北口本宮冨士浅間神社
名称 | |||
所在 | 山梨県富士吉田市上吉田5558 | ||
主神 | 木花開耶姫命 天津彦々火瓊々杵命 大山祇神 | ||
創建 | 伝:景行天皇50年(120) | ||
祭礼 | 例大祭:5月5日、開山祭:7月1日 鎮火大祭:8月26・27日 | ||
社地 | 25,721坪 | 神紋 | 八重桜 |
社格 | 旧県社 別表神社 | 神徳 | 火山鎮護、安産授育ほか |
備考 | 世界文化遺産推薦の構成資産、「史跡富士山」の構成資産(国史跡)、東宮本殿 西宮本殿 本殿 太刀銘備州長船経家附糸巻太刀(国重文)、富士えびす(県文)、冨士太々神楽(県民俗)、太郎杉(県天然)、次郎杉 夫婦桧 大塚山のヒノキ(市天然)、拝殿 幣殿 神楽殿 手水舎 諏訪拝殿 随神門 仁王門礎石 角行の立行石(市文) | ||
交通 | 交通冨士急行富士吉田駅より徒歩16分 駐車場有 |
富士山北口(吉田口)登山道の起点に鎮座し、とりわけ富士講から崇敬を寄せられた社。最盛期は社前に御師町が形成され、富士講信者はこぞって御師坊へ泊まり、浅間神社へ詣でて登山した。いまも夏ともなれば登山の安全を願う人々で賑わいをみせる。
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中世から江戸期は「浅間大菩薩」「富士浅間明神」などと称し、富士山2合目の冨士御室浅間神社に対し「下浅間」とも呼ばれた。明治初年に「富士嶽神社」へ改め、同43年「冨士浅間神社」と改称し、昭和21年「北口本宮冨士浅間神社」に改めた。
旧社格は県社(明治5年郷社に列し、同12年県社に昇格)。戦後、別表神社。
例大祭は5月5日だが、むしろ8月26・27日の吉田の火祭り(鎮火大祭)が広く知られる。大松明を燃やす火祭りで、日本三奇祭のひとつ。暮れ方、大神輿と御影が御旅所へ奉安されると、社前約2kmの間に配された70本余りの大松明(高さ3m)に一斉点火。上吉田は燃えさかる火の海となり、多くの観光客で賑わう。
ちなみに現在、吉田の火祭りは「富士山の山じまい」色が強いが、もとは諏訪神社の祭礼だった。諏訪神社は一帯の地主神である。浅間神社の隆盛によって両社共同で行なうようになり、富士講の影響などで山じまいの要素が加わった。それに伴い、祭りの起源伝承も変遷。「諏訪神が戦いのさい松明を燃やした故事」から「木花開耶姫命が燃えさかる炎のなか無事出産した故事」に改変されてきたという。
主要祭礼では、冨士太々神楽(県文)が奉納される。採物舞をふくむ出雲流の神楽で、有面4・素面8の十二舞で構成。富士道者によって奉納される神楽でもあり、古くは『甲斐国志』に「道者庭前ニ充満シ太々神楽日々アリト云フ」と見える。
社記いわく、景行天皇40年(110)に日本武尊が大塚丘で富士山を遥拝して大鳥居を建立し、10年後里人により小祠が建てられたことに始まる。のちの延暦7年(788)、甲斐守紀豊庭が現在地に社殿を営み、大塚丘に日本武尊を祀った、と伝える。
ただし史料上の初見は室町期まで下る。
そもそも神域を「諏訪森」、字名を「諏訪内」というように、一帯はかつて諏訪神社の神域だった。浅間神社は当初、諏訪神社に付するかたちで勧請されたと考えられている(史料初見は諏訪神社15世紀、浅間神社16世紀)。裏付けるように、諏訪神社が神領10石(2町3段6畝、山林縦15町横6町)を有したのに対し、浅間神社は6段8畝24歩の除地のみだった。
しかし、富士信仰の広まりで浅間神社は隆盛し、しだいに諏訪神社を取り込んだ。明治期、浅間神社神主が諏訪神社を兼務するようになって立場は完全に逆転し、諏訪神社は浅間神社の摂社となった。
また『甲斐国志』を引くと、
「大塚丘は浅間神社建立前から富士山の遙拝地であり、のち神祠造立にあたり小室浅間明神(富士山2合目鎮座、冨士御室浅間神社)を勧請した。東宮本殿がはじめて建立された祠であり、のち正殿造立の際に脇へ移した」
といった風に所載。北口本宮冨士浅間神社は富士山2合目鎮座の冨士御室浅間神社から勧請した社と説明している。
さらに、
「小室(冨士御室浅間神社)を上浅間といい、この祠(北口本宮冨士浅間神社)を下浅間と称するのは両社のいわれから。また下吉田にも浅間神社があり、これを下ノ宮浅間(小室浅間神社)と称する」
「5丈8尺の大鳥居は富士山の鳥居であり、神社創建前から建っていた。『勝山記』の文明12年(1480)3月20日条に"富士山吉田鳥居立"、明応9年(1500)4月20日条に"吉田鳥居"と見える」
とも紹介している。
史料には室町期から現れ、武田、小山田氏の崇敬を受けている。 武田信縄は永正3年(1506)4月11日、願文を捧げて病気平癒を祈願。武田信玄は永禄4年(1561)に社殿を造営(現東宮)し、同8年5月に息女松姫の病気平癒を祈って願文を捧げ、神馬3頭献納などを誓約。同13年(1570)4月23日の願文では北条氏政の滅亡を祈念しており、成就のあかつきには社領寄進を約している。
小山田信有は永禄2年(1559)7月18日、「諏方御浅間大菩薩」に願文を捧げ、武運長久を祈念。同4年4月21日には出陣をひかえ武運長久・無病息災を願い、無事帰陣のさいには神馬1頭の奉納を誓約。同5年5月、病気平癒ほかを祈念し、成就のあかつきには神護寺建立や本地仏造立などを誓約している。
武田氏滅亡後、この地方の領主は加藤・浅野・鳥居・秋元氏と目まぐるしく変遷したが、そのいずれからも保護された。文禄3年(1594)浅野氏重が社殿を修復し、西宮本殿を造営。元和元年(1615)、谷村城主鳥居成次が本殿を再建した。
鳥居氏改易後に移封された秋元氏歴代は、特にあつく遇している。慶安2年(1649)に秋元富朝、延宝6年(1678)と貞享5年(1688)に秋元喬知が社殿造修。さらに寛永18年(1641)に大鳥居扁額(蔓珠院宮二品良怒法親王親筆)を寄進し、寛文6年(1666)に大鳥居、同8年に鐘楼・梵鐘も再建。同12年(1672)狩野法眼永真画、延宝8年(1680)備州長船経家作の太刀(国重文)、元禄元年(1688)絵馬、元禄14年(1701)に銅灯籠を奉納している。
秋元氏が宝永元年に移封されると、以降は社殿・大鳥居修復もままならないほど衰微したという。正徳3年(1713)と享保18年(1733)には幕府へ修復願書を提出したものの、実現しなかった。
しかし、富士講(民間の富士信仰)が苦境を救った。享保18年から元文3年(1738)にかけて村上光清ら富士講の援助によって自力改修し、幣殿、拝殿、神楽殿、手水舎、随神門なども造営した。
北口本宮冨士浅間神社は、先に触れたように主なる浅間神社のなかでは歴史浅く、朝廷や幕府からの崇敬・保護は格式ある古社―富士山本宮浅間大社や一宮浅間神社など―に及ばない。しかし富士講と強く結んだことで、その信者から熱烈に信奉された。いわば衆庶の圧倒的支持を得た神社となった。
以下は、19世紀初頭の境内規模である(『甲斐国志』)。
本殿、弊殿、拝殿、本殿玉垣、神楽殿、随神門、石玉垣、護摩堂(鶴島村法性寺持)、鐘楼、水盤石、額殿、斎浄所、台所、神馬屋、外玉垣、富士登山門、神輿屋、大鳥居、石橋、御手洗川、仁王門(下吉田村月江寺持)、金灯籠8対、石灯籠83対。随人門から御手洗川まで20間、御手洗川より大門前まで3町5間。
末社は、富士権現、紀州明神、太神宮、山王権現、高宮、愛宕祠、天神祠、地神祠、天満宮、八幡宮、秋葉祠、疱瘡神、山王二一社十禅師祠、稲荷明神。
上記にみえる法性寺は別当だった。元禄以前に廃され、寺号のみ上鶴島に移り護摩堂を管掌した。なお仁王門、護摩堂などの仏教施設は神仏分離で廃されている。(参道に仁王門の礎石が残る)
富士山を南に背負う神域は、樹齢300年の杉桧林に包まれ幽邃としている。こと表参道は独特の雰囲気。ほの暗い参道を富士講奉献の苔むした大灯籠が延々と縁どり、怖いほど濃厚な"信仰のにおい"を漂わせる。この点は、環富士山の浅間神社で随一だろう。
やがて視界は開け、眼前に大鳥居が現れる。高さ18m、丹塗りの木造両部鳥居だ。神社造営前からあった富士山遥拝の鳥居が起源とされ、60年ごと造替される。大鳥居をくぐると随神門や神楽殿、手水舎、拝殿、本殿、御神木、境内社などが建ち並ぶ。
社殿の多くは富士講村上光清が江戸中期に造営した。力強い彫刻が細部を飾る豪壮な建築だ。一方、本殿は元和元年(1615)再建と古い。桃山期の様式をとどめた一間社入母屋造で、金箔きらめく絢爛豪華な建築。旧本殿の東宮・西宮ともども国重文に指定されている。
境内深部には「富士山」の扁額を掲げた鳥居がたつ。吉田口登山道の起点だ。そこからしばし山へ向うと大塚丘があり、丘上の小祠(大塚社)に日本武尊が祀られている。社伝によれば浅間神の創祀地であり、のちに日本武尊が合祀されたという。
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主祭神は建御名方神、八坂刀賣神。当地の産土神であり、浅間神社勧請前から鎮座していた。史料初見は『勝山記』の明応3年(1494)条で、「吉田取訪大明神鐘子武州ヨリ鋳テ曻テ候」とある。
諸武将から崇敬され、武田信玄は永禄4年(1561)閏3月2日、「吉田諏方森」に樹木伐採の禁制を出し、慶長年間(1569~1615)には浅野氏や鳥居氏が神領10石を安堵。江戸期通じて10石(2町3段6畝、山林縦15町横6町)を領した。明治期、浅間神社神主が兼務するようになり、同社摂社となった。
こんにち北口本宮冨士浅間神社の祭礼として知られる「吉田の火祭り」は、もともと諏訪神社の祭礼だった。浅間神社の隆盛にともない共同で行なわれるようになり、富士講の影響などで富士山の山じまいの要素が加わった。それに伴い、祭りの起源伝承も変遷。「諏訪神が戦いのさい松明を燃やした故事」から、「木花開耶姫命が燃えさかる炎のなか無事出産した故事」に改変されてきたという。
祭神は彦火火出見命。富士権現とも称した。現社殿は永禄4年(1561)武田信玄の造立と伝えられ、2代前の浅間神社本殿にあたる。文禄3年(1594)の浅間神社本殿再建(現西宮)のさい、旧本殿を移築し東宮となった。のち浅野氏重、鳥居成次、秋元富朝、秋元喬知らが修復し、享保19年(1734)には村上光清が大々的に修復。檜皮葺き一間社流造りで、小ぶりながらがっしりとした構造。国重文。
祭神は天照大神、豊受大神、琴平大神。文禄3年(1594)谷村城主浅野左衛門佐氏重が浅間神社本殿として造営し、元和元年(1615)の浅間神社本殿再建のさい移築し西宮となった。享保19年(1734)村上光清が大々的に修復。檜皮葺きの一間社流造りだが、側面および背面は2間。東宮よりもひと回り大きい。蟇股や木鼻の彫刻は極彩色で、飾り金具に村上講社の卍紋と藤紋。国重文。
そのほか、境内には多くの末社が祀られている。
表参道ぞいに青麻社、稲荷社、八幡社。諏訪神社前に三殿社、三神社、風神社、下諏訪社、子安社。本殿後ろに恵毘寿社。東宮隣に神武天皇社。登山道前に日之御子社、池鯉鮒社、倭四柱社、日枝社、日隆社、愛宕社、天津神社、国津神社、天満社。登山道の鳥居のさきに祖霊社が鎮座している。
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