「萩の寺」として親しまれる天台宗の名刹
ふるくは蓮形山と呼ばれた八形山(標高198m)のふもとにある寺。もとは八形山全域に堂宇をもうけた山岳寺院で、同町最古の寺と目される古刹だ。境内に多数の萩が自生することから、「萩の寺」の通称で親しまれている。
慶雲元年(704)、文武天皇の勅願によって行基が開創としたと伝わり、天長8年(831)に法相宗から天台宗へ改宗したという。寺記は比叡山の高僧・皇円が修行滞在したと伝え、近くの龍馬ケ谷は皇円が開いた行場としている。また、『法然上人絵伝』は、当寺の禅勝坊が熊谷直実の紹介で法然の弟子になったと記す。禅勝坊はのちに当寺第72代住職となって末寺・直心寺を建立、85歳で没したとされる。
中世、小国神社の社僧として神宮寺の中心を担うと、その勢力を近隣寺社までのばし、八形山内外に36坊を有するなど隆盛した。しかし元亀3年(1572)、徳川氏と武田氏の戦火にかかると、その後は衰微。徳川家康から55石の寄進をうけて再建されたものの寺勢を取り戻すにはいたらず、江戸初期には小国神社社僧から離れ、36院坊も慶安5年(1652)には安住院を残すのみとなる。以後、安住院が別当となって「八形山 安住院 蓮華寺」と名乗るようになった。
現在、境内には10数種にのぼる萩が自生。初夏から秋にかけて開花、人気を博している。円仁作と伝わる聖観世音菩薩を安置する観音堂は、文化10年(1813)山腹に建立された寺最古の建物で、大正10年に現地へ解体移築。遠江三十三観音霊場および新設された遠州三十三観音霊場の札所でもある。御詠歌は「はちすばや なにあふ寺の 法の声 雲るにひびく 人相の鐘」(遠江)、「世の願い かなえ給えど 観世音 古代の森に むかしもいまも」(遠州)。
◆弘治3年(1557)、今川義元は寺内・末寺および金屋鋳物師に対する不入を安堵。◆文禄2年(1593)、山内一豊は寺屋敷一反を寄進。◆比叡山延暦寺の直末だったが、織田信長の焼き討ちで衰退、江戸初期から東叡山寛永寺の支配下に組み込まれた。◆末寺は宮代の直心寺、雨宮神社の神宮寺。
◆寺宝の絹本着色天台大師像は県文指定。縦90cm、横51cm。鎌倉期から室町初期の作と推定されている。◆他、元三慈恵大師画像や、木喰作の子安地蔵尊を安置し、禅勝上人塚や黄金塚がある(以上、町文)。子安地蔵尊は南鳳寺にあったものだが、維新時に廃寺となって蓮華寺に移された。
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参考文献 由緒掲示板、静岡懸周智郡誌、森町史、日本歴史地名体系、郷土資料辞典 静岡県・観光と旅、光と風と観音様と、全国霊場大辞典 |
(フォト撮影日:平成18年6月10日、19年6月16日) |