富士宮市の南部、星山丘陵の一角に倭文神社、観音堂と甍を並べている曹洞禅刹。本尊は十一面観音。中世から連綿とつづく春の観音画像開帳が近郷近在に知られ、「星山の観音さん」の呼び名で親しまれている。
寺伝によると、はじめは「明星山福興寺」という真言宗寺院(摂津国久遠寺の末)だった。
いわく、弘仁3年(812)空海が南方の明星山清水平で百日行を修めたさい、明星が降ったことから山を明星山、里を星山と名付け、星山に福興寺を建立した。これが大悟庵の起こりという。
明星山福興寺は七堂伽藍を備えるなど隆盛したが、中世兵火にかかり荒廃したという。その跡地に元亀2年(1571)4月17日、甲斐深向院3世了月が甥の武田家臣・跡部大炊助勝資の帰依をうけて伽藍を再建。曹洞宗に改め、大悟庵と号した。
下って天正18年(1590)12月28日、豊臣秀吉から朱印領9石ならびに山林竹木などの諸役免除を安堵された。この朱印は徳川政権下もかわらず引き継がれた。
江戸期は小本山、色衣着用の格。末寺は松林寺(星山/廃寺)、不死山岳松寺(光町)があった。
観音堂
境内の観音堂は、古くから観音霊場として知られ、駿河一国や富士横道など複数の巡礼札所となっている。尊主は大悟庵と同じく十一面観音。3月中旬、裏手斜面で約30m×15mの白布に描いた観音座像を開帳し、檀徒や愛好家らでにぎわいをみせる。
なお、観音堂は「倭文神社の本地堂だった」とする説がある。よって開帳される布観音について昭和初期の『大宮町誌』は、「木綿布を以て之を作るは機織の祖神倭文神社に何等かの縁由あるに似たり」と記し、やはり倭文神社との関連性に着目している。
【駿河一国観音霊場27番】御詠歌「富士おろし 迷いの雲も ふき払う 月日とともに おがむ星山」。【駿河・伊豆両国横道観音霊場20番】。【富士横道観音霊場35番】御詠歌「天下る 星の光や よく経ても 消えぬ御法の ためしなるらん」。
大宮と岩本をむすぶ街道から、星山放水路ぞいに富士川方向へおよそ1km。放水路をふちどるV字谷(星山丘陵)の中段に、緑林を背にした寺域が広がる。市中心部からさほど離れていないものの、一帯は山林と耕作地の比重が大きく、のどかな山里の感が強い。
山寺号を刻んだ門柱の先に観音堂の石段があり、その左手に倭文神社の石段、さらに左へゆけば大悟庵の山門につく。3堂社が横一列に並ぶかたち。山門をぬけるとすぐ後ろに鉄筋コンクリート製の本堂が建ち、さらに裏山が覆いかぶさる風に迫っている。
寺域遠景。左から大悟庵本堂、庫裏、倭文神社社叢、観音堂
本堂と山門
観音堂は江戸中期の入母屋造で、桁行3間×梁間4間。象や獅子、亀、菊花などの彫刻が向拝を飾っている。黒味を帯びた木肌は趣があり、鉄筋コンクリート製の大悟庵本堂とは対照的。以前は茅葺きだったが、10年ほど前に銅板葺きへ改められた。
境内は丘陵斜面に位置するだけに窮屈な感は否めないが、そのぶん見晴らしはいい。放水路対岸のなだらかな翠黛や、山林の向こうからのぞく富士山を一望できる。また4月下旬になると、住職栽培の牡丹300株が大輪を咲かせ、境内は参詣者で賑わいをみせる。
ぼたん
不死山岳松寺
永禄2年(1559)沼久保で開創された(『にのみや』)。もとは岩本永源寺末だったが、いつしか堂宇大破・不住となった上に本寺から遠く不便だったため、延享元年(1744)星山大悟庵末となり、翌年堂宇を再建。大正年間、現在地へ移転した。◆所在地/富士宮市光町11-25。宗派/曹洞宗。本尊/地蔵菩薩。