古郡氏3代の治水事業 富士川下流域の新田開発を促進
富士川は今日、富士市西部を南下し駿河湾へ注ぐ。しかし、かつては岩本山の裾で東南へ向きを変え、岩本山~水神の森の間を通り、幾筋にも分かれながら加島平野を流れた。洪水のたび流路を変え、家・田畑を押し流した。宮島、水戸島、川成島――。市内に多い〝島〟のつく地名は、富士川支流の中洲だった場所だ。
そんな暴れ川の治水に乗り出したのが、須津庄中里の郷士古郡氏。元和(1615~24)のころ、古郡重高は自領籠下村(現松岡)を洪水から守るため、岩本山の裾に一番出し、二番出しと呼ばれる水制を築き、流れを西寄りに変えた。雁堤の起こりである。
重高の没後、
跡を継いだ長子・重政(駿府代官)は、寛永4年(1627)から本格的な築堤に取りかかった。この堤は同16年に一応完成をみたようで、翌年、重政は幕府から新田開発の許可をえ、加島平野の開墾に着手。潤井川から用水を引き、同19年までに1,100石余の新田を生み出した。
ところが、万治3年(1660)の大洪水で堤が決壊。濁流が開拓地に流れ込み、新田は水泡に帰してしまった。堤の構造見直しを迫られた重政は、川と堤のあいだに遊水地を設けて激流を和らげるよう計画。重政没後の寛文7年(1667)に次男・重年が着工、7年後の延宝2年(1674)岩本山から水神の森におよぶ長堤が完成した。全長2.7km、高さ5.5~7.3m、馬踏6.4m~11m、堤敷33~46m。重高の一番出し築造から50余年、古郡氏3代による大事業だった。
新堤完成の結果、富士川は現在の流路に定まった。加島平野では新田開発が一段とすすみ、元禄年間(1688~1704)までに5,394石、「加島五千石」と呼ばれた新田を開墾。宮下や中島、五味島など13の新田村が生まれた。のち、堤は雁の群れが飛ぶすがたに似ていることから、雁堤(雁金堤)と呼ばれるようになった。
いま、広大な遊水地は果樹園や畑地、公園に整備されている。
|
古郡氏ゆかりの神社仏閣
雁堤が接合する水神の森に、古郡氏が堤普請成就を願って社殿を建てた水神社がある。治水鎮護の社として敬われ、以南地域に小祠で多く分社された。水神社から堤上を東へ10分ばかり歩くと護所神社。困難を極めた築堤の過程で人柱を立てたと伝承され、その霊を祀っている。
護所神社の北1kmには古郡氏の菩提寺である瑞林寺(黄檗宗)。本尊の地蔵菩薩は国重文として知られ、墓地に古郡一族の墓がある。そこから東500m、富士中学校南には古郡重年が堤完成を祝って社殿を建てた中島天満宮。そばに重年夫人が建てた慈祥院(黄檗宗)がある。
富士川 |
水神社 |
護所神社 |
 |
 |
 |
全長128km、流域面積3,990k㎡、河口幅1,950m。釜無川と笛吹川を源流に、多くの支流を集めつつ南流、駿河湾へそそぐ。最上川・球磨川とともに日本三大急流として知られる。大正期に橋が架かるまで、渡船で渡河。また駿・甲間の舟運が盛んだった。 |
富士市松岡1816。主祭神:弥都波能売神、旧社格:村社。富士川橋のたもとに鎮座。もとは西岸にあったが、雁堤築造によって川筋が移ったため、東岸に属するようになった。正保3年(1646)、古郡重政が堤防完成を願い社殿造営。以南地域に多く分社された。 |
富士市松岡舟場堤敷の内。主祭神:人柱。雁堤上に鎮座し、人柱となった人物を祀る。伝承によると「雁堤築造中、たびたび洪水があり、作業は一向に進展しなかった。そのため、富士川を渡った千人目を人柱にすえ、神の加護にすがった」。社殿のほか人柱供養碑がある。 |
福寿山 瑞林寺 |
天満宮 |
鎮護山 慈祥院 |
 |
 |
 |
富士市松岡489。宗派:黄檗宗、本尊:地蔵菩薩。もとは清泰寺川上にあったが、天正年間に富士川洪水で流失。正保2年(1645)古郡重政が再興、天岳寺と号した。延宝2年(1674)荒廃した天岳寺を古郡重年が再建、鉄牛を招き瑞林寺に改めた。本尊は国重文。 |
富士市中島291。主祭神:菅原道真、旧村社。富士中学校の南100mに鎮座。富士川東岸の堤防「雁堤」を築いた古郡重年があつく遇した。雁堤竣工(17世紀中ごろ)のおり、祭神の加護に感謝して田園1,050歩を寄せ、字天神河原に社殿を造営したと伝えられる。 |
富士市中島130。宗派:黄檗宗、本尊:観世音菩薩。中島天満宮の元神宮寺。天満宮に隣接していたが、明治12年移転。開山の泰門を育てた古郡重年夫妻が、泰門の両親のために建てた庵が起こりという。のち泰門が寺観を整え、重年夫人の法名を寺号とした。 |
|
参考文献 案内板×2、駿河志料、岩松村地史、富士市史、日本歴史地名体系、角川日本地名大辞典、郷土資料辞典、文化財めぐり、富士川誌 |
(フォト撮影日:平成17年~21年。最終6月6日) |