏葉 | 備考 | 8月26日:岩船地蔵尊大祭 |
交通 | 岳南鉄道江尾駅より徒歩8分 駐車場有 |
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富士市の東部、増川と江尾の境にある浄土宗寺院。黒仏や岩船地蔵など、所蔵する仏像が地元で知られている。寺は江戸前期に開かれたと伝えられ、当初は現在地よりも北にあったが、江尾江川の氾濫で被災、移転したという。
開創は慶長15年(1610)とも寛永10年(1633)ともいわれる。『郷土誌須津』によれば、古い墓地から寛永7年と刻まれた石碑が発見されたというから、どちらかといえば慶長15年説が有力か。
また過去帳に、飯綱神社神官・大森氏の先祖(当山派修験)の戒名が記されていることから、古くは当山派修験と関わりを持った真言系の寺だった――と推測されている。
江戸期の地誌を引くと、2石9斗7升2合の除地を有していた。『駿河国新風土記』によれば、境内は東西18間、南北22間の規模で、7間四間の本堂、四間七間の庫裏があった。本尊は弥陀座像3尺、ほかに観音立像2尺7寸、脇士の観音、勢至各2尺3寸立像が載る。
下って明治17年の『皇國地誌』は、東西22間3尺、南北25間、面積1反4畝1歩と記している。
寺域は岳南鉄道江尾駅の北西600m。江尾江川に沿って密集した住宅地の隘路を北へ歩くと、ほどなく武骨な東名高速道路が横一文字。その高架下を抜けると山門だ。周りに緑多く、高速道路さえなければ景観も雰囲気も申し分ないだけに、実にもったいない。
高速道路の日陰に山門と鐘楼堂が建ち、山門前にまだ新しい六地蔵と古い石仏・石碑が一列に並んでいる。古い石仏・石碑は、貞享5年(1688)の地蔵、元禄15年(1702)11月15日の名号塔、それに享保2年(1717)10月の如意輪観音(巡拝供養塔)。
山門を抜けると空は明るく開け、足もとには砂利が清々しく敷かれている。正面に新しい本堂が建ち、左手に庫裡、右手には小ぶりな地蔵堂と観音堂。本堂は平成22年3月に改築落慶した入母屋造。瓦葺き屋根の緩やかな曲線が美しい。
地蔵堂には岩船地蔵のほか、黒仏、閻魔、青面金剛がまつられている。岩船地蔵は子育てなどの御利益で知られ、8月26日に祭典を行う。黒仏は初代本尊と伝えられ、かつて門前を乗馬したまま往来すると必ず落馬したため、後ろ向きに安置したと伝承されている。
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Tag ⇒ 寺院 富士市の寺院 須津地区 江尾 浄土宗 佛立山圓照寺 京都知恩院 飯綱神社(江尾) 正當山大福院
Entry ⇒ 2012.08.28 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市
神谷神明宮
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市神谷字間瀬口673 | ||
主神 | 天照大御神 | ||
創建 | 不詳 | 例祭 | 10月17日、11月23日 |
社地 | 343坪 | 社格 | 旧村社 |
備考 | ムクノキ(市天然記念物)、ムクノキ2本(市保存樹林) | ||
神徳 | 五穀豊穣ほか | ||
交通 | 岳南鉄道神谷駅より徒歩7分 駐車場無 |
神谷神明宮は富士市の東部、神谷(かみや)地区に鎮座している。祭神は天照大御神1座。古くから神谷の産土神として祀られ、地名は当社に端を発したともいわれる。
神谷は、愛鷹山尾根から須津川扇状地まで細く長くひろがる大字。地名は当社から起きたと考えられ、幕末の『駿河志料』も「此社ある故に地名を然称するなるべし」と紹介する。「神の坐す谷」という意味なのだろう。(ほか、南1町にあったシイに矢が飛来したことが由来という伝承もある)
神社の創祀年代は詳らかでない。ただし、地名由来となった社なら相応の古社に違いなく、地元でも「頗ル古祠ナリト称セラル」(『須津村誌』)と伝えられている。また御神木のムクノキは、樹齢1千年以上ともいわれる老樹。同種中、市内第一の巨木といい、幹の太さは県下でも最大級である。
記録を探ると、寛文12年(1672)の神社明細帳に「神谷村神明宮領高5斗7合」と記されているという。江戸後期の諸地誌は「神明宮」「神明社」と載せ、『駿河國新風土記』は「村持 拝殿東西三間 南北弐間半」と付記。境内には明和8年(1771)、文政4年(1821)の灯籠、同12年の常夜燈が残る。
明治になると村社へ列し、やがて神饌幣帛料供進社となった。当時の『皇國地誌』を引くと、社地15間×30間、面積1反3畝13斗の規模。下って大正13年に社殿改築し、大森氏(江尾飯綱神社などの神主)によって遷座式を執行した。昭和初期『富士郡神社銘鑑』は「境内343坪 氏子128戸」と紹介している。
岳南鉄道神谷駅で降り、山手(北)に向って歩く。根方街道を越え、住宅地の隘路をたどると、やがて緑に包まれた神域が現れる(すぐ後ろは東名高速)。規模こそ小さな社だが、ケヤキやムク、シイなどの木立が茂り、地域の産土神らしさをよくとどめている。
鳥居をくぐり参道をゆくと、社殿と御神木が寄り添っている。本殿は大正13年の木製流造り、拝殿は昭和39年の鉄筋コンクリート製平入り。いずれも装飾少なく、簡素なたたずまい。拝殿前には明和8年(1771)、文政4年(1821)の灯籠がさりげなく立っている。
御神木は市天然記念物のムクノキ。相当な老木で、いびつに盛り上がった幹が、角度によってまったく異なる表情をみせる。ただ、ひどく衰弱し、枯れてきた上部を切り、樹皮のくずれた幹を保護し、枝を支えて、かろうじて姿を保っている状態。せつなく、はかなげだ。
御神木の東側には境内社が並ぶ。天神社(菅原道真)と、床浦神社(疱瘡神)・八幡宮(応神天皇)・山神社(大山津見命)だ。八幡宮は明治5年に遷座してきたといい、他社は詳細不詳。天神社の祠にはえびす・大黒やはにわなどが同居、混沌とした様相になっていた。
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Tag ⇒ 神社 富士市の神社 須津地区 神谷 伊勢信仰 神谷神明宮 正當山大福院
Entry ⇒ 2012.08.19 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市
八幡宮(増川)
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市増川字宮添689 | ||
主神 | 応神天皇 | ||
配神 | 大山津見神 大物主神 火之加具土神 | ||
創建 | 不詳 | 例祭 | 10月17日 |
社地 | 265坪 | 社格 | 旧村社 |
備考 | 市保存樹林 | 神徳 | 町内安全ほか |
交通 | 岳南鉄道神谷駅より徒歩7分 駐車場無 |
富士市東部の増川に鎮座している。旧社格は村社。古くから東増川の産土神として祀られ、こんにちは応神天皇を主祭神に、大山津見神・大物主神・火之加具土神の3柱を配祀している。
創祀年月は詳らかでないが、『神社明細書』に寛文2年(1672)再建とあり、他史料を孫引くと同3年の社寺帳に名が記されている。当時、増川は旗本諏訪・牧田両氏の相給村で、当社は諏訪氏が知行した東増川の産土神だった。(西増川は浅間神社)
別当は大福院がつとめた。大福院は江尾飯綱神社を本拠とした当山派修験で、付近一帯に鎮座する社の別当だった。大福院の寛政11年(1799)『山寺号并除地堂社別當人別改帳』にも、「飯綱大明神」や「山神社」「浅間神社」などとともに「八幡宮」が列記されている。
くだって明治8年2月に増川村の村社へ列し、同33年9月に無格社3社を合祀、同41年に神饌幣帛料供進神社となった。
合祀3社は山神・金毘羅・秋葉。いま配祀している神々であり、やはり大福院を別当とした。棟札をみると、山神社は文政5年(1822)に再建しており、法主は「別當大福現住惇静法印」。金毘羅社は年不詳と寛政9年(1797)の2枚あり、法主は「大福恵静」「大福院元静」。秋葉社は寛政9年の1枚で、法主は「大福恵静」。なお、山神社には明治2年の札もあり、こちらは増川妙蓮寺19世が納めている。
社の規模は、江戸後期の『駿河記』に「東増川産土神 社領1石4升7合除地」と載り、『駿河国新風土記』は境内20間×25間、拝殿9尺4面と付記。明治中期『皇國地誌』には「面積8畝25歩」とある。
その後、大正4年に拝殿を焼失し、ほどなく再建。昭和初期の『富士郡神社銘鑑』には境内坪数265坪、拝殿2間半×2間、雨覆2間4尺×3間半、本殿3尺×2尺5寸、氏子57戸と載っている。現在の社殿は昭和32年に改築された。
神域は増川妙蓮寺の北にある。岳南鉄道神谷駅から根方街道へ出て、これを東へしばしゆくと左手に妙蓮寺。門前を素通りし、寺域の東辺をたどる枝道へ折れて傾斜地を北上すると八幡宮につく。社前まで妙蓮寺墓地が迫り、さながら同寺の鎮守といった風。
ごくささやかな神域は緑の木立(市保存樹林)に包まれている。ケヤキやクスノキ、スダジイなどが社殿を隠すようにそそり立ち、白い明神鳥居が聖俗の境にたつ。境内の空は枝葉に隠され、昼間でもなおほの暗く、ムラの鎮守社としての趣をよくとどめている。
ぽっかりと口を開けた鳥居をくぐり、木漏れ日指す参道をすすむと、深部に古びた社殿。トタン壁、瓦葺き屋根の簡素な建物(昭和32年7月改築)で、忘れ去られたようにひっそりとしたたたずまい。明窓から内部をうかがうと、神座3基が等間隔に並んでいた。
ちなみに、神域の50m後ろには東名高速道路が東西に横たわっている。これを越えて西へ5分ばかり歩いた場所には、浅間神社および浅間古墳(国史跡)が茶畑に囲まれて鎮座。「由緒」で触れたが、八幡宮は東増川、浅間神社は西増川の産土神である。
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Tag ⇒ 神社 富士市の神社 須津地区 増川 八幡宮(増川) 八幡信仰 正當山大福院 法経山妙蓮寺
Entry ⇒ 2009.05.21 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市
飯綱神社(江尾)
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市江尾字久保上712 | ||
主神 | 宇迦之御魂神 | ||
配神 | 素盞鳴尊 瓊瓊杵尊 大己貴命 大山津見命 疱瘡神 菅原道真 | ||
創建 | 不詳 | 例祭 | 10月17日 |
社地 | 255坪 | 神紋 | 十六菊 |
社格 | 旧村社 | 備考 | 市保存樹林 |
神徳 | 五穀豊穣、病気平癒ほか | ||
交通 | 岳南鉄道江尾駅より徒歩5分 駐車場無 |
富士市の南東部、かつて富士郡と駿東郡の境だった江尾(えのお)に鎮座している古社。いまはごく変哲もない、いわば「ありふれた地域の鎮守さん」といった風情だが、古くは飯綱法を用いた修験の社だった。近郷近在の社とは一線を画す濃い縁起を伝えている。
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崇神天皇10年(前88)、東海道に派遣された四道将軍・武淳川別命によって創建されたと『神社明細帳』は伝えている。また南北朝期、時の社人が南朝に尽くした功績から菊花の紋を賜ったとされ、下って戦国期、同社で行った飯綱神法が名を馳せたことから、「飯綱神社」を称するようになったという。
江戸期は修験・大福院管理のもと江尾村の総鎮守として敬われ、2斗5升7合の除地を有した。棟札によれば、宝暦8年(1758)9月に社殿改築し、天保3年(1832)9月に再建・遷宮している。棟札や大福院の寛政11年(1799)『山寺号并除地堂社別當人別改帳』によれば、当時は「飯綱大明神」と称していた。
明治維新後神道へ復し、同8年(1875)村社に列格、のち神饌幣帛料供進神社に指定された。また現在の配神を鑑みるに、かつて江尾に在って今はない「天満宮」「子神宮」「愛鷹大明神」「山神社」「疱瘡神」の各社を合祀したようだ。これら各社は明治中期『皇國地誌』では独立社として載っているから、合祀はその後のことだろう。
『皇國地誌』によれば、当時は東西14間、南北21間、面積8畝15歩の規模。祭神は「稲蒼魂命」表記で、祭日は9月19日だった。下って大正期の『須津村誌』は祭神を「宇迦之御魂神」と表記し、境内355坪、祭日は10月17日。昭和初期の『富士郡神社銘鑑』は「境内255坪 氏子103戸」と付記している。
飯綱神社の根本社は、長野県北部の飯縄山(標高1917m)山頂に鎮座している(里宮は長野市の皇足穂命神社)。古くから山岳修験の霊地として知られ、中世は軍神として上杉謙信や武田信玄など諸武将から信奉された。
現在の祭神は保食命だが、もとは飯縄権現を祀った。飯縄権現は白狐に乗った烏天狗形であらわされ、飯綱修験の験者は「飯綱法」とよばれた狐(管狐)使いの法を用いたという。
明治以降は「お稲荷さん」で知られる宇迦之御魂神を祀るが、もとは飯綱の根本社と同じく、飯縄権現を祀っていたと考えられる。明治期の神仏判然令や修験道禁止を受け、神道系の祭神へ改めたに相違ない。
江尾の飯綱神社も修験と関わりが深い。戦国期、同社で行った飯綱神法が名を馳せたと伝え、江戸期は当山派修験の正當山大福院が別当をつとめた。飯綱神社から愛鷹山に続く登山道には、研ぎ石や神楽石と名付けられた大岩のほか、祭祀・行場の遺構が残るというから、この一帯で修行していたのかもしれない。
大福院は、寛政11年(1799)『山寺号并除地堂社別當人別改帳』によると江尾村の飯綱大明神をはじめ、天満宮、子神宮、愛鷹大明神、山神之社、増川村の八幡宮、山神社、浅間神社の別当だった。
さらに棟札をみると、田中新田・粟嶋大明神や船津・浅間神社の勧請法主として「大先達大福院」「大福院権大僧都」の名がみえる。江尾、増川にとどまらず、現・富士市東部で広く活動していたようだ。
神仏分離以降は「大森氏」として神職につき、飯綱神社のほか、瀧川神社や中里八幡宮、日吉浅間神社などの祠掌もつとめた。ただ、こんにちは神職を離れていると聞く。
大福院(大森氏)について『須津村誌』は、「此ノ近傍神社ノ神官タリ~~(中略)~~大森家ハ修験職ニテ飯綱神社ニ奉仕シ前代玄海マデ四十五代ヲ閲ストイフ」と所載している。
なお且家には十種神宝図や神代文字、宝剣も伝えられていた。
岳南鉄道の終点・江尾駅から北へ歩くこと5、6分。根方街道を越え、坂道を100mほどのぼった右手、一段小高くなった場所に飯綱神社は鎮座している。まことにこぢんまりとしているが、おそらくかつては街道からここまで一帯、すべて神社の土地だったに違いない。
神域はクロガネモチやシイ、ヤマモモの大木に囲まれてひっそりとした佇まい。南側の石垣中央にえぐったような石段が設けられ、上がりきったところに古びた社殿が建つ。拝殿は瓦葺きの宝形造。その姿からか、はたまた歴史ゆえか、どことなく修験の面影を感じる。
なお『須津村誌』に、
「本社ノ傍ニ神木トシテ椋ノ老樹アリ周凡ソ二丈五尺 里ノ語リ伝フル所 《今ヨリ百年許前モ同様ニ見ユ却ツテ他ノ若木ノ為メニ壓セラレテ追々ニ衰フ 千年ニ近キ神木ナラン》木ノ幹ハ朽チテ若枝蔓々トシテ二丈許ノ上ニ周三尺許リノ榎ノ木寄生ス」
とある。いま、それらしき老木はない。まことに残念ながら朽ちてしまったようだ。
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Tag ⇒ 神社 富士市の神社 須津地区 江尾 修験道 飯綱信仰 その他の信仰 飯綱神社(江尾) 正當山大福院
Entry ⇒ 2008.09.25 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市
浅間神社(増川)
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所在 | 静岡県富士市増川字西村624 | ||
主神 | 木花之佐久夜毘賣命 | ||
創建 | 不詳 | 例祭 | 10月17・27日 |
社地 | 1,770坪 | 神紋 | 桜(本殿) |
社格 | 旧村社 | 備考 | 浅間古墳(国指定史跡) |
神徳 | 安産・子宝・火難除けほか | ||
交通 | 岳南鉄道神谷駅より徒歩7分 駐車場無 |
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愛鷹山の南麓、海抜53mの丘陵地に建つ。付近一帯は古墳の密集地域で、当社は中でも最大最古をほこる浅間古墳(国史跡)の上に鎮まっている。祭神は木花之佐久夜毘賣命。
創祀年月は詳らかでないが、正當山大福院が増川の産土神として勧請したと伝えられる(『神社明細書』)。増川は江戸のむかし、旗本牧田・諏訪両氏の相給村で、浅間神社は牧田氏が知行した西増川の産土神だった。(東増川は八幡宮)
大福院は江尾飯綱神社を本拠とした当山派修験で、近隣に鎮座している神社の別当職だった。大福院の寛政11年(1799)『山寺号并除地堂社別當人別改帳』にも、「飯綱大明神」や「八幡宮」などとともに「浅間神社」が列記されている。
所蔵する棟札・木札をみると、江戸中期の札が現存最も古い。明和4年(1767)1月28日の日付で、神名は「浅間大菩薩」、法主は永昌院となっている。つづく天明5年(1785)6月28日の札も「浅間大菩薩」銘で、法主は大福院だった。永昌院=大福院だろうか。
次ぐ文化9年(1812)6月17日の札は御神体再建時で、「奉勧請富士浅間大菩薩御本像」の墨書がある。法主は「別當江尾村正當山大福院十三世 現住蘭渓法印 前住慧静法印」。
他の文献に目を移すと、江戸後期の諸地誌に「富士浅間社」とみえ、『駿河記』は「西増川産土神」と付記。やや下って明治中期の『皇國地誌』は「浅間社」と載せ、「東西2間南北2間 面積4畝27歩 村の北方にあり 木花咲耶姫ノ命を祭る 祭日9月28日」と紹介。
のちに鎮座地が古墳上であることが判明し、大正期の『須津村誌』には「浅間神社」「増川浅間神社古墳」と載る。昭和初期の『富士郡神社銘鑑』は規模を詳しく紹介し、境内147坪、拝殿2間半×2間、雨覆2間×2間、本殿1尺5寸×1尺2寸、氏子29戸の規模だった。
神域は愛鷹山の南ふもと。富士市の街並みと、その彼方にひろがる駿河湾を一望する丘陵地(海抜53m)に鎮座している。南眼下に東名高速が騒がしく走り、のこる三方は茶畑に縁どられ、ぽっこりと盛り上がった神社・古墳は全体を樹木で美しく彩られている。
みどりに映えた朱の両部鳥居をくぐって参道をすすむと、シイやクスに覆われた墳丘につく。すこぶる急な斜面に一筋の石段が設けられている。人ひとり通るのが精一杯の狭く、急なそれを上ること69段、ほの暗い墳丘上に社殿が鎮まっている。
こんにちの拝殿および本殿は木造瓦葺きの平入り建築。素朴な造りながら、拝殿向拝の蟇股に鶴、木鼻に獅子と獏、手挟には牡丹の彫刻があしらわれている。改築は昭和34年10月のことで、時の宮司は飯綱神社神主にして旧大福院の大森忠祐氏だった。
なお資料写真をみると、神座は4基ある様子。ひとつは浅間神社のそれで、その左側に2基、右側に1基。記録によれば天保13年(1842)1月の「山神大明神」、明治12年4月の「御社宮司」の棟札があるから、神座のふたつはこれらの神々なのだろう。
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Entry ⇒ 2008.08.08 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市