富士五山
富士五山は、駿河国富士郡にある富士門流5本山の総称。古くは「富士五ヶ寺」「富士郡法華五ヶ寺」とも書かれた。いずれも日蓮の最高弟日興とその弟子たちによって鎌倉~南北朝期に開かれ、爾来富士門流の中核を成してきた。
富士門流は、日蓮系諸門流のひとつ。日蓮の最高弟・六老僧日興の法脈を継承し、「日興門流」「興門派」などとも呼ばれる。
同門流には「興門八本山」と呼ばれる有力本山8か寺があり、そのうち富士山麓にある5か寺を富士五山とよぶ。上条大石寺、重須本門寺、下条妙蓮寺、小泉久遠寺、西山本門寺。
日本で「五山」といえば、鎌倉五山や京都五山などが知られている。これらは臨済宗の寺格制度であり、鎌倉幕府や室町幕府によって定められた。一方、富士五山は寺格を示すものではなく、単なる総称として「五山」が用いられている。
江戸後期の諸地誌は5本山を「富士五ヶ寺」「富士郡法華五ヶ寺」などと載せ、手もと資料における「富士五山」の初見は大正期の地誌。断定はできないが、富士五山は近代になって(例えば観光宣伝を兼ねて)用いられた名称なのかもしれない。
日興は日蓮没後、甲斐国身延山で祖廟の守護にあたったものの、同じ六老僧の日向や身延地頭・波木井実長らと教義上の確執が生じたため、弟子をつれて身延を離山。ほどなく駿河国富士郡上野の地頭南条時光に迎えられ、同地域で後進育成にあたった。
富士郡に拠点を移した日興は、南条氏ら支援のもと正応3年(1290)に上条大石寺、永仁6年(1298)に重須本門寺を建立した。また南条時光が正中元年(1324)に下条妙蓮寺を興し、日興の高弟日郷が建武元年(1334)に小泉久遠寺を開創。西山本門寺は康永2年(1343)、日興の高弟日代によって建てられた。
富士五山は、江戸期まで日蓮法華宗勝劣派の本寺。明治初年「日蓮宗」に統一され、「日蓮宗勝劣派」を経て、明治9年に富士門流の8本山(富士五山、伊豆実成寺、京都要法寺、保田妙本寺)および末寺で「日蓮宗興門派」を結成。同32年「本門宗」へ改称した。
翌33年に大石寺が本門宗より独立、「日蓮宗富士派」を公称し、大正元年「日蓮正宗」に改称。本門宗は昭和16年、日蓮宗、顕本法華宗と三派合同を行い、「日蓮宗」を結成。同25年、下条妙蓮寺が日蓮宗を離れ日蓮正宗に合流。同32年、西山本門寺が日蓮宗を離れ日蓮正宗へ合流、のちに単立寺院となった。
次に、富士五山および(できれば一緒に参詣したい)おススメの寺院を列記する。いずれも日興ゆかりの古刹。
富士五山 | ||
---|---|---|
名称 | 包括 | 所在地 |
上条大石寺 | 日蓮正宗 総本山 | 富士宮市上条2057 【末】 |
重須本門寺 | 日蓮宗 大本山 | 富士宮市北山4965 【末】 |
下条妙蓮寺 | 日蓮正宗 本山 | 富士宮市下条688 【末】 |
小泉久遠寺 | 日蓮宗 本山 | 富士宮市小泉1649 【末】 |
西山本門寺 | 単立 | 富士宮市西山671 【末】 |
一緒に参詣したい寺院 | ||
岩本山実相寺 | 日蓮宗 霊跡本山 | 富士市岩本1847 |
河合山妙興寺 | 日蓮宗 | 富士宮市長貫1195 |
下之坊 | 日蓮正宗 | 富士宮市下条2021 |
富士山東光寺 | 日蓮宗 | 富士宮市下条343 |
より大きな地図で 富士五山 を表示
日興が正応3年(1290)、地頭南条時光の寄進により建立した古刹。戦国期は今川氏から保護され、門前棟別銭・諸役など免除のほか、門前市の諸役免除も保証された。江戸期は天英院や諸大名があつく外護。◆所在地/富士宮市上条2057。宗派/日蓮正宗(総本山)。本尊/板曼荼羅。 【個別エントリー】
日興が永仁6年(1298)、地頭石川能忠や南条時光、小泉法華衆、上野講衆の協力により建立した。門流の中核寺院として発展し、今川氏や徳川氏などがあつく庇護。江戸期は本末合わせて99か寺の規模だった。◆所在地/富士宮市北山4965。宗派/日蓮宗(大本山)。本尊/曼荼羅。 【個別エントリー】
正中元年(1324)、南条時光が妻の一周忌に際し邸宅を寺へ改めたことに始まる。武田氏や徳川氏から寺領寄進や諸役免許を受け、江戸期は朱印26石余。盛時は塔中20坊、末寺8寺を擁し、現在は塔中7坊、末寺3寺。◆所在地/富士宮市下条688。宗派/日蓮正宗(本山)。本尊/日蓮親筆板本尊。 【個別エントリー】
大石寺を退いた日郷が建武年間、大石寺塔中蓮蔵坊の組織と機能を小泉郷へ移したことに始まる。中世は歴代領主から保護され、今川氏や武田氏、徳川氏から守護不入や諸役免除、朱印下附を受けた。江戸期は朱印40石。◆所在地/富士宮市小泉1609。宗派/日蓮宗(本山)。本尊/大曼荼羅。 【個別エントリー】
重須本門寺を退いた日代が康永3年(1344)、西山領主大内安清から寺領・堂宇の寄進を受けて開いた古刹。武田氏や水戸徳川家から外護されたほか、後水尾天皇の皇女常子内親王の深い帰依を受け、下馬下乗の札をたてることを許された。◆所在地/富士宮市西山671。宗派/単立。本尊/大曼陀羅。 【個別エントリー】
![]() |
久安年間(1145~50)、比叡山横川の智印が台密寺院として開創した古刹。若き日興が修学し、正嘉2年(1258)日蓮が一切経閲読のため入山した折、弟子となった。のちに日蓮宗寺院へ改められ、地域の布教拠点となった。◆所在地/富士市岩本1847。宗派/日蓮宗(霊跡本山)。本尊/十界曼荼羅。
![]() |
日興の外祖父河合入道の屋敷があった地と伝える。身延を離れた日興が一時逗留し、のち弟子に命じて「妙福寺」を建立したという。元禄年間(1688~1704)日随が再建し、妙興寺へ改称した。境内に「爪引きの石曼荼羅」「腰掛け石」がある。◆所在地/富士宮市長貫1195。宗派/日蓮宗。本尊/一塔両尊四士。
![]() |
大石寺の末頭寺院。南条氏の持仏堂(下屋敷とも)に寄宿していた日興が正応2年(1289)に開創。現在の本堂は昭和48年再建。境内の「かなと蔓」は、身延山を離れて当地にたどり着いた日興一行の荷を結束していた蔓が根づいたものと伝える。◆所在地/富士宮市下条2021。宗派/日蓮正宗。
![]() |
日興の弟子日禅が正応5年(1292)、上野藤太夫の屋敷に一宇を建立したことに始まる。元徳2年(1330)、日興が母の三回忌に際し、両親の尊儀と一門の墓を移させた。ゆえに昔は五山に次ぐ名刹として「富士六門跡」と呼ばれたという。◆所在地/富士宮市下条343。宗派/日蓮宗。本尊/曼荼羅。
Tag ⇒ 富士五山 日興 大石寺 重須本門寺(北山本門寺) 下条妙蓮寺 小泉久遠寺 西山本門寺
Entry ⇒ 2013.05.09 | Category ⇒ 郷土いろいろ
上行山安立寺
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市青木672 | ||
宗派 | 日蓮宗 | 本尊 | 曼荼羅および祖師像 |
創建 | 不詳 | 開基 | 諏訪部氏 |
開山 | 法輪坊日覚上人 | 本寺 | 西山本門寺 |
寺紋 | 十曜、鶴の丸 | 鎮守 | 八幡宮? |
交通 | JR西富士宮駅より北西3km 駐車場有 |
![]() |
![]() |
安立寺は富士宮市青木のほぼ中央、西ノ山と通称される丘陵を背負って建っている。富士門流(西山本門寺末)の日蓮宗寺院で、山号は上行山、本尊は曼荼羅および祖師像。
開創は文献ごと差異があって判然としない。
寛永18年(1641)9月の棟札に、西山本門寺末流であることや、諸檀那の助成により建てられたことが記され、本願主は「法輪坊日覚」とある。『富丘村誌』『青木区誌』などはこの人を開山としている。
ただし、同棟札に「現当2世」の文字がみえ、また『日蓮宗寺院大鑑』を引くと「開山は不明。中興開山は法輪坊日覚」となっている。
くだって元文5年(1740)6月18日の棟札に、中興日覚の50遠忌につき住職と檀越諏訪部氏が協力して客殿(現本堂だろう)を再建した旨が記されている。となると、日覚は中興開山であり、寺は寛永18年以前に存立していたとみていいようだ。
なお安立寺の隣に八幡宮(祭神/天照大御神・応神天皇)が鎮座している。口碑によれば、古くは西ノ山2113番地に在ったが、慶長10年(1605)11月に現在地へ遷座。このとき社名を「権現」から「天照八幡」に改称したという。
日蓮系寺院は天照八幡を諸天善神として盛んに祀る。手もとの文献に安立寺と八幡宮の関わりを示す記述はないが、立地を鑑みれば無関係ではないだろう。ひょっとすると寺建立の際、地域の産土神(「権現」)を寺の鎮守とし、祭神を「天照八幡」に改変したのでは。開創=慶長10年と考えれば、寛永や元文の棟札とも符合する。
他の文献をみると、天明8年(1788)の『法華宗勝劣派西山本門寺寺院本末帳』に「上行山安立寺 駿州富士郡青木村」と所載。また江戸後期の諸地誌にも「安立寺 日蓮宗 西山本門寺末」と載る。
境内規模は、明治中期の『皇國地誌』に東西15間×南北20間、面積8畝14歩。大正期『富丘村誌』には境内254坪、本堂6間×4間半、境外所有地田畑山林5反1畝24歩2厘、檀徒20人と載る。
安立寺は西ノ山の東裾にたち、背に緑林を背負い、門前はいちめん農耕地。そばでは牛が草を食んでおり、いわゆる昔ながらの農村風景のなかにある。そんなのどかな景色を楽しみつつ民家のあいだの細い参道をゆくと、山の緑を背に本堂がたつ。
現本堂は元文5年(1737)建立の寄棟造。旧富丘村において最も古い建物とされる。明治7年、この本堂で小学新曦舎が開校され、同17年6月に青木学校へ移転するまで学校として用いられた。あるいは、明治以前から近隣の学び舎だったのかもしれない。
本堂のそばに水神が祀られている。表に「水神 妙法蓮華経蓮寿日宗」、裏に「川原新開廣大願主 嘉永五子年四月十二日卒 俗号諏訪部喜宗次政辰」。喜宗次政辰は水資源に恵まれなかった当地の水利発展につとめた人で、碑はかれの功績をたたえ建立されたようだ。
ごくつつましい墓地を見渡すと、「諏訪部」の姓がめだつ(というより諏訪部氏ばかり)。上で触れた喜宗次政辰氏も諏訪部氏、「由緒」で触れた開基檀越も諏訪部氏。あたりに諏訪部氏が多いのか、同氏の家寺なのか。おそらくその両方なのだろう。
|
|
||||
|
|
|
|
|
より大きな写真で スライドショー を表示
写真一覧 を表示
Tag ⇒ 寺院 富士宮市の寺院 富丘地区 青木 上行山安立寺 八幡宮(下耕地) 日蓮宗 西山本門寺 西山本門寺末寺 富士門流
Entry ⇒ 2012.12.09 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
富士山代立寺 多宝塔
富士宮市小泉の富士山代立寺(日蓮宗)がかねて建設していた多宝塔が竣工した。平成24年10月13日に落成慶讃式を迎え、「夢合わせ祖師像」「板曼荼羅本尊」が納められた。
富士山代立寺は、江戸初期に開かれた日蓮宗寺院。昭和以降、本堂・位牌堂・山門・書院・庫裡・鐘楼堂・梵鐘の改築、新造を重ねるなど境内整備をすすめ、このたびみごとな多宝塔が落成した。富士地域(富士宮市・富士市)で唯一の木造多宝塔である。
塔に納められた「夢合わせ祖師像」「板曼荼羅」は、深澤山上行寺で奉られていた。しかし同寺は明治初期に廃され、祖師像らは檀家の柴田氏たちが守っていくことになった。このとき大勢の上行寺檀家が、本寺(西山本門寺)を同じくする縁から代立寺へ移った。
平成21年、柴田氏から祖師像と板曼荼羅を「代立寺でまつってほしい」と申し出があり、寺は檀信徒と相談の結果、多宝塔建立を決めた。22年10月の地鎮起工式に始まり、23年5月一字一石経、8月一万遍唱題、10月初重組立式、24年2月立柱式を行い、8月24日に竣工。そして10月13日、落成慶讃式を迎えた。
落成した多宝塔は総檜造りで、高さ約15m(49尺5寸)、間口約5m(16尺3寸5分)、軒幅は約9.5m(31尺5寸)。石山寺の多宝塔を模したという。石山寺のそれと比すれば裳階の広がりを欠くぶん、開きかけたつぼみのような固さはあるものの、総体的に均整はとれていて端正だ。なにより富士を借景にたたずむ姿はまことに美しい。
ちなみに設計・施工は富士宮市下条の光建業。同社はかつて代立寺鐘楼堂の建設を手掛けており、最近では先照寺本堂も担っている。
深澤山上行寺を建設中、開基の深澤夫妻は「伊豆国伊東より祖師像が参る」と夢にみた。同じころ、祖師像を奉っていた伊東の某の夢に日蓮が現れ、「大宮の上行寺という新寺に移りたい」と告げたため、某は祖師像を上行寺にとどけたという。この奇縁から「夢合わせ祖師像」と呼ばれている。
|
|
|
|
|
Tag ⇒ 寺院 富士宮市の寺院 富士根地区 小泉 富士山代立寺 多宝塔 西山本門寺 西山本門寺末寺
Entry ⇒ 2012.10.15 | Category ⇒ 神社仏閣-建築
〔社寺探訪〕日興めぐり
![]() |
平成24年4月29日(土)
富士五山を中心に、富士門流ゆかりの日蓮系寺院を思いつくまま参詣した。
- 探訪リスト
- 岩本山実相寺→萱守山妙円寺→小泉久遠寺→重須本門寺(北山本門寺)→大石寺→富士山東光寺→下条妙蓮寺→下之坊→西山本門寺→河合山妙興寺
-
この日の社寺めぐりは「日興一色」だった。
じつは、朝起きた時点ではどこに行くか決めておらず、いざ車に乗ってから行き先を思案。結局、前夜候補に挙げていた富士五山および富士門流寺院を軸に、思いつくままに参詣することと相成った。
-
岩本山実相寺
まずは岩本山実相寺(富士市岩本)。日蓮宗の霊跡本山である。・・・富士五山ではなく富士門流でもないが、富士地域の日蓮系寺院を語る上で外せない古刹なので、やはりここから。6時20分。
実相寺は、山号にもなっている岩本山に伽藍をひろげているお寺。山と一体になった域内の雰囲気のよさは、富士地域のお寺の中でナンバー1だとおもう。
はじめは台密の大寺だったが、日蓮の入山以降、かれの風をしたう住僧が増加。やがて山内が天台派と日蓮派に分かれ、激しい綱引きのすえ、日蓮宗に改宗した。以降、富士市における日蓮宗の中核寺院となっている。
ここを開いたのは天台僧の智印。村山修験の祖末代の師である。岩本山の中腹に、智印が勧請した実相寺鎮守の八所権現がある。本当はお参りしたかったが、往復30分くらいかかるため、今日は断念。また今度。
なお、昨年の静岡県東部地震で本堂の屋根瓦がひどく崩れてたが、いまはすっかり元どおりになっている。
-
萱守山妙円寺
寺号標 実相寺を辞去後、富士五山のある富士宮市へ。道中、五山をめぐる順番を開創順にすべきか、距離が近い順にすべきかで悩み、結局、便を優先して近い順に参詣することに。
というわけで、富士五山最初は小泉久遠寺に決定。・・・っとその前に、久遠寺末の妙円寺(富士宮市小泉)へ立ち寄ることにした。時間は7時ちょうど。ここは、小泉久遠寺を開創した日郷が開いた日蓮宗寺院。日郷は日興の弟子、日蓮の孫弟子にあたる。
妙圓寺は山号を「萱守山」というが、江戸期の文献だと「富士山」で載っている。いつごろかえたのだろうか。
-
小泉久遠寺
7時15分、小泉久遠寺(富士宮市小泉)に到着。富士五山の一。日蓮宗の本山(由緒寺院)で、山号は富士山。
小泉久遠寺は、上条大石寺の日郷が自らの住坊だった塔中蓮蔵坊の組織と機能を小泉郷に移し、そこへ大石寺重宝の曼荼羅や御影などを安置したことに始まるという。
日郷は小泉久遠寺のほか、安房国に保田妙本寺などを建立し、かれの本血脈は保田妙本寺住職が継承。妙本寺と久遠寺は長らく「両山一寺」の関係で、妙本寺住職が久遠寺も兼帯した。
縁起は、日郷の大石寺退出は「大石寺の継承でもめたことが原因」と伝える。また日郷の門流と大石寺は、蓮蔵坊および東坊地の帰属をめぐっても争った。よって久遠寺と大石寺は、富士門流同士でありながら長きにわたって対立関係にあったという。これは大石寺×重須本門寺、重須本門寺×西山本門寺にもあてはまるけど。
江戸期は朱印地40石。塔頭は、江戸後期の『駿河記』に「元十坊今四坊 本承坊 大乗坊 下之坊」とあり、現在は大乗坊のみ。末寺は萱守山妙円寺ほか2か寺。
-
重須本門寺(北山本門寺)
小泉久遠寺の次は重須本門寺(富士宮市北山)へ。7時40分。富士五山の一で、こちらは日蓮宗の大本山。
重須本門寺は、日興が永仁6年(1298)、地頭石川能忠や南条時光、小泉法華衆、上野講衆の協力により御影堂・本化垂迹天照大神宮・法華本門寺根源の3堂を造営したことに始まる。
以降、大石寺らとともに日興門流の中核寺院として発展。江戸期は朱印50石を有し、安政3年(1856)『諸末寺書上扣』によれば本末合わせて99か寺の規模だった。いまは塔中6か寺をふくめ39か寺(県内23か寺、県外16か寺)。
約2年ぶりの参詣。前回は工事中だった塔頭養仙坊が、ひどくきれいな姿となっていて、あらびっくり。
あと、開山堂の前に大きな十三重塔が出現していた。昨年奉納されたそう。色合いはまだなじんでいないけれど、姿かたちは堂宇とつりあいがとれていていいあんばい。10年後くらいが楽しみ。
最後に境内の本化垂迹天照大神宮も参拝。今日は神社成分が少ないから、ここで充電。 ( ̄∀ ̄)
-
上条大石寺
続いて大石寺(富士宮市上条)へ。重須本門寺から国道469号を西へゆくとほどなく杉林に突っ込み、それが終わって視界がひらけたところが大石ケ原。大石寺の寺域だ。8時25分。
大石寺は日蓮正宗の総本山で、富士五山の一。日蓮の高弟日興が正応3年(1290)、地頭南条時光の寄進により建立した大寺。
創建以降、日興門流の中核寺院として発展。戦国期は守護今川氏から保護され、門前棟別銭・諸役などを免除された。門前には定期的に市がたち、天文24年(1555)には今川義元から市の諸役免除が保証されている。付近一帯の信仰、経済両面での中心地だったようだ。
こちらも約2年ぶりの参詣。境内にこれといった変化はなく、御影堂もいまだ修復中だった。以前参詣したときは修復作業を見学できたのだけど、この日は見られなかった。まことに残念。
御影堂ショックを引きずりながらも足早に境内を歩き、いそいそと御塔川を渡って五重塔へ。国重文の塔なり。閑寂な杉林に隠れ、ひっそりと屹立している。
相変わらずいいわぁ~。白状すれば、今日の富士五山参詣は、これ見たさゆえだったの。なんていうのかな、もろもろの事情で近代的に「手術」されてしまった同寺にあって、ここだけは別世界というかタイムトラベルした感じというか。
でも、この五重塔、さほど存在を知られていないのよね。富士地域の人に話をふっても「え?そんなのあるの?」って答えがけっこうあったり。実にもったいない。
-
富士山東光寺
大石寺参詣ついでに、周辺を散策。その時、ふと日蓮宗東光寺(富士宮市下条)が近くにあることを思い出し、いってみることに。9時25分。
こちらは3年ぶりの参詣。寺域に変化なし・・・と思いきや、入口部分の立木がなくなっている。ちょっとさびしい景色に。
重須本門寺の『本門寺並直末寺院縁起』によれば、日禅が正応5年(1292)2月、上野藤太夫の屋敷に一宇を建立した。これが東光寺のはじまりという。くだって元徳2年(1330)、日興が母妙福尼の三回忌に際し、日禅に命じて両親の尊儀と一門の墓を移したとされる。
そんなわけで、昔は富士五山に次ぐ名刹とされ、「富士六門跡」と称された――と、どこかで読んだのだけど、本当かしら。出典を忘れてしまったし、ほかの文献には出てこないのよね。
あ、こちらは大石寺の目と鼻の先にあるものの、本寺は重須本門寺。本堂は、本門寺塔中西之坊の本堂を移築したものという。
そういえば、小泉久遠寺の本堂が明治期に焼失したとき、「上野東光寺の本堂を譲り受けて仮本堂とした」らしい。「上野東光寺」はここのことだよね。となると、わざわざ小泉久遠寺に本堂を譲り、その補てんに西之坊から移築したのか。・・・へんなの。
-
下条妙蓮寺
お次は下条妙蓮寺(富士宮市下条)。富士五山の一。現在は日蓮正宗の本山。9時45分。
妙蓮寺の開創は正中元年(1324)。地頭南条時光が、妻妙蓮尼の一周忌に際し邸宅を寺へ改め、開山に日華を招いたという。南条時光は日蓮法華の強信者で、身延山を下った日興を当地に迎え、大石寺や重須本門寺の建立にも尽くした人。日華は日興の高弟。
表門・客殿・大庫裏・下庫裏・玄関は市の有形文化財。とくに表門は武家屋敷を連想させる無骨なすがたで、かなりお気に入り。姿かたちだけでなく、多種多様な彫刻もたのしい。
そういえば、吉原妙祥寺の本堂(写真下)は「妙蓮寺の開山堂を買って、本堂として移築した」らしい。妙祥寺は日興門流ではないけれど、なにかしら交流はあったかしら。
-
下之坊
下条妙蓮寺の次は下之坊(富士宮市下条)へ。10時35分。大石寺末頭の日蓮正宗寺院。境内の藤棚が近郷近在に知られているが、まぁこの時期は変哲もない景観ですな。
この界隈は南条氏の下屋敷があった地で、下之坊は、下屋敷の持仏堂に身を寄せていた日興が正応2年(1289)に開創したという。近くに南条時光の墓所がある。現在の本堂は昭和48年再建。
境内の「かなと蔓」(写真下)は、身延山を離れて当地にたどり着いた日興一行の荷を結束していた蔓が根づいたものと伝えられる。ロマンだね。
-
西山本門寺
つづいて旧芝川町にゆき、西山本門寺(富士宮市西山)へ。10時55分。富士五山の一、いまは単立寺院。寂びた境内の雰囲気がすばらしく、けっこう頻繁に参詣している。(特に大イチョウがいいのだけど、いまはまだ青葉)
開基は、日興の高弟日代。学識に優れた人で、日興から重須本門寺を継承したものの、地頭石川実忠や衆徒と対立したため、康永2年(1343)に重須を離山。翌年、西山領主大内安清から寺領・堂宇の寄進を受けて西山本門寺を開創した。
そんなわけで重須本門寺と同じく「本門寺」を称し、開創以降、正嫡・寺号相承をめぐり重須と長らく相論を続けることと相成った。
江戸期は寺領21石6斗8升。盛時は塔中30余坊を数え、天明8年(1788)の時点では塔頭26軒、末寺21か寺。また20世日圓が水戸徳川家の出身という縁もあって、同家から外護されたそう。
なお、ここには「織田信長の首塚」があり、毎年11月に「信長公黄葉まつり」が開催される。火縄銃演武などが行われ、けっこう楽しい。
写真下は首塚そばの御宝蔵。なにやら工事中だった。
-
河合山妙興寺
最後に河合の妙興寺(富士宮市長貫)を参詣。11時30分。身延系の日蓮宗寺院である。
身延山を離れた日興は、南条氏に迎えられる前、外祖父河合入道の屋敷に逗留している。縁起によれば、入道の屋敷はこのあたりにあったという。日興は逗留中、現境域でしばしば説法し、のちに弟子日禅に命じて「妙福寺」を建立。両親の菩提を弔ったと伝えられる。
妙福寺は、建武2年(1335)中先代の乱のとき河合の集落とともに焼きつくされ、そのまま廃れてしまった。くだって元禄年間(1688~1704)に日随が再建し、妙興寺と改称した。
境内に、日興が石に爪で曼荼羅を刻んだという「爪引きの石曼荼羅」、説法の際に座ったという「腰掛け石」がある。
Tag ⇒ 岩本山実相寺 萱守山妙円寺 小泉久遠寺 重須本門寺(北山本門寺) 大石寺 富士山東光寺 下条妙蓮寺 下之坊 西山本門寺 河合山妙興寺
Entry ⇒ 2012.10.04 | Category ⇒ 参詣履歴
天満宮(野中)
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市野中上ノ山798 | ||
主神 | 菅原道真 | ||
創建 | 伝:貞応3年(1224) | ||
祭礼 | 1月17日、7月7日、11月4日 | ||
敷地 | 49坪 | 社格 | 旧無格社 |
摂末 | 山神社、稲荷神社 | 神徳 | 無病息災、学業成就ほか |
交通 | JR富士宮、西富士宮両駅より徒歩24分 駐車可能 |
白尾山のふもと、野中の字上ノ山に鎮座している。祭神は菅原道真。一帯は俗に「天神村」と呼ばれたといい、大正11年の神札にも「大宮町野中区天神村」と載る。当社由縁の呼び名であり、地域の人々から敬愛されていた様子がうかがえる。
沿革は、天明2年(1782)の拝殿再建棟札に詳しい。いわく、鎌倉期の貞応3年(1224)正月、里人・塩川惣右衛門尉政治が天満天神の夢を見たことから、現神域に社を建立した。下って寛永6年(1629)西山本門寺14世日悟を勧請し、延享3年(1746)拝殿を造営、さらに天明2年拝殿を建て替えた。
この棟札を記したのは、善能寺6世日府。善能寺は天満宮の目と鼻の先にある日蓮宗寺院で、前述の日悟を開基とし寛永7年(1630)に開かれた。寛永7年といえば、天満宮に日悟を勧請した翌年である。これは日悟および西山本門寺が、新寺造営にあたり地主神たる天満宮をリスペクトした、ということだろう。
天明2年の棟札に続き、文化8年(1811)の棟札が残る。これも日府が納め、表に「南無妙法蓮華経 奉勧請天神宮」、裏に「奉社買漆宮殿造立」。おそらく本殿だろう。以降、文政11年(1828)、安政4年(1857)、明治16年、大正11年の棟札・神札があり、いずれも西山本門寺・善能寺によって納められた。
神社の規模は、昭和初期の『大宮町誌』『富士郡神社銘鑑』に、境内49坪(民有地第一種、持主鹽川惣右衛門)、雨覆並拝殿2間×3間、本社1尺6寸×1尺4寸と所載。境内社に山神社があり、例祭陰暦9月25日、崇敬者20名と付記されている。
こんにちの例祭は、新暦の1月17日、7月7日、11月4日の年3回。ささやかに執り行っているそうだ。
JR富士宮駅より歩くこと12~13分。潤井川を渡って市道黒田滝戸線へ入り、野中公会堂の辻を白尾山方向に折れれば、ほどなく「天満宮」の扁額を掲げた鳥居が現れる。もう少し山手にゆくと緑濃くなるが、ここはまだ住宅地といった風。
ねずみ色に舗装された境内の奥に、瓦葺きの拝殿兼覆屋がある。2間×3間、古びた入母屋造りだ。左にマキの木が寄り添い、右はささやかな竹林となっている。むかしは社前に茶畑が広がり、裏には湧水池もあったそうだが、いま面影はない。
覆屋内に赤い本殿がある。神像を安置しているらしい。10cmほどの小さな木像ながら、明治期の彫刻家・竹内久一氏の作と伝えられている。また潮声が社殿改築記念に奉納した68句の献句もあるという。(そばの善能寺には潮声の句碑がある)
拝殿兼覆屋の後ろに石祠がある。境内社の山神社だろう。昭和初期『大宮町誌』に「境内神社 山神社」と載っているから、古くから祀られていたようす。その一段下には稲荷社の祠もある。こちらは、もしかすると個人持ちの可能性もありそう。
|
|
|
|
|
|
|
||||
|
|
より大きな写真で スライドショー を表示
写真一覧 を表示
Tag ⇒ 神社 富士宮市の神社 大宮地区 野中 天満宮(野中) 天神信仰 興代山善能寺 西山本門寺
Entry ⇒ 2011.11.21 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
興代山善能寺
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市野中字上ノ山774 | ||
宗派 | 日蓮宗 | 本尊 | 日蓮座木像(『大宮町誌』) |
創建 | 寛永7年(1630) | 開基 | 日悟上人 |
開山 | 日悟上人 | 本寺 | 西山本門寺 |
寺紋 | 十曜 | ||
備考 | 1月大黒天大祭、4月人形供養祭、8月施餓鬼会、10月御会式 | ||
交通 | JR富士宮、西富士宮両駅より徒歩25分 駐車場有 |
![]() |
興代山善能寺は、江戸初期に開かれた日蓮宗寺院。日蓮の高弟日興の法脈を継承する富士門流(日興門流)に属し、山号の「興」は日興、「代」は本山・西山本門寺の開基日代からとられた。
開創は江戸初期の寛永7年(1630)。善能坊日堯が当地の小庵に「興代山善能寺」と名付け、境内地2反3畝歩・山林10間15間余りの除地免許を得て、寺として整備。師の西山本門寺14世日悟を開基開山とし、自身は2世となった。(『寛政2年本堂再建棟札』)
78年後の宝永5年(1708)堂宇・什物を類焼。時の住職はしばらく旧宅に住まい、享保(1716~35)ごろ古屋を本堂にあて、この苦境を凌いだ。やがて寺運は隆昌し、元文4年(1739)12月客殿、明和6年(1769)物置、寛政2年(1790)8月本堂、文化4年(1807)3月宮殿、文政11年(1828)7月宝蔵と次々に建立。寺観を整えた。
明治9年、日興門流の諸寺院が日蓮宗興門派(同33年本門宗へ改称)を結成したさい、善能寺も本山(西山本門寺)とともに参加。善能寺境内には宗学林が置かれ、近郷近在の僧が多く学んだことから「学問寺」と呼ばれた。はなはだ盛況だったらしく、大正7年10月には「富士宗学林校舎」が増築されている(『大正7年10月1日棟札』)。
本門宗は昭和16年、日蓮宗・顕本法華宗と三派合同を行い、日蓮宗となった。同32年、西山本門寺および塔中、末寺の一部は日蓮宗を離れ単立となったが、善能寺――や代信寺・代立寺など――は日蓮宗にとどまり、こんにちに至っている。
境域は白尾山の緩斜面。山を背に北東向きで建っており、小高い境内からは富士山を真正面にひろく見渡せる。
表参道が畑の中に設けられている。これをまっすぐ歩き、階段を上り、門柱をぬけるとイチョウがたかだかと育ち、その向こうに本堂が建つ。220余年前の寛政2年(1790)に再建された入母屋造。古いはずなのだが、それを感じさせない小ぎれいな外観だ。
本堂前には蓮が栽培され、淡いピンクや白い花がふんわりと咲いていた。その一角に、古びた石灯籠がある。天明2年(1782)5月、日興の450遠忌に造立された。日興門流の寺であっても、日興遠忌に関する石造物は珍しいのではないか。
境内左手にゆくと妙智観音堂がある。1坪ほどのささやかな小堂だ。1.5mほどの大きな妙智観音石像を祀り、棟札には昭和58年11月27日開堂・開眼した旨が書かれている。観音堂の向かいには新しい仏塔「御佛の子 祈りの塔」や題目塔もある。
|
|
||||
|
|
|
|
|
|
|
||||
|
|
より大きな写真で スライドショー を表示
写真一覧 を表示
善能寺は年中行事を盛んに行っている。
『野中一区区誌』によると、主行事は【1月】初詣、大黒天大祭、【4月】人形供養祭、【8月】施餓鬼会、【9月】寺宝お風入れ、【10月】御会式、【12月】おたきあげ、【春・秋彼岸】彼岸会、【毎月8日】朝粥会、【12日夜】御題力講。
大黒天大祭は1年の無事と繁栄を大黒天に願い、人形供養祭は古くなった人形たちの慰霊を行う。どちらも地元紙で報道され、よく知られた行事。
Tag ⇒ 寺院 富士宮市の寺院 大宮地区 野中 日蓮宗 興代山善能寺 西山本門寺 西山本門寺末寺 富士門流
Entry ⇒ 2011.11.17 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
日代
鎌倉後期~室町前期の日蓮宗(富士門流)の僧。日蓮の孫弟子、日興の高弟(新六)。蔵人阿闍梨、伊予公と称した。西山本門寺の開基。駿河国富士郡上方庄河合(富士宮市)の由比家出身で、日興の外甥、日善の弟にあたる。
日興に、「本六」「新六」と呼ばれる計12人の高弟がいた。日代は「新六」の1人で、学識にすぐれ、日興が元弘3年(1333)に没すると、重須談所(重須本門寺)を継承した。しかし、重須地頭石川氏や宗徒と対立し、排斥されるかたちで重須を離山。西山領主大内安清に招かれ、西山に法華堂(西山本門寺)を建立した。応永元年(1394)4月18日没。101歳(98歳説もあり)。
◆重須談所(重須本門寺)を継承。重須本門寺の塔中養運坊を開創。◆康永2年(1343)子弟を引きつれ重須本門寺を離れ、久遠山本妙寺に留錫。◆康永3年(1344)西山本門寺を開創。
Tag ⇒ 日代 日蓮宗 富士門流 重須本門寺 西山本門寺 久遠山本妙寺 日興 新六
Entry ⇒ 2011.11.01 | Category ⇒ 富士地区人物列伝
西山本門寺 末寺
江戸中期、西山本門寺は末寺21か寺を抱えた。こんにちも10余寺が存続し、それぞれ単立あるいは日蓮宗に属している。(西山本門寺の日蓮宗離脱に際し、ともに日蓮宗を離れた寺院は単立となり、日蓮宗に残留した寺院は日蓮宗所属)
天明8年(1788)の『法華宗勝劣派西山本門寺寺院本末帳』によれば、当時の西山本門寺末は21か寺だった。次は、18世紀初頭の末寺一覧(出典『富士門流の歴史重須篇』)。
18世紀の末寺 | ||
---|---|---|
山寺号 | 所在地 | |
久遠山本妙寺(末頭) | 駿州富士郡西山村 | |
良水山興代寺 | 駿州富士郡西山村 | |
興出山代世寺 | 駿州富士郡西山村 | |
興立山代行寺 | 駿州富士郡馬見塚村 | |
上行山安立寺 | 駿州富士郡青木村 | |
深澤山上行寺 | 駿州富士郡大宮村 | |
野中山善能寺 | 駿州富士郡野中村 | |
興起山代立寺 | 駿州富士郡小泉村 | |
興流山代通寺 | 駿州富士郡曾比奈村 | |
瀧戸山代信寺 | 駿州富士郡山本村 | |
富士山上行寺 | 武州江戸芝弐本榎 | |
富士山上行寺 | 京都一条通堀川端 | |
富士山上行院 | 京都北野老松町 | |
富士山上行院 | 甲州府中愛宕町 | |
大見山上行院 | 豆州大見地蔵堂村 | |
霊場山光栄寺 | 豆州伊東吉田村 | |
恵日山広宣寺 | 豆州伊東芝村 | |
富士山上行院 | 阿州河内郡額田村 | |
久遠山本因寺 | 肥州熊本元家町 | |
上行山寿光寺 | 摂州大坂山小橋村 | |
富士山福正寺 | 下総千葉郡今井村 |
![]() |
西山本門寺の末頭。もとは真密宗寺院(由比西山寺末)だったが、康永2年(1343)に重須本門寺を離れた日代が留錫し、西山本門寺建立を機に「南森山本妙寺」と号して同寺末となった。開山は日達。『駿河記』は「此院日代初住の地なり」と所載。◆所在地/富士宮市西山1519。宗派/単立。
(廃寺)富士宮市西山、久保集落にあった。江戸後期『駿河記』の西山村項に「良水山興代寺 本門寺末 開山日隆」、『駿河志料』に「興代寺 本門寺末 良水山と号す」と載る。
![]() |
もとは真言宗寺院だったという。西山本門寺12世日建が永禄年間(1558~70)、西山本門寺末の隠居寺に改めた。明治16年調べの『皇國地誌』は「東西19間、南北13間」と所載。境内にイトヒバの大木(推定樹齢400年、根回り538cm)がある。◆所在地/富士宮市鳥並184。宗派/単立。
(廃寺)富士宮市馬見塚にあった。江戸後期『駿河記』の馬見塚村項に「大行寺 日蓮宗 西山本門寺末」、『駿河志料』に「大行寺 西山本門寺末」、明治中期の『皇國地誌』に「代行寺 東西19間、南北19間、面積427坪」と載る。
![]() |
『日蓮宗寺院大鑑』いわく、寛永18年(1641)に開創され、のち西山本門寺の僧日覚が中興開山になった。一方『青木区誌』は、寛永18年に日覚が開いたとし、『富丘村誌』は寛永5年(1628)2月13日の開創としている。◆所在地/富士宮市青木672。宗派/日蓮宗。本尊/曼荼羅。
![]() |
(廃寺)江戸前期、西山本門寺に深く帰依していた深澤弥兵衛が、大宮(富士宮市中心部)に寺地を得て開創した。江戸期は除地3畝10歩。明治初期に廃寺となった。境内にあったとされる寛文元年(1661)8月13日建立の題目塔が、神田山神社前の墓地(深澤弥兵衛の墓所)に保存されている。
![]() |
日興門流の日蓮宗寺院。寛永7年(1630)に日堯が創建し、師の西山本門寺14世日悟を開基とした。山号は日興と西山の開山日代から名付けたとされる。明治から大正にかけ、同寺で本門宗の宗学林が開かれていた。4月に人形供養を行う。◆所在地/富士宮市野中字上ノ山774。宗派/日蓮宗。
![]() |
『静岡県仏教会名鑑』は承応3年(1654)、『日蓮宗寺院大鑑』は寛永6年(1629)の開創とする。日堯(西山本門寺16世日映の弟子)に帰依した妙泉の1周忌に際し、子・清金兵衛が寺地・堂宇を寄進、日堯を開山に招いた。◆所在地/富士宮市小泉1917-1。宗派/日蓮宗。本尊/曼荼羅。
![]() |
西山本門寺18世日順の弟子円立坊日通が承応2年(1653)8月13日に開創した。江戸期は除地2石5斗。明治中期の『皇國地誌』は「東西20間、南北19間、面積337坪」と載せる。現在の本堂は昭和47年再建。◆所在地/富士市大淵字井上2132。宗派/日蓮宗。本尊/曼荼羅。
![]() |
岩本山の南東麓、富士市境にある。『大宮町誌』は慶安元年(1648)に西山本門寺17世日隆が、『日蓮宗寺院大鑑』『山本区誌』は寛文11年(1671)に日義が開いたと所載。山本勘助の父母木像と祖父牌子を所蔵する。◆所在地/富士宮市山本1236。宗派/日蓮宗。本尊/大曼荼羅。
Tag ⇒ 寺院 富士宮市の寺院 芝富地区 西山 西山本門寺 西山本門寺末 富士五山 日代 富士門流
Entry ⇒ 2011.10.31 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
西山本門寺 塔中
西山本門寺にはこんにち、浄圓坊・大詮坊・妙圓坊の3か坊がある。いずれも本山と同じく、単立寺院となっている。
寺名 | 宗派 | 所在地 |
---|---|---|
浄圓坊 | 単立 | 静岡県富士宮市西山694 |
大栓坊 | 単立 | 静岡県富士宮市西山695 |
妙圓坊 | 単立 | 静岡県富士宮市西山714 |
所在地/富士宮市西山694。宗派/単立。本山4代日任(本山開基日代の弟子)が開創した古刹。
所在地/富士宮市西山695。宗派/単立。本山13代日春が、永禄8年(1565)3月18日に開創した。「代官席」の要職にあり、当坊のみ山門建立が認められていたという。平成14年5月、代官門を復興再建。
所在地/富士宮市西山714。宗派/単立。2000~01年にかけて本堂改築。
盛時は30余坊を数えたといい、天明8年(1788)『法華宗勝劣派西山本門寺寺院本末帳』には26か坊と載る。
江戸後期の地誌『駿河記』には次の12か坊が列記されている。
- 妙圓坊
- 洗因坊(廃坊)
- 本泉坊(廃坊)
- 臨唱坊(廃坊)
- 大詮坊
- 本能坊(廃坊)
- 浄圓坊
- 常照坊(廃坊)
- 代信坊(廃坊)
- 圓信坊(廃坊)
- 恵林坊(廃坊)
- 行善坊(廃坊)
これらの多くは、明治初期までに廃された。こんにち、本能坊や本泉坊、行善坊などいつくかの坊は、その跡を確認できる。
Tag ⇒ 寺院 富士宮市の寺院 芝富地区 西山 西山本門寺 富士五山 日代 富士門流 単立
Entry ⇒ 2011.10.31 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市
西山本門寺
名称 | |||
所在 | 静岡県富士宮市西山671 | ||
宗派 | 単立 | 寺格 | 本山 |
本尊 | 大曼陀羅 | 創建 | 康永3年(1344) |
開基 | 日代上人 | 寺紋 | 十曜、鶴の丸 |
塔中 | 3か坊 | 鎮守 | 正八幡宮 |
備考 | 法華證明鈔1巻 日蓮遷化記録1巻 紺紙金字法華経10巻 紙墨法華経8巻(以上国重文)、本堂厨子(県文)、ヒイラギ(県天然)、梵鐘(旧芝川町文)、イヌマキ(旧芝川町天然) | ||
交通 | JR芝川駅より北へ4km(黒門) 駐車場有 |
富士山本門寺は、日興の高弟日代(日蓮の孫弟子)が室町初期に開いた古刹。西山にあることから「西山本門寺」と呼ばれる。日蓮を宗祖、日興を派祖とする日興門流の主要本山(興門八本山、富士五山)のひとつで、旧芝川町随一の由緒を伝えている。
![]() |
![]() |
開基は、日興の高弟日代。学識に優れた僧だったらしく、日興が没すると重須本門寺を継承した。しかし、重須地頭石川実忠や宗徒と対立し、康永2年(1343)に子弟を引きつれ重須を離山。
日代は、西山領主大内安清に招かれて西山へ移り、同3年に大内氏から寺領・堂宇の寄進を受けて1寺を開いた。これが西山本門寺である。重須と同じく「本門寺」を称し、以降、正嫡・寺号相承をめぐり、重須と長らく相論を続けることとなった。
西山本門寺は戦国末期、駿河国を手にした武田信玄のあつい保護を受けて隆昌した。武田氏以前の領主今川氏は、どちらかといえば重須本門寺を優遇したが、それが一転したかたちである(時の西山貫主13世日春は武田氏の出身とされる)。
天正9年(1581)3月17日には、日春が武田氏の奉行増山権右衛門や興国寺奉行衆とともに重須へ押し入り、重宝100余点を略奪。寺家門前を闕所とする事件も起きた。
武田氏滅亡後に駿河国を手にした徳川家康は、西山・重須の双方に配慮。西山には天正11年(1583)10月、寺内諸役などを免除し、武田氏ほどではないものの保護している。
江戸期は幕府の保護を受け、西山に21石6斗8升の寺領をもち、年頭御礼に江戸参府の資格を有した。また20世日圓が水戸徳川家の出身という縁もあって、とりわけ同家から外護された。
堂塔は、慶長10年(1605)の火災でその大半を失ってしまったが、中興16世日映の代に再建。旧観に復した。
このころは広大な寺域に、総門・中門・鐘楼・経蔵・宝蔵・天王堂・垂迹堂・客殿・大庫裡・下庫裡・書院・位牌堂・祖師堂・本尊堂・開山堂・裏門などが甍を並べた。盛時は塔中30余坊を数え、天明8年(1788)の時点では塔頭26軒、末寺21か寺を数えている(『法華宗勝劣派西山本門寺寺院本末帳』)。
18世日順の代、京の末寺・一条上行院を通じ、後水尾天皇の皇女常子内親王の深い帰依を受けた。
親王が両親の尊牌を西山本門寺に納められたため、本門寺は下馬下乗の札をたてることを許された。また親王は天和3年(1683)両親菩提のため親筆の法華経を奉納し、夫の近衛基熙が関白になった折には、書写した祈祷経を納め、西山本門寺を祈祷所に定めている。
娘の近衛熙子(天英院)が6代将軍徳川家宣に輿入れするため江戸に下向した際は、江戸の末寺・上行寺の住職日衆(日顕)が、老齢の師日順の名代として上京、一行に随従した。
明治9年、西山本門寺をふくむ日興門流の8本山(西山本門寺、上条大石寺、重須本門寺、下条妙蓮寺、小泉久遠寺、伊豆実成寺、京都要法寺、保田妙本寺)および関連諸山は、日蓮宗興門派となる。同32年(1899)、日蓮宗興門派は本門宗へ改称。昭和16年、本門宗は日蓮宗・顕本法華宗と三派合同を行い、日蓮宗を結成した。
昭和32年、西山本門寺は塔中・末寺の一部とともに日蓮宗を離れ、単立寺院となった。
数多くの重宝を所蔵しており、中でも法華證明鈔1巻(日蓮筆)、日蓮遷化記録1巻(日興筆)、紺紙金字法華経10巻、紙墨法華経8巻(常子内親王筆)は国重文。本堂厨子は県文、ヒイラギは県天然、梵鐘は旧芝川町文、イヌマキは旧芝川天然。
県天然記念物のヒイラギは推定樹齢500年。樹下に、織田信長の首が埋められたと伝えられている。
JR芝川駅の北方4km。田畑と山林ばかりの農村地域に西山本門寺はある。広大な寺域は老杉・老桧に覆われ、幽邃森厳の気がただよう。その南端、聖俗の境に黒塗りの「黒門」が力強くたち、門前に下馬札がたかだかと掲げられている。
黒門から本堂まではおよそ1km。幅10~15mの広やかな参道がひたすら続く。両側を深い森が縁どり、足もとは高い石段と土であり、うっすらと苔むした道の上を、草や落ち葉が彩っている。簡勁な美が古格な味わいを漂わせ、まことに好ましい。
しばらく歩くと両側に塔中(や塔中跡)が現れ、つづいて左手の開けた土地に鐘楼や本堂、庫裡などがみえる。本堂前には、枝ぶりみごとな大イチョウが2本。樹齢300年、晩秋になると小さな葉を黄金色にそめ、やがて落ち葉を境内に積み重ねる。
参道をさらにゆくと、杉林の中に御影堂、本尊堂、開山堂の跡がある。これらは本門寺の中心建物だったが、安政の大地震で失われ、その機能を客殿(現本堂)へ移した。堂跡の後ろには歴代墓所があり、かたわらに大檀越大内安清も眠っている。
|
|
||||
|
|
||||
|
|
|
|
|
|
||||
|
|
||||
|
|
||||
|
|
より大きな写真で スライドショー を表示
写真一覧 を表示
盛時は30余坊を数えたが、こんにちは浄圓坊・大詮坊・妙圓坊の3か坊のみ。いずれも本山と同じく単立寺院となっている。
江戸中期は21か寺を数えた。こんにちも10余寺が存続しており、宗派は日蓮宗あるいは単立となっている。
Tag ⇒ 寺院 富士宮市の寺院 芝富地区 西山 西山本門寺 富士五山 日代 富士門流 単立
Entry ⇒ 2011.10.31 | Category ⇒ 神社仏閣-富士宮市