〔社寺探訪〕増川を歩く
平成24年11月10日(土)
増川妙蓮寺の法燈継承式を見学し、ついでに増川の神社仏閣を訪ね歩いた。
- 探訪リスト
- 法経山妙蓮寺→八幡宮(増川)→浅間神社(増川)・浅間古墳→圓通山福聚院→法経山妙蓮寺法燈継承式
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この日は増川妙蓮寺で「法燈継承式」、岩本実相寺で「お会式」があり、どちらに行こうか悩んだ。結局、法燈継承式はそうそうあるものではないし、また稚児行列に知人の孫が参加することを聞き、増川妙蓮寺を参詣することにした。
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足は電車を選んだ。吉原の勤め先に車を止め、吉原本町駅から岳南鉄道に乗り込み、終点の岳南江尾駅で降車。そこから歩いて妙蓮寺をめざした。本当はひとつ前の駅で降りた方が近いのだけど、久しぶりの岳鉄だったことから、なんとなく終点まで乗りたくなったのだ。
狭い根方街道を10分ほど歩いて妙蓮寺へ。時計をみると10時30分前。稚児行列は12時30分、法燈継承式は14時からだが、事前に境内のようすを写真に撮りたかったし、周辺社寺も参拝したかったから、早めに到着。
本堂や七面堂は幕や幟で飾り付けられ、境内は僧や役員、檀信徒で賑わっていた。一角には「鮎壺太鼓」の姿もあり、なかなか小気味良い音を響かせていた(長泉町で活動しているらしい)。
写真をほどほどに撮り、どことなくそわそわした境内の雰囲気を味わったところでいったん妙蓮寺を辞し、周辺の社寺めぐりへ。
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創祀年月は詳らかでないが、『神社明細書』に寛文2年(1672)再建とあり、他史料を孫引くと同3年の社寺帳に名が記されているらしい。
立地環境から、最初は「妙蓮寺が鎮守として祀ったのか」と想像したけれど、妙蓮寺は延享~寛延年間(1744~50)ごろ神谷から移転してきたから、その線はない(八幡宮の別当は修験大福院だった)。ただ、日蓮系寺院と八幡神はなにかと関わりが深いから、妙蓮寺が移転した際、八幡宮の存在を考慮して場所をきめた可能性はあるかもしれない。
参拝は3年7か月ぶり。ご無沙汰だったが、境内にこれといった変化はみられない(やや木立が薄くなったかな)。ただ、社のすぐ前まで妙蓮寺墓苑が迫っている。おぼろげながら、以前よりも墓石が増えた気がしなくもない。ますます寺の鎮守風なたたずまいになってきた。
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八幡宮の50m後ろに、高速道路が東西に横たわる。古い方の東名だ。これを越えて西へ5分ほど歩いた場所に、浅間神社と浅間古墳(国史跡)が茶畑に囲まれて鎮座。西増川の産土神である。
付近一帯は古墳の密集地域で、浅間古墳はそれらの中で最大最古。内部は未発掘のため詳細は明らかになっていないが、4世紀後半~5世紀初頭の築成と推定され、年代・規模から古代珠流河国の王墓と考えられている。
浅間神社は墳上に鎮座している。創祀年月は不明ながら、正當山大福院が増川の産土神として勧請したと伝えられる(『神社明細書』)。大福院については八幡宮項で触れた。
ふと思ったのだけど、古墳上にはなにかしら祀られることが多いだろうか。少なくとも富士地域ではそう。富士市の場合、ぱっと思いつくだけで、浅間古墳、琴平古墳、山の神古墳、伊勢塚古墳、庚申塚古墳、天神塚古墳…。小高い地形が、神仏をまつるにふさわしいのかしら。
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浅間神社の南――東名高速の向かい――に福聚禅院がある。根方街道に面し、東名高速を負っている。本尊は秘仏の準提観音(33年ごと開帳)で、駿河一国観音霊場や駿河・伊豆両国横道観音霊場、富士横道観音霊場などの札所。
ここは石像物の宝庫。
まず街道ぞいに霊場道標や石碑、道祖神、某ネコ像が並ぶ。そこからやや奥まった場所に石段があり、階下で某ネズミ像が参詣者を迎え、上りきったところに江戸期奉納の石仏・巡拝碑が整列。奥に古風な本堂がしずかに建ち、前庭には干支地蔵や羅漢、布袋、宇宙人、怪獣などが所狭しと鎮座。まこと賑々しい。
数百年後、風化したかれら(ネコやネズミ、宇宙人怪獣など)はどう見られるのだろう。固有名詞で認識されるのだろうか。あるいは、路傍の道祖神や地蔵と同じ扱い――信仰対象――になっているかもしれない。ひどく気になる。
神社仏閣めぐりをしていると時おり正体不明な石造物を見つける。もしや、あれはわれわれが知らない、往時の「はやりモノ」を彫ったものだったりして……。
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詳しくは個別エントリーを参照されたい。 >>法経山妙蓮寺 法燈継承式
以下、メモ書き。
稚児行列/狭い根方街道を歩いた。短距離かつ歩くペースが早かったため、ひどく慌しかった。違う道を通ればもっと美しい行列になったかもしれない。いまさら詮無いけれど、もったいなかった。
法燈継承式/祝辞は貫名県中部宗務所長と伊藤宗務顧問。先月の本照寺法燈継承式と同じ。伊藤宗務顧問の話はユーモアに富み、まことおもしろい。
法燈継承式/妙蓮寺の本尊、『日蓮宗寺院大鑑』や『富士市の仏教寺院』を引くと「一尊四士」となっている。けれど、みたところ「一塔両尊四士」だった。新造したのだろうか。
Tag ⇒ 法経山妙蓮寺 八幡宮(増川) 正當山大福院 浅間神社(増川) 浅間古墳 圓通山福聚院
Entry ⇒ 2012.11.29 | Category ⇒ 参詣履歴
法経山妙蓮寺 法燈継承式
富士市増川の法経山妙蓮寺(日蓮宗)で10日、25世則武海園上人の退薫にともなう法燈継承式が行われ、則武海源副住職が26世となった。同宗僧侶や大勢の檀信徒が参列し、式の前には稚児が練行するなど、地域をあげて法燈継承を祝った。
妙蓮寺は、慶安3年(1650)に開かれた身延山直末寺院(開創はさらにさかのぼる説もあり)。当時は神谷地区の天沢に堂宇を構えていたが、火災や風水害で荒れたため延享~寛延年間(1744~50)ごろ現在地に移転した。一時衰微したものの、前住職25世の代に伽藍改築や境内・墓地整備を進め、こんにちの境域が整えられた。
当日は12時30分から稚児行列が催され、新住職とお稚児が練行した。お稚児は顔に化粧し、男児は紺袴と烏帽子、女児は緋袴と冠を着用。保護者に手を引かれ、約200mの道のりを10分ほどかけて歩いた。つづいて本堂前で修法師による身体健全の加持祈祷を受けた後、新住職とともに題目を唱えた。
法燈継承式は本堂で厳かに行われ、辞令伝達や過去帳継承、入寺奉告文の言上を経て則武海源上人が新住職に就任した。貫名県中部宗務所長(妙源山常泉寺住職)、伊藤通務顧問(静岡市感應寺住職)が祝辞を述べ、57年のあいだ住職をつとめた前住職を労い、経験豊かな新住職と檀信徒には健闘と健勝の言葉をかけた。
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Tag ⇒ 寺院 富士市の寺院 須津地区 増川 日蓮宗 法経山妙蓮寺 身延山久遠寺 身延山久遠寺末寺
Entry ⇒ 2012.11.11 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市
法経山妙蓮寺
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市増川2-551 | ||
宗派 | 日蓮宗 | 本尊 | 一塔両尊四士 |
創建 | 慶安3年(1650) | 開基 | 法性院日清上人 |
開山 | 浄蓮院日山上人 | 本寺 | 身延久遠寺 |
寺紋 | 日蓮宗橘 | 鎮守 | 七面堂 |
交通 | 岳南鉄道神谷駅より徒歩4分 駐車場有 |
増川に堂宇を構える妙蓮寺は、身延門流の日蓮宗寺院(身延山久遠寺直末)。山号は法経山、本尊は一塔両尊四士。江戸前期に神谷地区で開創され、江戸中期に現在地へ移転した。
古記録は失われているが、嘉永5年(1852)の過去帳および口碑によれば、草創は江戸前期の慶安3年(1650)。開山は日山、開基は2世の日清とされる。(開創年はさらにさかのぼる説もあり)
当時は隣地区・神谷の天沢に堂宇を構えていたが、火災や風水害で荒れたため延享~寛延年間(1744~50)ごろ増川村・宮下某の寄進によって現在地に復興移転。このとき用材を切り出した須津山中には、「妙蓮寺木」という地名が残されているらしい。
史料に目を転じると、江戸後期の地誌『駿河志料』に「妙蓮寺 日蓮宗 身延山末 法経山と号す 開山日山上人明暦三年丁卯(1657)十一月廿一日」と載っている。
『駿河国新風土記』はもう少し詳しく、除地1石4升、本堂6間半×5間、庫裡7間半×4間半、本尊宝塔1尺、多宝仏・釈迦各9寸余、日蓮上人像1尺を列記。さらに『駿河記』を引くと「在七面堂」とあり、鎮守である七面堂の存在を確認できる。
堂宇は、明治3年に腐朽していた本堂を取り払い、七面堂を仮本堂としている。その後、上地の影響などもあって衰微したようだが、昭和3年に本堂再建を果たし、同40年に書院・庫裏の改築、参道・歴代廟の整備など行い、同61年には七面堂を改築。現在の姿に整えた。
吉原から沼津市方面へ根方街道(県道22号)を東進すると、増川地区の中ほどで道が二手に別れる。大きく右へ曲がる本道はこんにちの根方街道。一方、まっ直ぐつづく枝道は根方街道の旧道にあたり、この道をたどると法経山妙蓮寺に行き当たる。
入口に小さな寺号標がたち、その右手から石段がはじまる。幅をもたせた、ゆったりとした造りだ。石段の脇に題目塔、供養碑、道祖神(もしくは地蔵)が並び、題目塔の銘をみると元文3年(1738)5月と古い。現在地に移転(延享~寛延年間)前に奉献されたらしい。
石段のはては平坦地となり、青空の下に本堂や七面堂、書院、庫裡が建つ。境内は小高い場所ゆえ眺望に恵まれ、南を見渡すと富士の家並みがはるかに続き、北を仰げば墓地の向こうに富士山の頭。なお、墓地の北辺には産土神の八幡宮が鎮座している。
本堂は昭和3年再建の寄棟造。向拝の蟇股に龍、頭貫に亀、持送りに牡丹、木鼻に獅子の彫り物がある。手もとの資料に作者の記述はないが、昭和期に活躍した板倉聖峯彫刻師の作風に似ている。七面堂は入母屋造で、七面天女のほか1対の仁王像を祀っている。
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Tag ⇒ 寺院 富士市の寺院 須津地区 増川 日蓮宗 法経山妙蓮寺 身延山久遠寺 身延山久遠寺末寺
Entry ⇒ 2009.08.27 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市
八幡宮(増川)
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市増川字宮添689 | ||
主神 | 応神天皇 | ||
配神 | 大山津見神 大物主神 火之加具土神 | ||
創建 | 不詳 | 例祭 | 10月17日 |
社地 | 265坪 | 社格 | 旧村社 |
備考 | 市保存樹林 | 神徳 | 町内安全ほか |
交通 | 岳南鉄道神谷駅より徒歩7分 駐車場無 |
富士市東部の増川に鎮座している。旧社格は村社。古くから東増川の産土神として祀られ、こんにちは応神天皇を主祭神に、大山津見神・大物主神・火之加具土神の3柱を配祀している。
創祀年月は詳らかでないが、『神社明細書』に寛文2年(1672)再建とあり、他史料を孫引くと同3年の社寺帳に名が記されている。当時、増川は旗本諏訪・牧田両氏の相給村で、当社は諏訪氏が知行した東増川の産土神だった。(西増川は浅間神社)
別当は大福院がつとめた。大福院は江尾飯綱神社を本拠とした当山派修験で、付近一帯に鎮座する社の別当だった。大福院の寛政11年(1799)『山寺号并除地堂社別當人別改帳』にも、「飯綱大明神」や「山神社」「浅間神社」などとともに「八幡宮」が列記されている。
くだって明治8年2月に増川村の村社へ列し、同33年9月に無格社3社を合祀、同41年に神饌幣帛料供進神社となった。
合祀3社は山神・金毘羅・秋葉。いま配祀している神々であり、やはり大福院を別当とした。棟札をみると、山神社は文政5年(1822)に再建しており、法主は「別當大福現住惇静法印」。金毘羅社は年不詳と寛政9年(1797)の2枚あり、法主は「大福恵静」「大福院元静」。秋葉社は寛政9年の1枚で、法主は「大福恵静」。なお、山神社には明治2年の札もあり、こちらは増川妙蓮寺19世が納めている。
社の規模は、江戸後期の『駿河記』に「東増川産土神 社領1石4升7合除地」と載り、『駿河国新風土記』は境内20間×25間、拝殿9尺4面と付記。明治中期『皇國地誌』には「面積8畝25歩」とある。
その後、大正4年に拝殿を焼失し、ほどなく再建。昭和初期の『富士郡神社銘鑑』には境内坪数265坪、拝殿2間半×2間、雨覆2間4尺×3間半、本殿3尺×2尺5寸、氏子57戸と載っている。現在の社殿は昭和32年に改築された。
神域は増川妙蓮寺の北にある。岳南鉄道神谷駅から根方街道へ出て、これを東へしばしゆくと左手に妙蓮寺。門前を素通りし、寺域の東辺をたどる枝道へ折れて傾斜地を北上すると八幡宮につく。社前まで妙蓮寺墓地が迫り、さながら同寺の鎮守といった風。
ごくささやかな神域は緑の木立(市保存樹林)に包まれている。ケヤキやクスノキ、スダジイなどが社殿を隠すようにそそり立ち、白い明神鳥居が聖俗の境にたつ。境内の空は枝葉に隠され、昼間でもなおほの暗く、ムラの鎮守社としての趣をよくとどめている。
ぽっかりと口を開けた鳥居をくぐり、木漏れ日指す参道をすすむと、深部に古びた社殿。トタン壁、瓦葺き屋根の簡素な建物(昭和32年7月改築)で、忘れ去られたようにひっそりとしたたたずまい。明窓から内部をうかがうと、神座3基が等間隔に並んでいた。
ちなみに、神域の50m後ろには東名高速道路が東西に横たわっている。これを越えて西へ5分ばかり歩いた場所には、浅間神社および浅間古墳(国史跡)が茶畑に囲まれて鎮座。「由緒」で触れたが、八幡宮は東増川、浅間神社は西増川の産土神である。
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Tag ⇒ 神社 富士市の神社 須津地区 増川 八幡宮(増川) 八幡信仰 正當山大福院 法経山妙蓮寺
Entry ⇒ 2009.05.21 | Category ⇒ 神社仏閣-富士市