田貫神社
名称 | 田貫神社 | ||
所在 | 静岡県富士宮市猪之頭字長者原2931 | ||
主神 | 不詳(尹良親王・田貫次郎、あるいは弾南長者) | ||
創建 | 不詳 | 例祭 | 3月15日(陰暦) |
社地 | 200坪 | 神紋 | 十六菊 |
社格 | 旧無格社 | 神徳 | 不詳 |
交通 | JR富士宮駅より北19km 駐車可能 |
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富士宮市猪之頭、富士山の雄大なパノラマを望む田貫湖のほとりに鎮座している。田貫湖伝説に登場する「某長者」を祀っていると伝えられ、「長者神社」「長者さん」とも呼ばれている。
祭神は諸説あるが、どれも伝説のたぐいだ。主に「尹良親王、田貫次郎(長者さん)」や「弾南長者」とする説が挙げられ、『上井出村誌』や『富士郡神社銘鑑』(神職会富士郡支部編纂)は、祭神不詳としながらも「尹良親王、田貫次郎」の話を付記している。
一方、立地環境をかんがみれば、田貫湖(往古は沼地)の神(竜神)を祀ったことに端を発する、とも想像できる。田貫湖には金竜や雨乞いの伝説がありながら、それを祀る社はない。あるいは、当社がその役割を担っていたのではないだろうか。
昭和初期の『富士郡神社銘鑑』によれば、当時は境内200坪、雨覆兼拝殿2間×3間、本殿2間×3尺、崇敬者127名の規模。その後、昭和29年ごろ社殿を新築し、同63年3月に改修している(『ふるさと上井出村800年誌』)。
尹良親王は、宗良親王の第2皇子(後醍醐天皇の皇孫)。生年不詳-応永31年(1424)8月15日。ただし、史料的な裏付けは乏しく、実否は不明とされる。
尹良親王の事績を記した書に『浪合記』があり、おおむね次のような話が記されている。
「尹良親王は遠江国飯谷の館で誕生された。母は飯谷井伊介道政の娘。井伊介道政は延元元年(1336)、尹良親王の父・宗良親王を主君と崇め奉り、遠江国へ迎えて旗揚げ、京都の将軍に挑んだことがあった。尹良親王は大和国吉野で元服後、正二位中納言一品征夷大将軍兵部卿となられ、元中3年(1386)8月8日に源姓を受けられた。
応永4年(1397)、新田・小田・世良田・桃井氏や遠江・三河の宮方勢力が相談し、尹良親王を吉野から上野国へ移し奉った。道中、井伊介道政、秋葉の天野民部少輔遠幹など西遠江の兵が守護し、まず駿河国冨士谷の宇津野(富士宮市内野)に移り、田貫の館に入られた。
館の主は田貫次郎という。冨士浅間(富士山本宮浅間大社)の元神主で、職を嫡子左京亮に譲り宇津野に閑居していた。次郎の娘が新田義助の妾だったよしみで宮を迎え入れたのだ。冨士十二郷の者は、新田義助に厚恩を受けており、鈴木越後守正茂、同左京亮正武、井出弾正正弼正房、下方三郎、宇津越中守らが宮のもとへはせ参じた。
宮は翌年春、宇津野を出御され上野国に向われた。途中、鎌倉勢の襲撃にあい、十二郷の兵が柏坂で防戦した。宮は鈴木越後守の館・丸山に入られ――(後略)」
尹良親王は各地を転戦し、応永31年(1424)8月15日、上野国から三河国に向かう途中、信濃国で敵軍(北朝方)に囲まれ自害されたという。
親王の御墓は長野県下伊那郡阿智村浪合にあり、宮内庁管轄となっている。隣には親王を祀る浪合神社が鎮座している。
伝承によれば、親王の訃報を伝え聞いた富士12郷の者たちは悲しみ、天子ヶ岳の頂に祠を建て、親王を祀った。
また田貫次郎に延菊という美しい娘がいて、親王が滞在中、かいがいしく側で仕えていた。訃報を聞いた延菊はふかく嘆き、形見の冠をだいて長者ヶ池(田貫湖)に身を投げた。人々はその心をいじらしく思い、亡がらを親王の祠の隣に埋葬したという。
神域は田貫湖の北畔。眼前に湖をひかえ、背には鬱そうとした桧林を負う。素朴な社殿のほか、社号標と灯籠、それに狛犬が湖を眺めて座っている。極めて地味なたたずまいではあるが、むしろこのくらいの方が昔話のにおいを感じさせ、雰囲気としてふさわしい。
社号標の側面に「彈南長者無一院殿唯日乗大居士 彈南長者無二院妙乗日唯大姉」とある。祭神とされる弾南長者の戒名らしい。また、社殿や灯籠に十六菊をあしらう。同じく祭神とされる尹良親王に由来しているのだろう。(弾南長者=長慶天皇という伝説もある)
参拝をすませ、神域の写真を撮っていたら、軒下から猫がすがたを見せた。茶地に黒しまの雉猫2匹。親子らしい。わたしを警戒しながらも、ゆったりとした動作で階段を上り、のんびり日向ぼっこ。
( ̄ー ̄ )。oO(いつか狸も見られるかもね・・・)
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Tag ⇒ 神社 富士宮市の神社 上井出地区 猪之頭 田貫湖 田貫神社 人神信仰
Entry ⇒ 2011.12.20 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
田貫湖
田貫湖(たぬきこ)は、富士宮市猪之頭にある灌漑用人造湖。周囲4km、水深8m。雄大なパノラマを展開する富士山を望み、晴れて風のない日は湖面に逆さ富士を映す。「静岡の自然100選」。
天子ヶ岳の東麓、古富士泥流によって形成された標高670mの台地にあり、もとは「田貫沼(狸沼)」「長者ヶ池」と呼ばれた沼地だった。昭和10~11年、農業用水確保と発電のため沼を拡張。同24年8月、「田貫湖」に改称した。その後も拡張工事を行い、水深8m、東西1km、南0.5km、周囲4kmの規模となった。
湖畔にキャンプ場、ボート乗り場、ヘラブナ釣り場があり、整備された周遊道路は散歩コースとして人気。北畔には尹良親王と田貫次郎(あるいは弾南長者)をまつる田貫神社が鎮座している。
富士山のビューポイントとしても知られ、晴れて風のない日は逆さ富士を水面に映す。また4月20~27日、8月16~22日ごろ、山頂から太陽が昇る「ダイヤモンド富士」や、それが水面に映る「ダブルダイヤモンド富士」が見られ、カメラマンらで賑わいをみせる。
田貫湖は伝説に彩られている。
主な伝説に「吉野長者の娘」「炭焼き松五郎」「弾南長者」「尹良親王と田貫次郎」がある。いずれも田貫湖に関わった長者たちを描くが、その源流には雨乞い信仰が息づいている。「吉野長者の娘」には田貫湖の竜神が現れ、そのほかは天子ヶ岳とリンクして独特な雨乞い信仰を伝えている。
伝説は資料ごと差異あるが、主な話を編集し、ここで紹介する。
天間村(富士市天間)に「吉野長者」という夫婦がいた。ひろびろとした田畑を持ち、不自由のない日々を送っていた。ただひとつ、子宝に恵まれなかったが、村の氏神に一心に願ったところ、ついに愛らしい女の子を授かった。夫婦はその子に手巻(たまき)と名付け、たいそう可愛がった。
月日は流れ、手巻が18歳になった年のこと。あたり一帯はたいへんな日照りとなった。田は干上がり、稲は枯れそうで、みな途方に暮れた。それを見た手巻、なにやら考え込む日々。しだいに元気を失い、ついには伏してしまう。
ある日、手巻は「白糸の滝のそばにある大きな池を見たい」と長者夫婦に頼んだ。夫婦は容体を心配したが、たっての願いなのだからと聞き入れた。池についた手巻は、従者の静止も聞かず、かごから降りた。そして、引き寄せられるように池へ近づき、そのまま身を投げた。
にわかに天が黒くかげり、大雨が降りだした。やがて水面に波紋がひろがり、金の竜がぬっと半身をもたげた。
「わたしはもともとこの池の主です。浮世恋しく、娘に姿を変えていたのです。長いあいだお世話になりましたが、池に帰らねばなりません。長者夫婦のご恩は忘れません」
こう告げて竜は池の中に消えていった。
これを聞いた長者夫婦が手巻の寝床を調べたところ、まばゆい金の鱗が3片輝いていた。
以来、池を「長者ヶ池」と呼ぶようになり、日照りで困ったときは、池に祈念すると雨に恵まれたという。
天間界隈で吉野の姓はめずらしくないという。また天間と接する山本(富士宮市)は、吉野冠者源重季の後裔を称する吉野一族の本拠地。この吉野氏は南北朝期に大和国から移住、中世は高原関所などを支配した。この一党から山本勘助が出たとされる。
むかし、富士山西麓に松五郎という炭焼きがいた。たいそうな働き者で、日々炭を焼いて過ごしていた。風のない日は、炭を焼く煙がどこまでも立ち昇り、とおく都からも見えたほどだった。煙はときに紫色にも映り、みな不思議に思った。
天子もこれを気にかけ、あるとき占い師に問うた。すると「皇女の婿となる人が立てる煙」という。そこで皇女ははるばる富士の裾野をたずね、松五郎と出会った。
皇女は松五郎に対面のしるしとして小判を与えた。しかし価値を知らぬかれは、長者ヶ池を案内中、水鳥にそれを投げつけた。皇女はこの振る舞いをひどく気に入り、間もなく松五郎と結婚する。ふたりは「炭焼長者」と呼ばれ、日々なごやかに暮らした。
月日は流れ、皇女は病に伏した。松五郎の懸命な看病のかいなく、日に日に重くなった。やがて皇女は死に臨み、
「長らくお世話になりました。わたしが世を去りましたら、冠とともに都がみえる山の頂に埋葬してください」
と頼み、しずかに息を引きとった。松五郎は遺言のとおり、山の頂に亡がらを葬り、瓔珞のついた立派な冠を添えた。
皇女を埋葬した山は、いつしか「天子ヶ岳」と呼ばれるようになった。また山頂に瓔珞をおもわせる美しい花を咲かせるツツジが生え、人々はこれを「瓔珞ツツジ」とよび大切にした。
天子ヶ岳(1,316m)は田貫湖の西方、南北に連なる天子山地(天守山地)にある山。田貫湖からだと山塊となって分かりづらいが、より南方から眺めるととがって見える。
瓔珞(ようらく)ツツジの花は白く小さく、それが鈴なりで下向きに咲く。俗に「風鈴ツツジ」とも呼ばれ、里人は訛って「ユーラクツツジ」と呼ぶらしい。
都のある身分の高い家に、富士姫という姫がいた。幼少のころから病弱であった。ある日、夢枕に白髪の老人がたち、「そなたの名が富士山と似かよっているため、富士の神がお招きしている。かの地におもむき、煙がひときわ高くあがっているところを訪ねなさい。さすれば病は治まるだろう」と告げた。
姫は富士山の西麓を訪ね、長者ヶ池に迷い込んだ。そこで炭焼きの藤次郎と出会い、やがて結ばれた。ふたりは、姫が持参した黄金を元手に池のまわりの沼地を開墾し、家は「弾南長者」と呼ばれるまでに富み栄えた。姫もおおいに働き、病弱だった体はいつしか本復していた。
※中略(『炭焼き松五郎』同様、姫臨終~瓔珞ツツジの挿話)
ふたりは心根やさしく、近在の人々の面倒をよく見たことから、村人たちから慕われていた。やがてふたりが亡くなると、村人は遠照寺住職と相談のすえ、炭焼き小屋跡にふたりを祀る社を建立した。こんにちの田貫神社である。
さて、長者夫婦には息子がいた。2代目藤次郎である。この人は親に似ず、たいそうな怠け者で、かつ強情だった。その性格が災いし、やがて悪いことが続き、とうとう気がふれて亡くなった。以来、池畔の大屋敷は空き家となり、狸が住まうほど荒れた。里人は誰ともなく長者ヶ池を「狸沼」と呼ぶようになった。
弾南長者=長慶天皇とする説もある。長慶天皇が病気療養のため富士の裾野におもむき、そこで没したという伝説があり、それが弾南長者と結びついたようだ。
本極山遠照寺は猪之頭にある日蓮宗寺院。(紹介した伝説とつじつまはあわないが)慶長5年(1600)開創とされ、「長者の子孫が建てた」という話もある。
室町初期、宇津野(富士宮市内野)に隠居人がいた。田貫次郎実長という。富士山本宮浅間大社の元神主で、神職を嫡子左京亮にゆずって宇津野に隠居、沼のほとりに館を構えていた。人々はかれを「長者さん」と呼び、沼を「田貫沼」、あるいは「長者ヶ池」と呼んだ。いまの田貫湖である。
応永4年(1397)、尹良親王(後醍醐天皇の皇孫、宗良親王の皇子)が南朝復興を図るため、吉野から上野国へ下向。途中、宇津野へ寄り、田貫次郎の館に逗留された。親王来訪を伝え聞いた富士12郷の者どもははせ参じ、親王を護衛した。また田貫次郎に延菊というかれんな娘がいて、親王滞在中、かいがいしくそばで仕えた。
翌5年春、尹良親王は宇津野を発たれた。やがて各地を転戦し、応永31年(1424)信濃国で北朝方に囲まれ、自害された。訃報を知った富士12郷の者たちは嘆き、天子ヶ岳の頂上に祠を建て、親王を祀った。
延菊もまた悲嘆にくれ、ついには形見の冠をだいて長者ヶ池に入水した。人々はその心をいじらしく思い、亡がらを親王のとなりに埋葬した。翌年、墓所からツツジが生え、瓔珞のような花を咲かせた。人々は延菊を想い、瓔珞ツツジと呼び大切にした。
田貫湖ほとりの田貫神社は、尹良親王と田貫次郎を祀っているという。(一説に尹良親王が父・宗良親王を祀り、のちに田貫次郎が合祀されたとも)
尹良親王の来訪は『浪合記』に詳しく載っている。その話に「延菊」を付会した伝説なのだろう。『浪合記』の詳細は田貫神社項を参照していただきたい。
天子ヶ岳の頂に、瓔珞を思わせる美しい花を咲かせるツツジがある。「瓔珞ツツジ」という。枝を折ったりすると、姫の怒りに触れ、たちまち空が曇り、強風や大雨が起きるという。
日照りが続いたとき、ふもとの人々は田貫湖から水藻をとってくる。水藻をとることで池の竜神を怒らせ、雨を降らせるのだ。それでも効果がない場合、水藻を浅間大社の御手洗川(神田川)にひたし、神前の狛犬を川に投げ込み、さらに雌雄の竜を作って水につけ、
「天子ヶ岳の黒雲、雨下したまえ」
と唱える。これをいくども繰り返すと、雨が降ったという。成就したら水藻は池に返された。
もし、それでも験のない場合にかぎり、禁忌を犯す。つまり、天子ヶ岳に登り、瓔珞ツツジの枝を折るのだ。『富士山麓伝承の旅』によれば、最近では昭和39年に富士宮市大岩の人々が行い、51ミリの雨をえた記録が残っているという。
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Entry ⇒ 2011.12.20 | Category ⇒ 郷土いろいろ