旧富士宮市と旧芝川町の境にそびえる丘陵の東すそ、農道風の狭い道からわずかに山手へ入ったところに鎮座している八幡さん。祭神は応神天皇1座。「おおみ」と通称される旧青見村の氏神で、字名を冠して「丘路八幡宮」と称される。
創建のいきさつや年代は伝わっていない。ただし、境内に寛保3年(1743)の石灯籠があるので、それ以前の成立なのだろう。
文献を引くと、江戸後期の『駿河記』は「八幡宮」、『駿河志料』は「八幡社」と所載。下って大正期の『富丘村誌』には、本社2尺×1尺、雨覆1間半×1間半、拝殿2間半×2間、鳥居高1丈6寸×明6尺3寸、境内165坪7合、例祭陰暦9月15日、氏子26戸とあり、昭和初期の『富士郡神社銘鑑』もおおむね同じ内容を載せている。
また昭和初期までは念仏講があり、命乞いや雨乞いをおこなう風習があったという。何事かあれば拝殿に集い、「ナンマイダブツ、ナンマイダブツ・・・」――と。浄土系の寺院が少ない富士地域ではあるが、念仏講は草の根の民俗行事として浸透していたらしい。
道ばたに幟台があり、そこから山手へ30mばかり歩けば白い明神鳥居がたち、間をおかず朱の両部鳥居、拝殿とつづく。かつて境内に枝垂れ桜の老木2本がそそり立っていたらしいが、昭和30年代に枯れてしまい、いまは緑一色に包まれた社である。
拝殿の後ろは一段高い石垣で、上に本殿が建ち、下にはふたつの力石が並ぶ。力石は、かつて例祭の余興に行われた力比べで使われた。左側は105kg、右側は120kg。担ぎ上げた3人(青見の熊吉、大中里の小野田清、山本の望月勇次郎)の名が刻まれている。
鳥居から望む境内
石垣上には八幡宮本殿と境内社が並ぶ。中央に本殿、その左に三峯神社と山神社、右には綱敷天満宮と天王神社。大正期の『富丘村誌』には「境内社 天神社」とだけあるから、他社はそれ以降の創祀、または遷座だろうか。八幡宮本殿は、明治初期製の一間社流造。
本殿と境内社たち
境内社のうち、ひときわ大きな社殿は綱敷天満宮。祭神は菅原道真。神像は、山本勘助の祖父貞久の子孫が享保19年(1734)青見先照寺へ奉納した。先照寺の仏殿で祀られていたが、明治初年の神仏判然令によって青見村で祀るようになり、後にここへ遷座した。