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村山大日堂と富士山興法寺

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富士山登山道のうち最初に開かれた表口は、ふるくから山伏が修行する修験の道だった。登山道入口の村山には神仏両道の堂社を擁した「富士山興法寺」があり、全国からつどう入峰者を管掌。富士修験(村山修験)の聖地として隆盛した。

富士修験の聖地、村山

大日堂は興法寺の中心を担った建物で、本地仏(本尊)の大日如来をまつる。明治期の神仏判然令によって域内の村山浅間神社と分離され、昭和29年にそれぞれ宗教法人へ登記している。この項では、興法寺やその別当・村山三坊も交えてまとめた。

十五菊
  1. 草創
  2. 隆盛
  3. 衰微
  4. 現在
  5. 写真一覧
  6. 関連リンク
1.草創

6世紀の仏教伝来以降、固有の信仰だった「神」と「仏」は共存・混交した。神社境内に神宮寺が建ち、僧侶の奉仕、神前での読経などが行われ、同じように寺院には鎮守社が建立された。のちに「神は仏の仮のすがた」とする本地垂迹思想が起こると、「神仏は一心同体」と考えられて融合。「神仏習合」といわれるこの状態は、明治期の神仏分離政策で「神社」「寺院」が明確に隔てられるまで続いた。

この流れのなか大きな役割を果たしたのが、神仏両道に通じ、神仏習合を説いた修験道。呪術者・役小角を祖とする彼らの信仰は、密教と山岳信仰を結びつけたもので、出羽三山・金峰山・白山などの霊山修行で神験を得た。

むろん、霊峰富士も修行対象となった。平安期、末代(富士上人)が山頂に大日寺、村山に伽藍を造営すると、鎌倉期に末代の流れをくむ頼尊(般若上人)が富士行を創始。これが富士修験(村山修験)の起こりとされる。以降、村山は修験者の集う一大拠点となり、富士修験の聖地へ発展していく。

村山口登山道
村山口登山道
末代(富士上人)

平安末期に活躍した駿河国の僧。岩本実相寺を開創した智印法印(阿弥陀上人)の弟子で、鳥羽上皇らに大般若経の書写をすすめたと記録されている。

『本朝世紀』(平安末期)の久安5年(1149)4月16日条は、

「鳥羽上皇のもと大般若経の書写が行われ、卿士・太夫・男女など多くの人々が参加。これをすすめたのは駿河国の富士上人、その名を末代という。彼は富士山に登ること数百度、山頂に大日寺を建立した。また越前国白山の竜池の水をくむなど非凡な力を持ち、関東庶民に一切経の書写を勧めた。上人は法皇に大般若経を献上したため、法皇とも結縁ができた」と紹介。

岩本実相寺

下って文永5年(1268)に岩本実相寺の衆徒が鎌倉幕府に送った『実相寺衆徒愁状』は、「実相寺初代院主である智印(阿弥陀上人)は鳥羽院の帰依僧で、末代上人の行学の師匠なり。三密を修め、戒律をまもり、仏法の隆盛につとめた」と所載。

さらに室町期の『地蔵菩薩霊験記』は、「末代は富士山中腹で百日の断食修行をしたとき、浅間大菩薩の神託をうけ、1尺8寸の御岳状の水晶を得た。そこで水晶岳と名付けた宮殿を造って水晶を奉納し、麓の村山にも伽藍を造営。最後は即身成仏し、大棟梁と号して富士山の守護神となった」と記す。

村山に末代を祀る大棟梁権現社(現在の高根総鎮守)が鎮座し、粟倉などにも分社が祀られている。

粟倉
村山から分社した粟倉の大棟梁権現
頼尊(般若上人)

鎌倉期、駿河国の修験者。「般若上人」とも呼ばれた。富士行を興し、一般人にも登山を勧めたという。文保元年(1317)に再建された滝川観音堂(妙善寺)の棟札に、「文保元丁巳十一月十一日大発願頼尊」とみえる。

案主富士氏(富士山本宮浅間大社神職)の『富士大宮司系図』によると、頼尊は浅間大社大宮司富士直時の従兄弟で、「富士正別当 村山三坊等ノ祖」と付記されている。また村山と同じく本山派に属した中里多門坊の開祖頼尊や、富士山東泉院の『富士山大縁起』を書写した正別当頼尊も同一人物とされる。

滝川観音堂
2.隆盛

室町期以降、富士信仰の浸透により入峰修行が盛んになり、村山はにぎわいをみせた。道者は興法寺所属の宿坊に宿泊、先達の案内で入峰した。主な宿坊に「村山三坊」と称された池西坊・辻之坊・大鏡坊があり、池西坊は本地大日堂(本尊大日如来)、辻之坊は浅間神社(祭神浅間大菩薩)、大鏡坊は大棟梁権現社(祭神末代)と、それぞれ域内の主要施設を管掌、多数の山伏・社人を従えた。

文明18年(1486)冬、聖護院門跡道興が村山に参詣し、「高ねには 秋なき雪の 色さえて 紅葉そ深き ふしの村山」と詠んでいる。このころから聖護院直末になったらしく、聖護院を本山とする本山派の修験者が集まった。

聖護院
聖護院の山伏
今川氏の崇敬

道者でにぎわう一方、国主今川氏や浅間大社大宮司富士氏ら権勢者からも崇敬された。ことに今川氏の崇敬はあつく、歴代が堂社建立や寺領安堵などで保護している。

今川範忠は永享年間(1429~41)に発心門や札打小屋、嶽鳥井央宮を造営し、文明10年(1478)に社殿を再建。今川義元はたびたび法令を定め、域内を清浄にして神威維持を求めるとともに、開山期間は旧借質物の取り立てなどを禁じ、村山を俗界権力の及ばない聖域に定めている。また駿河・遠江両国の山伏統括権を与えて北条氏の動向を探らせるなど、村山衆を諜報活動にも用いた。

武田、豊臣、徳川氏

今川氏真が武田信玄に追われたのち、駿河国の領主は武田氏-徳川氏-中村氏-徳川氏と変遷する。今川氏縁故だったからだろう、武田信玄の助力は得られず、むしろ繋がりがあったと考えられている富士山東泉院(富士市今泉)を静岡久能寺末にされるなど不遇をかこったものの、その子勝頼や他武将からは庇護された。

天正8年(1580)に北条氏の兵火によって社殿を失ったが、同年中に武田勝頼が鷹野因幡守徳繁を奉行に御室大日堂を再建し、同11年には徳川家康が堂社および諸末社を再建。同18年に豊臣秀吉が432石2斗、寛永18年(1642)には徳川家光が216石1斗7升余の朱印領を安堵した。

 池西坊辻之坊大鏡坊合計
豊臣政権下141石75石216石2斗432石2斗
徳川政権下95石1斗7升94石5斗26石5斗216石1斗7升余
富士山興法寺

主要堂社は、浅間大菩薩を祀る浅間神社、浅間大菩薩の本地仏である大日如来を祀る本地大日堂、そして末代を祀る大棟梁権現社で構成された。別当は争論・統廃合のすえ、池西坊・辻之坊・大鏡坊の3坊となり、俗に「村山三坊」と呼ばれた。

池西坊

本地大日堂を管掌。はじめ微身だったが、のちに駿遠両国の山伏統括権を持っていた慶覚坊の遺跡をつぎ、勢力を拡大。社坊12か坊を抱え、大日嶽・駒之口など7か所の参銭所を支配した。配属は山伏3人、宮仕2人、常使2人(1人は辻之坊と兼帯)、社人5人、田中役1人(辻之坊と兼帯)。

本地大日堂
本地大日堂
辻之坊

浅間神社を管掌。天文2年(1533)寺務代辻之坊は今川氏輝より釘沢から不動沢にいたる山地支配権を安堵され、さらに三女坊ほか7か坊の宗徒山伏の支配を認められるなど勢力を持っていた。配属は山伏4人、鍵取1人、宮仕1人、常使1人(池西坊と兼帯)、社人5人、田中役1人(池西坊と兼帯)。

村山浅間神社
大鏡坊

大棟梁権現社を管掌。富士行を興した頼尊の後裔と称した。長禄4年(1460)に浅間大社大宮司富士忠時の兄成久が継承している。富士郡下方の富士山東泉院多門坊と血縁関係にあったという。配属は山伏4人、社人2人と少なかったものの、西国を中心に有力な壇所をもち、大阪には旅宿を構えていた。

大棟梁権現社
大棟梁権現社(現高嶺総鎮守
3.衰微

富士修験の聖地として、室町期から戦国期かけて最盛期を迎えた村山。今川氏の退転以降、勢いにかげりは見えたものの、道者・権勢者の崇敬はかわらず、運営は順風満帆に思えた。ところが徳川政権の基盤が安定したころから衰えがうかがえ、江戸末期にはそれが顕在化。そして維新後、村山は廃退した。主因は以下の通り。

  • 江戸期
    • 入会地である富士野の支配権を失う
    • 富士山8合目以上の支配権を失う
    • 新興宗教の富士講が関東圏で隆盛
    • 大宮・人穴の宿坊と集客を争う
    • 度重なる自然災害による社殿倒壊
    • 宝永大噴火による登山道荒廃
  • 明治期
    • 神仏分離および修験道の禁止
    • 登山道の付け替えで村山口が廃道に
富士野の管理権や山頂の帰属を失う

明暦2年(1656)、今川統治期から管理権を持っていた富士野について、大宮など42か村が入会地として開放するよう提訴。村山は大鏡坊隠居の富興院を軸に反論したものの、生産拡大をとった幕府は42か村の訴えを認め、延宝7年(1679)に村山の敗訴が確定。村山の権限は大幅に縮小された。

さらに安永8年(1779)、幕府裁定により富士山8合目以上が富士山本宮浅間大社の持分と決まった。それまで村山は、表口登山道と山頂大日堂およびその付属地として駒ヶ嶽俵石~文殊嶽(三島嶽)を支配し、山内に大きな権限を持っていた。ところが裁定により大日堂の帰属を確保するにとどまり、山内における優位性を失った。

浅間大社
表口で競合した富士山本宮浅間大社
富士講隆盛、大宮・人穴とも集客争う

室町期に興った民間宗教の富士講が、江戸中期に関東圏で大流行した。関東からの入峰者は富士講に流れ、富士講と強くむすんだ吉田口や須走口から入峰するようになり、村山は集客面でも苦戦した(表口は修験道支配のため、富士講の介入余地はなかった。また関東からだと吉田や須走の方がアクセスに優れ、入山料も安かった)。

さらに表口においても、大宮(浅間大社)や人穴の宿坊と集客を争った。江戸期以降、西からの入峰者は大宮を経ることが義務付けられたが、村山は大宮を経ずに村山へいたる近道を印刷した宣伝ビラを作成するなど、道者集めに奔走した。

吉田口
富士講が崇敬した吉田口の冨士浅間神社。参道に富士講奉献の灯籠が連なる
自然災害で荒廃

度重なる自然災害も村山を悩ませた。

慶長元年(1596)、地震により家康再建の社殿が破損。寛永6年(1629)、地震台風で行者堂倒壊。同10年の台風では浅間社拝殿および大棟梁権現社が倒壊し、大日堂も大破。このときは一山をあげて再建している。ところが明暦3年(1657)の風雨で再び大破し、延宝8年(1680)の台風でも倒れた大杉により堂社破損。

これを受けて将軍綱吉は元禄10年(1698)、田中藩主太田摂津守資直を奉行に、本地堂から諸末社にいたるまで大々的に再建。拝殿は4間×5間、幣殿は3間×2間、本殿は7間×3間の荘厳な建物だった。しかし宝永4年(1707)、富士山の宝永大噴火によりその社殿は大破、登山道も荒廃してしまう。

すぐに再建する体力はなかった。わずかに大日堂の仮屋を建てたにとどまり、登山道の修復も満足にできなかったという。入峰者は荒れた表口を避けて須走口にまわり、表口登山者および村山の集落戸数は減少の一途をたどった。

江戸末期の『駿河記』を見ると、大日堂・富士浅間社・大棟梁権現社は相殿1社となり、「かつては別殿だったが、荒廃して相殿となった」と所載。『駿河国新風土記』には「往古は約600戸あったが、宝永噴火後に約70戸へ減少。文政9年(1826)には三坊・山伏・社人をのぞくとわずか2戸」とある。また三坊に配属されていた社人・山伏ら31名は、山伏3名・神主1名までに減少。衰退ぶりがうかがえる。

4.現在

江戸中期、自然災害などの影響を受け、財政的にひっ迫した村山。資金捻出のため、先達を諸国に派遣して富士行人の組織化を図ったほか、富士垢離を行なう富士行屋を建てるなど、地道な布教活動を続けた。そのかいもあって復興は次第にすすみ、19世紀中ごろには入峰者・集落戸数ともに増加へ転じた。

安政4年(1857)には聖護院門跡の許可を得て、本山派修験や富士垢離行家から勧進し、社殿を再建。権威回復の兆しも見えていた。

碑伝木
聖護院宮雄仁親王が参詣したときに立てた直筆の碑伝木
神仏分離、修験道禁止

ところが、明治政府の誕生により村山の運命は暗転した。新政府は国家神道政策をすすめるため、神仏判然令・修験道禁止令を発した。これにより、

  • 富士山から仏教色を排除
    • 村山が管理していた山頂大日堂は富士山本宮浅間大社へ売却され、同社奥宮に。ほか、薬師堂は久須志神社、登山道の雲霧不動堂は雲霧神社へ改称され、仏教系の地名も改められた。 明治7年には「富士山山掃除」と称された廃仏毀釈運動により、富士山中の仏像が壊されたり、下ろされた。
  • 富士山興法寺の変革
    • 末代を祀っていた大棟梁権現社は、祭神を大己貴命へ改められ高根総鎮守に。本地大日堂と浅間神社は境域を分けられ、間に柵が設けられた。浅間神社は浅間大社の摂社に組み込まれ、富士山中の仏像が集められた大日堂はかたく戸締め。村山三坊は復飾した。

三位一体だった大日堂・浅間神社・大棟梁権現社と、別当村山三坊による管理体制は崩壊。修験道場だった村山はアイデンティティを失い、権威も奪われた。

のちに浄蓮院北畠氏や大宝院秋山氏が法印活動を再開したものの、明治39年に村山を経由しない登山道(新大宮口登山道)が開設。旧登山道たる村山口の利用者は急減し、ついには廃道となった。

現在の村山

人々から忘れ去られた村山。しかし近年、富士山世界遺産登録への機運盛り上がりに合わせ、その存在がクローズアップされ、平成17年には約100年ぶりに登山道が復活した。

登山道や村山浅間神社は富士山世界文化遺産登録の構成資産候補となるとともに、「史跡富士山」の構成文化財として国史跡に指定されることが決まった。

境内風景
村山古道
村山古道
大日堂参道
大日堂参道
大日堂参道
大日堂参道
水垢離場
参道脇に水垢離場
境内風景
境内風景
護摩壇
護摩壇
不動明王
水垢離場の不動明王
不動明王
護摩壇の不動明王
富士峰大願成就祈念碑
富士峰大願成就祈念碑
石造
宝篋印塔、観音、地蔵
所蔵する主な仏像
大日如来
木造胎蔵界大日如来坐像
正嘉3年(1259)奉献(市文)
大日如来
木造胎蔵界大日如来坐像
推定江戸期以前(市文)
大日如来
木造金剛界大日如来坐像
文明10年(1478)銘(市文)
役行者倚像
役行者倚像
慶長13年(1608)銘(市文)
不動明王
銅造不動明王像(雲切不動)
応永20年(1417)銘(市文)
不動明王
木造不動明王立像
推定江戸中期作
不動明王
銅造胎蔵界大日如来座像
推定17~18世紀
不動明王
本地大日堂内部に
祀られた不動明王
その他の仏像
本地大日堂内の
その他の仏像たち

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参考文献 境内掲示板、村山浅間神社調査報告書、駿河記、駿河国新風土記、駿河志料、富士郡村誌、旧富士根村沿革誌、浅間神社の歴史、富士郡神社銘鑑、静岡縣神社要覧、静岡縣神社志、日本社寺大觀神社篇、山岳修験第6号、村山浅間神社の歴史と信仰展、西富士100の素顔、全国神社名鑑、富士山表口「村山」の歴史、季刊わがまち、月の輪、神道事典、富士八海をめぐる、富士山縁起の世界、富士宮市の伝統建築、富士宮市の棟札集成、富士宮市の文化財、日本歴史地名体系、角川日本地名大辞典
(フォト最終撮影日:平成23年3月19日)
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