大富山 永明寺
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名称 所在 静岡県富士市原田1167
宗派 曹洞宗 本尊 聖観世音菩薩
創建 伝:天平勝宝8年(756) 中興 文明4年(1472)
開山 行之正順禅師 本寺 服織洞慶院
寺紋 両山紋 敷地 1万3,740坪
鎮守 白山神社 滝不動 原田稲荷
交通 岳南鉄道岳南原田駅より徒歩9分 駐車場有
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末寺・孫寺盛時は末寺64か寺を数えたという。いまは7か寺が存続している。 (1)は現存末寺のリストで、その下に末寺および富士地区所在の孫寺を並べた。 (2)は、江戸中期の『延享度曹洞宗寺院本末牒』に載る末寺・孫寺。廃寺は、寺名をアミとした。なお、喜相院と霊仙寺は合併して新たに瑞雲寺が開創された。
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由来端緒寺伝によると、奈良期の天平勝宝8年(756)行基が北の高台に開創し、大富山金輪院(真言宗)と称した。室町期の文明4年(1472)行之正順が曹洞宗へ改め、一時は富金山永明寺(『梅花無尽蔵』)、のち大富山永明寺へ改めた。 永正2年(1504)、今川氏親の重臣・丸子城主斎藤加賀守安元が、高台下の水辺に移し、七堂伽藍を建立した。永明寺と斎藤加賀守の関係は詳らかでない。ただ、原田の字名に「斉藤」がある。『駿河記』の原田村項にも小地名として載り、「里民次右衛門居屋敷を加賀どの屋敷と称す。是は斎藤加賀守安元の古屋敷なるべし」と付記。室町期、一帯は斎藤加賀守の所領だったかもしれない。
戦国期以降、歴代領主の庇護を受けて寺運は隆盛。一時は末寺64か寺を数え、洞慶院派300余寺の門頭職、大本山総持寺の輪番地法幢格を有した。 今川義元は永禄2年(1559)6月8日、田地8石を安堵し、門前5軒の棟別役などを免除。今川氏真は永禄3年(1560)4月22日に上記を重ねて安堵し、同5年9月13日には制札を与えている。武田勝頼、徳川家康、豊臣秀吉、徳川家光もこれに準じ、それぞれ天正元年(1573)11月、同11年10月、同18年12月、寛永18年(1642)6月に寺領を安堵。江戸期は5年に1度、色衣着用での年頭登城を許された。 江戸中期の享保5年(1720)、16世寂峰隆照の代に火災で七堂伽藍、什宝・什具を焼失。17世大秀選龍の代に再建したが、天保7年(1836)の暴風雨、安政元年(1854)の大地震で堂宇大破。さらに明治32年に本堂を焼失、寺財政は困窮した。 しかし、近隣製紙工場への所有地貸与や境内湧水供給などでこの危機を乗り越え、檀徒協力のもと大正13年に本堂、庫裏を再建。戦後、湧水庭園を改良して東海随一と称される「富士乱水の庭」を整備、高風な寺観を整えた。 |
参考文献 境内石碑、大富山永明禅寺史、駿河記、修訂駿河国新風土記、駿河志料、皇國地誌編輯、郡誌編集資料、静岡縣安倍郡誌、原田村沿革誌、富士市の寺院、富士市の仏教寺院、日本名刹大事典、全国寺院名鑑、月の輪、久住山洞慶院史典、万里集九、梅花無尽蔵注釈、戦国大名家臣団事典東国編、鎌倉・室町人名事、静岡市史、麻機誌、静岡県宗教法人名簿 |
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