犬山を巡る(1)
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11月4日(土)。曇り/晴れ。
尾張国の北辺、国宝犬山城を擁する犬山市を訪ねた。メインは犬山城&城下町観光だが、界隈の神社仏閣にも立ち寄ったので、一緒に記録しておく。
- (1)犬山城界隈
- (2)犬山城と城下町
- (3)尾張国二宮
愛宕神社(木ノ下城跡)
犬山城を目指し県道を走っていたとき、視界のスミに黄葉が映った。虫が蜜に誘われるように引き寄せられたら、神社に着いた。社号標に「愛宕神社」、石碑に「木ノ下城跡」とある。境内の由緒書に、木ノ下城は犬山城を築いた織田信康の居城だった旨が書かれていた。 こんな変哲もない平地に城跡?――にわかに信じ難い。大いに訝りつつ(というより完全に疑いつつ)参拝を済ませ、写真を撮り、さっさと犬山城へ向かった。 ところが後で調べたところ、木ノ下城は、本当に存在していたらしい。なんともまあ。せっかくの機会だったのだから、もっとしっかり見ておけば良かったと後悔している。ただ、ついてはいた。今回の観光に持ってこいの史跡に巡り合えたのだから。 犬山市街地に鎮座
鎮座地は犬山城の南東1km。市役所のそばだから、犬山市の中心市街地なのだろう。県道からわずかに横道へそれた地に、ごく一般的な地域の氏神といった規模で鎮座している。社頭では、黄葉の正体であるイチョウが2本、葉を散らしていた。 境内中央に瓦で葺かれた舞殿が建ち、背後の低い石垣上に拝殿や本殿がある。社殿はいずれも飾り気のない質朴な建築。石垣のせいだろうか、どことなく厳つい雰囲気をまとっている。社殿脇には大きな常緑樹が枝葉を広げ、樹下にいつくかの境内社と古井戸。井戸は「金明水」という。未確認だが、近くに「銀明水」もあるらしい。これらは、木ノ下城があったころ掘られたものと推測されている。 鎮座地は木ノ下城跡かつてこの地に存在した木ノ下城は、室町期の文明元年(1469)、尾張国守護・斯波氏の家臣だった織田広近が築いたらしい。文明年間は応仁の乱のただ中にあたり、日本国中が情勢不安に揺れていたころ。尾張も国境の防衛力強化を迫られ、美濃との国境にあたる犬山では、木ノ下城が美濃への警戒とけん制にあたった、ということか。愛宕神社の本殿がある場所が、主郭だったと考えられている。 以後、織田氏代々が居城したが、天文6年(1537)織田信康が、美濃との国境をなす木曽川のほとりの三狐尾寺山に犬山城を築き、拠点を移した。この時、木ノ下城は廃された。信康は、織田信長の叔父にあたる。 犬山城は、断崖と木曽川に守られた天然の要害。一方、木ノ下城は平地にあり、断崖や大河はない。城としては丸裸に等しく、ひどく心細い。国境という油断ならぬ土地であればこそ、より堅牢な城へ拠点を移す必要に迫られたのだろう。あるいは木ノ下城が築かれた時はまだ、美濃勢による侵攻などは現実味ある話ではなかったのかもしれない。敵を防ぐより、政庁機能に重きをおいた拠点だったとも思える。 愛宕神社の創祀と沿革木ノ下城の廃城から約70年後の慶長10年(1605)、鍛冶屋町の鍛冶兼常が愛宕山長床坊で修行して「長泉坊」と号し、自宅裏に愛宕神社を勧請した。これが当社の起こりとされる。ほどなく犬山城主・小笠原吉次から木ノ下城跡を寄進され、そこに神仏習合の「愛宕山長泉寺延命院」を建立。将軍地蔵を祀った。 元文5年(1740)の城下絵図に、延命院の広大な寺域が記されているという。しかし延命院は、明治維新の神仏判然令を受けて廃院。あとに、愛宕神社が残された。
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針綱神社
犬山城の登り口に、三光稲荷神社と並んで鎮座している古社。『延喜式』に「針綱神社」と載り、『尾張国神名帳』には「従一位針綱名神」とみえる。 中古は「白山大明神」と称し、八幡・白山・御領の3柱を祀った。しかし江戸中期、式社「針綱神社」に比定されたことにより、安永4年(1775)神道管領から「正一位白山針綱大明神」の称を与えられ、維新後に旧称「針綱神社」へ復した。 こんにちの祭神は、濃尾平野を開拓した尾張氏一族の尾治針名根連命や尻調根命など10柱の神々。 歴代犬山城主の祈願所に針綱神社は、もともと犬山城の天守付近に鎮座し、周辺の惣社および産土として崇められていた。社伝によると、天文6年(1537)織田信康が犬山城を築くにあたり、東方の白山平へ遷され、69年後の慶長11年(1606)4月、城主・小笠原吉次により市内名栗町へ再遷座。さらに明治15年、旧地である現在地へ遷座した。 ただし、17世紀中ごろの『正事記』は、犬山城は当初、現在地より約300m西南の三光寺山に築かれ、のち白山権現(針綱神社)を白山平に遷し、神社跡を本丸にした、とする。また18世紀の『尾州丹羽郡犬山城主附』は、慶長6年(1601)小笠原吉次が白山宮を遷座させ、跡に犬山城を移築した、としている。 歴代犬山城主からは、祈願所として崇敬された。 織田信康は木ノ下城主時代、夫人の懐妊を受けて、自作の木彫り犬を奉献して安産祈願したと伝えられる。小笠原吉次は慶長5年(1600)、「神田五反小之所」を寄進。成瀬家2代の正虎は慶安3年(1650)、例祭時の車山、ねり物を大いに奨励し、祭りは年々盛んになったという。 この車山は13台が現存。4月の犬山祭りでは、車山の上でからくり人形による「奉納からくり」が上演される(重要無形民俗文化財)。 境内で注連縄作り城下町のメイン通りを城に向って歩くと、やがて緑樹を背負った白い大鳥居が見えてくる。脇の社号標に「尾張五社」とある。5社は諸説あるが、針綱神社、熱田神宮、津島神社、尾張大國霊神社、千代保稲荷神社を挙げることが多いらしい。 鳥居をぬけると大きな太鼓橋が置かれ、後ろの二の鳥居をくぐると小さな境内社がたくさん並んでいる。かたわらのイチョウやモミジが良いあんばいに色づき、境内に彩りを添えていた。
3基目の鳥居脇で、大勢の人が作業をしていた。年輩の男性が多い。女性の神職もいた。のぞくと、注連縄作りの真っ最中。いくつかのグループに分かれ、最も人手をかけたところでは太く、長い注連縄の制作が佳境を迎えていた。年の瀬を感じさせる一幕。 現場を辞し、鳥居をくぐって急な階段を上がりきると、青空の下に社殿が現れた。やや線の細い木造社殿。拝殿は向拝を長々とのばした入母屋造りで、立派な注連縄が張られている。さきほどの注連縄は、もうすぐここに張られるのだろう。 社殿の左手から天守に通ずる道に合流、階段をしばし上がれば本丸門にいたる。
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三光稲荷神社
犬山城が屹立する城山の中腹。城の登り口に、式社・針綱神社と並び鎮座しているお稲荷さん。「三光稲荷神社」と称する。針綱神社の境内社かと思いきや、まがうことなき独立した神社であるらしく、授与所も有人だった。 きれいな御朱印帳立ち並ぶ赤鳥居と赤幟の向こうに、稲荷神社の社殿と授与所があり、一段低いところに境内社の猿田彦神社。境内はごく狭く、雑駁とした印象だが、それがかえって稲荷神社らしい親しみやすさを漂わせ、むしろ好ましい雰囲気だった。 社殿右の赤鳥居が林立した裏参道をゆくと、奥之院があり、そこから犬山城へ登ることができる。ただ、どちらかといえば、ここを通って登城するより、帰路、裏参道を通って三光稲荷神社をお参りし、表参道から帰っていく人が多いようだ。
参拝を済ませ、授与所に寄った。穏やかな雰囲気の女性が、境内清掃の手を止めて応対してくれた。 棚をみると、さまざまなお守りやお札、キーホルダーに交じり、オリジナルの御朱印帳があった。やや小ぶり、さわやかな薄緑色をしている。表表紙に犬山城と三光稲荷神社の連なる赤鳥居、裏表紙には三光稲荷神社と猿田彦神社の社名と、2社の神紋が刺繍されている。じつにきれい。装丁に魅せられ、おもわず購入した。御朱印は、三光稲荷神社と猿田彦神社別々。 昭和39年、現在地に遷座三光稲荷神社が、ここ城山に鎮座したのは昭和39年と新しい。それまでは城山と隣り合う三光山(三狐尾寺山)――と呼ばれる牡丹餅型の小丘――に鎮座していた。遷座の理由は知らないが、こんにちの賑わいをみると、犬山城を訪れる観光客を意識したのではないか、と思える。 犬山城を築いた織田信康をはじめ歴代城主からあつく崇敬され、特に成瀬氏は守護神・祈願所として厚遇し、種々の神宝を寄進したという。創祀年代は詳らかでないものの、あるいはいずれかの城主が勧請した社なのかもしれない。
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参考文献 境内掲示板、由緒書、明治神社誌料、神詣で、式内社の研究、日本の神々 神社と聖地、全国神社名鑑、日本社寺大觀神社篇、角川日本地名大辞典、日本歴史地名体系 |
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