伊河麻神社
![]() 境内。拝殿とクスノキ |
名 称 伊河麻神社
所 在 静岡県静岡市駿河区稲川1-10-15
主 神 品陀別命
創 建 伝:白鳳4年(675)4月 例 祭 9月15日
敷 地 1,958㎡ 神 紋 左三巴
社 格 式内社(小) 旧郷社 神 徳 交通安全・災難除けなど
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みどり豊かな街中の古社
伊河麻神社はJR静岡駅の南西500m、交通量のおおい南幹線(カネボウ通り)に南面している。創建は白鳳4年(675)4月と伝わる古社で、式内社「伊河麻神社」に比定され、『駿河国風土記』に「伊軻麻神社」、駿河国神名帳には「正四位下伊賀麻明神」と所載。また、『駿河国新風土記』は「駿河国四宮」とする。 街中にある小規模な社ながら、古木におおわれた境内はみどり豊かで、けっこう神さびた雰囲気。鳥居をくぐると、左手に境内社の稲荷神社・金刀比羅神社、右手におおきく枝をひろげたクスノキの大木がそそりたち、木陰となった参道のおくには社殿がたっている。その社殿は昭和50年造営の鉄筋建築。入母屋造りの拝殿・幣殿をへて、流造りの本殿につながる。 中世は里宮と奥宮を有した「厳しき大社」であったと伝わり、800mほど南の中田小学校付近に拝殿があって、現在地は奥宮の地だった。しかし、武田氏の駿河侵攻の際に焼失すると、社域の多くを失って衰微してしまう。江戸期は上島村などの産土神として崇敬され、「八幡宮」「井鎌大明神」などと称された。 また、江戸期の地誌『駿河志料』によると、今川氏近臣の四宮右近光が神官をつとめており、『駿河国新風土記』には「今八幡村に昔稲河駿河守に供してうつりしといふ者の氏を篠宮氏といふ、もとは四宮といひしといふ、此宮風土記に見えたる如く国の四の宮なれば其宮の社人なりし」とある。稲河駿河守は奉幣使・稲河氏のことと思われ、『駿国雑誌』では「神主稲川内膳」となっている。 |
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明治32年の灯籠 | 拝殿木鼻の獅子 | 拝殿内の静岡神輿 |
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拝殿は入母屋造り | 本殿は一間社流造り |
境内社境内西側に稲荷神社と金刀比羅神社がならび、その隣に祠1基がある。由緒掲示板には、稲荷社・金刀比羅社のほかに火産神社の名があるものの、境内に火産神社は見当たらない。『全国神社名鑑』には「末社2社」とあることから、現存していない、あるいは祠が該当する可能性もありそう。 |
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稲荷神社と金刀比羅神社 | 稲荷・金刀比羅社となりに祠 |
由来端緒延喜式神名帳にみえる有度郡3座のうち「伊河麻神社」に比定される。『駿河国風土記』に「伊軻麻神社、浄見原天皇御宇四年四月被祭之、應勅処分為四宮、奉祭譽田天皇所也」とあり、当国神名帳に「正四位下伊賀麻明神」と載る。 もとは里宮と奥院があり、中田小学校付近に拝殿があって、現在地は奥院の地とつたわる。武田信玄の駿河国侵攻の際に焼かれて衰微、社域の多くを失ったとされ、文政3年(1820)刊『駿河記』に「(伊軻麻神社)社地を遥に相去て鳥居株垣添井など云所あり」とある。文久元年(1861)刊『駿河志料』はさらに詳しく、「(井鎌大明神)古へは厳しき御社にと有りけむ、此地を遥に去て鳥居、株井、垣添など云字、ここかしこに残り、古の大社の俤あり、今は村持の社なれど、古木茂れる森なり」と載せている。 江戸期は上記の「伊軻麻神社」「井鎌大明神」のほか、「八幡宮」とも称されていた。寛文2年(1662)の棟札に「井鎌」、弘化2年(1845)銘の棟札に「奉還宮井鎌大明神社頭繁栄産子繁昌守役」とある。慶應4年(1868)刊『駿河國式社略記』は「上島村八幡宮」とし、『式内二十二座巡拝記』は「八幡大神宮」、明治45年刊『明治神社誌料』には「八幡宮とも、又井鎌明神とも称せしが、近世、伊河麻神社と改む」とある。 |
参考文献 由緒掲示板、駿河記、駿河志料、駿河国新風土記、駿国雑誌、静岡縣神社要覧、明治神社誌料、全国神社名鑑、静岡市史、静岡縣安倍郡誌、しずおか町名の由来、静岡市歴史散歩、角川日本地名大辞典、日本歴史地名体系 |
(フォト撮影日:平成18年3月26日、20年1月19日) |
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