今宮浅間神社
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市今宮字西村387 | ||
主神 | 木花之佐久夜毘賣命 | 配神 | 阿波乃咩命 |
創建 | 伝:貞観6年(864) | 例祭 | 5月2日 |
社地 | 5,030坪 | 神紋 | 丸に棕櫚の葉 |
社格 | 旧村社 | 摂末 | 氷川神社、山神社4社 |
備考 | スギ(市天然記念物)、社叢(市保存樹林) | ||
神徳 | 安産・子宝・火難除けほか | ||
交通 | 東名高速・富士ICより北東5km 駐車可能 |
富士郡下方(現富士市)に点在している下方五社の1社にして、今宮・神戸・一色の産土神。富士山を崇める浅間信仰の古社で、江戸期までは「今宮」「今宮浅間宮」などと号した。また竹取の嫗をまつるという縁起もあり、別に「母宮」とも雅称された。
貞観6年(864)の富士山大噴火のさい、多量の焼石が集落へ迫った。これを受けて官人が浅間大神(富士山の神)に祈念したところ、焼石の流れは現社地で停止。人々は大神の加護に感謝し、社を建てて奉斎した、と社伝は記す。一方、別当・東泉院の『東泉院御由緒書』によれば、大同元年(806)に下方五社の社殿が営まれ、平城天皇から唐本大般若経や行基作の本地仏が寄進されたとある。
縁起の真偽は別としても、その古さに疑いようはなく、『駿河国神名帳』にみえる「正三位十八所浅間御子明神」の1柱と目されている。またかつては摂社40社を管掌し、安倍郡服織庄(現静岡市)にも神領を有した大社だったといい、社前に神宮寺を備え、本地の薬師如来を祀った。この薬師像は三河国鳳来寺の本尊と同木と伝えられる。
中世、今宮浅間神社をふくむ下方五社は、別当富士山東泉院管理のもと駿河国主今川氏からあつく崇敬された。ことに今川義元は5社の社殿修理分として米・銭を寄進したほか、富士川以東における勧進活動の独占権を与えるなど下方五社・東泉院をあつく庇護。その子氏真も先例に準じて保護している。
ただ、今宮は天文6年(1537)2月、甲斐武田氏と相模北条氏による兵火で神宮寺ともども焼失した。のち神社のみ再建されたものの、永禄12年(1569)武田信玄の駿河侵攻による兵火でふたたび焼失。社勢は大いに衰えた。結局、神宮寺は再建されることなく、本地の薬師如来像は東泉院に移されたという。
豊臣秀吉は天正18年(1582)12月28日、東泉院に下方五社別当領として190石の朱印地を認めた。この朱印高は徳川政権下も同様に継承された。富士郡下で3桁の朱印高を有したのは、別当東泉院、富士山本宮浅間大社、村山三坊のみであった。
なお、これらは表高であり、内高は新田開発を積極的に推し進めた結果、享保14年(1729)の検地で600石へ著増。寛保年中(1741~44)の調査では、朱印地そのほか含め808石、さらに別当領66石を有していたという。
史料に目を移すと、地誌『駿河記』に「号母之宮 所祭犬飼明神也 鍵取川口喜内」「富士五社の其一なり」「年に五度の祭礼、流鏑馬祭を大祭とす」「社中に薬師如来の木像を配祀す(中略)但古像は東泉院に安じて、今祠中に配するは新像なり」などと詳しく載る。
特筆すべきは「母之宮」「犬飼明神」のくだり。詳細は後述するが、今宮浅間の祭神を「竹取の嫗」(『竹取物語』のおばあさん)とする縁起があり、母之宮の号はこれに由来する。そして犬飼明神の神名は、一説におばあさんが犬を飼っていたことによる、という。
棟札は散逸しているが、記録によれば宝永元年(1704)、同4年、宝暦4年(1754)、安永元年(1772)に社殿を改築した。富士山噴火や台風による倒木を受けての改築が主だったようだ。安永元年の社殿は、拝殿4間×2間半、本殿覆屋2間半×3間半で、拝殿から本殿覆屋のあいだに3間の太鼓橋を設けていたらしい。
また社殿のかたわらに宝暦3年(1753)の石灯籠があり、「今宮浅間宮」「施主 今宮村 神戸村 一色村 氏子中」の銘がある。この3か村の産土神として崇敬されていたことを示している。
明治初期、政府は神仏判然令を発した。これを受けて東泉院住職は復飾して六所氏を名のり、神官となった。下方五社は仏教色を取り除いて神道へ復し、今宮浅間は村社に列した。
なお、同じ下方五社の富知六所浅間神社や瀧川神社が郷社に列したことから、今宮浅間も「郷社が妥当」と上申したものの、乏しい財力が枷となり認められなかったという。
明治39年の記録によれば、当時は境内地697坪、拝殿4間半×2間半、雨覆2間2尺×3間4尺5寸、本社4尺8寸四方の規模で、氏子は185戸。ほかに境外所有地として田4反4畝17歩、宅地4畝24歩、山林1町4反6畝9歩があった。
下って昭和7年に本殿および覆屋(2間3尺×3間3尺)を改築し、昭和55年7月には拝殿(4間×2間半)改築した。
別当東泉院の『東泉院御由緒書』には、おおむね次のように記されている。
「富士山は三国無双の名山にして国家擁護の霊神ゆえ、浅間宮を数か所に祀って祈祷する必要がある。東泉院が別当をつとめる五社浅間のうち、父宮、母宮、六所浅間宮は富士浅間赫夜姫誕生地により、これを祀る」
中世から江戸初期、浅間神社の祭神(=富士山の神)は「赫夜姫」と考えられた。『竹取物語』のかぐや姫である。中世にさかのぼる『神道集』『富士山大縁起』『源氏物語提要』などに記述がみえ、広く知られていた説らしい。こんにちのように富士山の神=木花之佐久夜賣命が定着したのは、江戸中期以降のことだった。
『東泉院御由緒書』もそれを踏襲し、富知六所浅間の祭神をかぐや姫とし、瀧川神社を竹取の翁を祀る社=父宮、今宮浅間を竹取の嫗を祀る社=母宮と表記している。ほか、地誌『駿河記』などにも「号母之宮」と注記があるから、この縁起は割と流布されていたようだ。
『東泉院御由緒書』は続いて、
「大同元年(806)に5社の社殿を造営したさい、平城天皇から唐本大般若経や行基作の本地仏が寄進され、のち嵯峨天皇から空海作の五大尊不動明王が寄進された。嵯峨天皇のころから年2度の勅使下向が始まり、南北朝のころ一時中断したが、駿河国主の今川範国が勅使代として復活させた。5月の神事では、1~3日にかけて父宮、母宮、六所浅間宮で10騎による流鏑馬を執行する」
と記す。唐本大般若経や本地仏、五大尊不動明王は『富士山大縁起』にも記述があるものの、残念ながら散逸している。祭礼に関しては実際、明治維新まで駿河国惣社(静岡浅間神社)より国方奉幣使が参仕し、奉幣していた。
中世後期以前の内容と考えられている『富士山大縁起』の「五社記」には、
一 | 日吉宮 | 卯日 | 八幡 金色幡 朝日 |
二 | 新宮 | 辰日 | 愛鷹 赫夜妃誕生之処 |
三 | 今宮 | 巳日 | 犬飼神 |
四 | 六所宮 | 午日 | 浅間 惣社 |
五 | 新福地宮 | 申日 | |
同 | 大宮 | 申日 | (※備考:金剛界 千手観音) |
山宮 | 未日 | (※備考:不動尊) |
とある。これは、4月・11月の神事順を示している。日吉=日吉浅間神社、新宮=瀧川神社、今宮=今宮浅間神社、六所宮=富士六所浅間神社、新福地宮=入山瀬浅間神社を指し、大宮は富士山本宮浅間大社、山宮は山宮浅間神社を指す。日吉から山宮まで、繋がりある神事として行なわれていたようだ。
続いて、次のように列記されている。これは下方五社の本地仏を示している。
日吉本地 | 浅間宮 | 八幡宮 愛鷹宮 |
阿弥陀 観音 勢至 |
新宮本地 | 初名新山今名 愛鷹山新宮 |
毘沙門 千手 薬師 | |
今宮本地 | 初名今山今名愛鷹山今宮 (※『富士山大縁起抜書』) |
不動 薬師 | |
六所本地 | 惣宮 | 金剛界大日 | |
新福地本地 | 福地宮 浅間宮 |
薬師 |
今宮浅間神社を「今宮 巳日 犬飼神」とし、その本地仏は「初名今山今名愛鷹山今宮 不動 薬師」と載せている。
「巳日」は祭日。「犬飼神」は祭神であり、縁起では竹取の嫗を指す。つまり今宮浅間は、竹取の嫗を犬飼神として祀り、その本地仏は不動尊と薬師如来だった。先に触れた『東泉院御由緒書』の「母宮」は、この竹取の嫗に由来する。
東名高速・富士ICから北上することおよそ5km。愛鷹山西麓の閑境の地に、山林に抱かれた社がひっそりと鎮座している。在所は「大淵丸尾」と呼ばれる富士山溶岩流の跡にあり、そこかしこに溶岩石とおぼしき石が露出。なるほど、浅間の神を祀るに格好の場である。
昔は神戸に一の鳥居があったもののいつしか廃され、いまは神域南辺―県道ぞい―の鳥居が聖俗の境。その鳥居の傍らには朽ち木の根元がある。かなり大きい。昭和34年の台風で倒れた鳥居杉の名残で、古写真にはまことにたくましい幹の大杉がおさめられている。
鳥居をくぐって樹陰の参道を歩き、奥のいびつな石段を上りつめると端正な社殿につく。拝殿は昭和55年、本殿覆屋は昭和7年に改築された木造建築。本殿左右の石灯籠と手水舎の水盤は宝永3年(1706)奉献と古く、拝殿前には大正12年生まれの狛犬が座る。
社殿の後ろには深閑とした杉林がひろがる。ほどよく手入れされた美林であり、重須本門寺とならび富士地域で最も姿のいい社寺林だ。全体的にまだ若い木が多いものの、中には市天然記念物の大杉もある。時おり霧がかかり、その情景はまことに神寂びていて美しい。
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5社鎮座している。
社殿西隣に須佐之男命・稲田姫命・大己貴命をまつる末社の氷川神社。大正14年7月の改修記録が残る。
社殿東隣には石祠4基。いずれも大山祇命を祀る山神社で、字西村(2社)、字東村、字片蓋に鎮座していた社を明治44年に合祀した。ただし一部資料によると祠のひとつは地神社(旧地/字西村529番地)で、字片蓋の山神社は他所にあるという。
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寛文11年(1671)5月の『冨士六所浅間宮年中祭礼之大概』を引くと、このころ今宮浅間神社では正月、4月、5月、11月に大きな神事を行っていたらしい。次に列記する。
「正月十五日今宮社而奉射有的小的射手役今宮之鑰取六所之鑰取両人而勤之大的射手役六所宮神主今宮之」
「四月巳日今宮之祭礼神供御幣同社鑰取勤之」
「五月会祭礼 二日今宮社之祭礼流鏑馬有御幣役鑰取宮仕勤之大名役劔太夫御子新三郎供僧惣社家中勤之其外役数多有之」
「霜月祭礼之作法四月同」
上記のうち「五月会祭礼」は、富士山本宮浅間大社の流鏑馬祭と繋がりのあった祭礼で、東泉院主催のもと流鏑馬が奉納された。射手は「下方五騎」がつとめ、流鏑馬料55石5斗は浅間大社が負担した。なお、東泉院主催による今宮浅間神社の流鏑馬は明治期に途絶え、以降は氏子によって維持されていたが、昭和30年代、馬の減少にともない廃絶してしまった。
8月13日に今宮火祭りを催す。
江戸期、村に火災が続いたため火災防止を祈念して奉納した、あるいは水不足のとき火災防止を祈念したことが始まり、などと伝えられる。ロープに縛りつけた松明を円や8の字にまわし、火災防止や無病息災を祈念。盆の風物となっている。