富知六所浅間神社(三日市浅間神社)
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市浅間本町5-1 | ||
主神 | 大山祗命 | ||
配神 | 木花之佐久夜賣命 大山咋神 深渕之水夜禮花神 阿波乃咩神 高龗神 | ||
創建 | 伝:孝昭天皇2年(前474) | 例祭 | 5月3日 |
神紋 | 丸に棕櫚の葉 | 社格 | 式内社 旧郷社 別表神社 |
備考 | 大クス(県天然) | 神徳 | 安産・子宝・商売繁盛ほか |
交通 | 岳南鉄道吉原本町駅より徒歩16分 駐車場有 |
富士地域有数の古社であり、下方五社の一。古くは門前市が立ったことから、旧地名を三日市場、通称を三日市浅間といい、「三日市の浅間さん」と親しまれている。嵯峨天皇中宮の安産祈願を奉仕以来、勅願所になったと伝え、こんにちは安産の守り神として信仰篤い。
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『駿河国風土記』に「不二神社 大山祇之命也 深待彦天皇二年丁卯六月之旬始祭之」が載っており、社伝も孝昭天皇2年(前474)6月10日の創祀としている。式内社「富知神社」の論社。
社伝によると、当初は富士山中で祀られていたが、噴火の影響で延暦4年(785)現在地へ遷座。崇神天皇御代、四道将軍として東海道へ派遣された建沼河別命が崇敬し、奏聞して勅幣を奉じた。
くだって大同元年(806)に下方五社を勧請・整備したさい、平城天皇から唐本の大般若経が寄せられ、5社の首座に定められた。弘仁2年(811)正四位に叙せられ、嵯峨天皇皇后の安産祈願を奉仕。以来、国家安泰を祈祷する勅願所に定められたという。
鎮座地周辺からは奈良期の布目古瓦が出土し、「三日市廃寺」の存在が指摘されている。この古寺は『三代実録』の貞観5年(863)3月2日条にみえる定額寺「法照寺」とみられる。そばには7世紀~9世紀の大集落跡(東平遺跡)もあり、ひいて一帯は律令時代の郡衙だった、と考えられている。
郡衙、古寺があれば、それにつりあう規模の神社も祀られていたに違いない。さらにいえば、豊かな湧水の地に祀られていることも古社であることを裏付けている(浅間大社がそうであるように)。
中世になると、「下方五社」「五社浅間」などの名称で多くの史料に現れる。下方五社は、駿河国富士郡下方に点在している有力神社5社の古い総称で、富士山東泉院が総別当職を世襲し、神領や社殿の維持管理、祭祀権を握っていた。各社は東泉院を介し、今川・豊臣・徳川氏ら権勢者から崇敬された。
ことに駿河守護今川氏の庇護は篤かった。富知六所浅間神社は天文6年(1537)に後北条氏の兵火(河東の乱)にかかり衰微したものの、今川氏の助力によって再興を果たしている。なお同15年の仮殿建立のさい、五大尊を祀る宮殿から別当代頼秀僧都、正別当大僧都頼恵が『富士山大縁起』を発見したという。
今川義元は天文16年(1547)8月19日、東泉院大納言に下方五社別当職を安堵し、さらに社殿修理分として1社につき宛米75石・銭58貫文を3年間にわたって寄進。同21年2月7日、社殿修造のため諸役を免除し、弘治2年(1556)6月21日には社殿修造を終えるまで富士川以東の勧進独占を認めた。
今川氏真も永禄4年(1561)3月、境内湧水を水源とする御手洗川(和田川)において和田橋を境に支配権を認め、さらに社殿修造終了まで富士川以東の勧進独占を認可。同8年、社殿造営用の木材を富士山より引き出す人足役を下方・加島の新田本田諸給主に命じ、同9年には諸役および臨時人足を免除している。
16世紀中ごろの東泉院および下方五社の知行高は、米方360俵、代方58貫文。下方五社に社人を5人ずつ配属し、東泉院には院主や学頭僧、宮僧5人がつとめていた。
豊臣秀吉は天正18年(1582)12月28日、東泉院に下方五社別当領として190石の朱印地を認めた。この朱印高は徳川政権下も同様に継承された。富士郡下で3桁の朱印高を有したのは、別当東泉院、富士山本宮浅間大社、村山三坊のみであった。
なお、これらは表高であり、内高は新田開発を積極的に推し進めた結果、享保14年(1729)の検地で600石へ著増。寛保年中(1741~44)の調査では、朱印地そのほか含め808石、さらに別当領66石を有していたという。
この時代になると、社殿棟札の記録も多く残る。主なところでは元和7年(1621)に社殿造営、宝永3年(1706)に屋根葺き替えと鳥居造営、宝暦12年(1762)に社殿再建などを行っている。
なお江戸期は、本社(銅葺堂社造、丹青彩色、5間1尺×1間5尺、向拝:5間1尺×1間2尺)、拝殿(草葺、4間3尺×5間)、楼門(3間3尺×2間)、水屋兼物置、一鳥居、御宮番所(2間3尺×2間)、本地堂(3間四面)、鐘楼(方2間)、太鼓橋(石造)があった(『浅間神社の歴史』)。こんにち、楼門・御宮番所・本地堂・鐘楼は失われている。
明治初期、政府は神仏判然令を発した。これを受けて東泉院住職は復飾して六所氏を名のり、神官に転じた。
神仏が習合していた下方五社は、仏教色を取り除いて神道へ復することとなった。富知六所浅間神社境内にあった本地堂や鐘楼は破却され、本地仏の大日如来像、十一面観音像などは東泉院の本寺・醍醐寺報恩院が引き取った。
別当東泉院の『東泉院御由緒書』には、おおむね次のように記されている。
「富士山は三国無双の名山にして国家擁護の霊神ゆえ、浅間宮を数か所に祀って祈祷する必要がある。東泉院が別当をつとめる五社浅間のうち、父宮、母宮、六所浅間宮は富士浅間赫夜姫誕生地により、これを祀る」
中世から江戸初期、浅間神社の祭神(=富士山の神)は「赫夜姫」と考えられた。『竹取物語』のかぐや姫である。中世にさかのぼる『神道集』『富士山大縁起』『源氏物語提要』などに記述がみえ、広く知られていた説らしい。こんにちのように富士山の神=木花之佐久夜賣命が定着したのは、江戸中期以降のことだった。
『東泉院御由緒書』もそれを踏襲している。富知六所浅間神社の祭神をかぐや姫とし、瀧川神社を竹取の翁を祀る社=父宮、今宮浅間神社を竹取の嫗を祀る社=母宮と表記。江戸末期の『駿河国新風土記』でも、富知六所浅間神社の祭神は「赫夜姫」と記されている。
『東泉院御由緒書』は続いて、
「大同元年(806)に5社の社殿を造営したさい、平城天皇から唐本大般若経や行基作の本地仏が寄進され、のち嵯峨天皇から空海作の五大尊不動明王が寄進された。嵯峨天皇のころから年2度の勅使下向が始まり、南北朝のころ一時中断したが、駿河国主の今川範国が勅使代として復活させた。5月の神事では、1~3日にかけて父宮、母宮、六所浅間宮で10騎による流鏑馬を執行する」
と記す。唐本大般若経や本地仏、五大尊不動明王は『富士山大縁起』にも記述があるものの、残念ながら散逸している。祭礼に関しては実際、明治維新まで駿河国惣社(静岡浅間神社)より国方奉幣使が参仕し、奉幣していた。
中世後期以前の内容と考えられている『富士山大縁起』の「五社記」には、
一 | 日吉宮 | 卯日 | 八幡 金色幡 朝日 |
二 | 新宮 | 辰日 | 愛鷹 赫夜妃誕生之処 |
三 | 今宮 | 巳日 | 犬飼神 |
四 | 六所宮 | 午日 | 浅間 惣社 |
五 | 新福地宮 | 申日 | |
同 | 大宮 | 申日 | (※備考:金剛界 千手観音) |
山宮 | 未日 | (※備考:不動尊) |
とある。これは、4月・11月の神事順を示している。日吉=日吉浅間神社、新宮=瀧川神社、今宮=今宮浅間神社、六所宮=富士六所浅間神社、新福地宮=入山瀬浅間神社を指し、大宮は富士山本宮浅間大社、山宮は山宮浅間神社を指す。日吉から山宮まで、繋がりある神事として行なわれていたようだ。
続いて、次のように列記されている。これは下方五社の本地仏を示している。
日吉本地 | 浅間宮 | 八幡宮 愛鷹宮 |
阿弥陀 観音 勢至 |
新宮本地 | 初名新山今名 愛鷹山新宮 |
毘沙門 千手 薬師 | |
今宮本地 | 初名今山今名愛鷹山今宮 (※『富士山大縁起抜書』) |
不動 薬師 | |
六所本地 | 惣宮 | 金剛界大日 | |
新福地本地 | 福地宮 浅間宮 |
薬師 |
注目は富士六所浅間神社の注釈「惣宮」。先の神事順にも「惣社」とあるが、惣宮や惣社は、特定地域の神社祭神を一か所に勧請・合祀した社を指す。富士六所浅間神社の場合、社名の「六所」を「6社から勧請・合祀した」と解釈すれば、前述の「日吉宮」「新宮」「今宮」「新福地宮」「大宮」「山宮」が該当社に浮かび上がる。
裏付けるように現在、富知六所浅間の配神たる大山咋神・深渕之水夜禮花神・阿波乃咩神・高龗神・木花之佐久夜賣命はそれぞれ、
大山咋神 | → | 日吉宮(日吉浅間神社) |
深渕之水夜禮花神 | → | 新宮(瀧川神社) |
阿波乃咩神 | → | 今宮(今宮浅間神社) |
高龗神 | → | 新福地宮(入山瀬浅間神社) |
木花之佐久夜賣命 | → | 大宮(浅間大社)、山宮(山宮) ※山宮は大宮の旧跡=同神 |
で祀られている。富士六所浅間神社は、これら神社祭神を合祀し、「惣社」としての性格を備えていたのだろう。江戸期まで、富士山本宮浅間大社の大祭に参仕した国方奉幣使が、その往き帰りに富士六所浅間神社へ参仕していたことも、同社が駿河国および富士郡において重要な立場にあったことを示している。
市役所の北600m、市街地の一角に鎮座。古くは数町歩の森林に抱かれていたというが、いまはほどほどの広さで、南端に社殿や社務所、授与所、神池、会館(樟泉閣)がコンパクトに建ち、その北に鬱蒼とした木立が広がる。(木立は先ごろ社殿工事のため伐採された)
石鳥居をくぐり神域に入ると、ひときわ存在感ある古木が目にとまる。御神木の大クス(県天然)だ。推定樹齢は1200年。驚くほど太く丸く発達した幹はふたつに分れ、苔むした支幹たちが猛った八岐大蛇の風にぐねぐねと伸びている。えも言われぬ神秘的なすがた。
社殿は江戸期の建築。入母屋造の拝殿は江戸後期、流造の本殿は宝暦12年(1762)に再建された。いずれも古社のにおいを感じさせる渋い木造建築である。ただ、残念ながら耐震工事を施せぬほど老朽化していることから、改築事業が進められている。
拝殿の右には姿のいい石の太鼓橋がある。以前は社頭の小川に架かっていたが、境内整備の際に移された。柱に明和3年(1766)11月の銘があり、石工は信州の平右衛門、清兵ヱ。高遠石工だろう。その後ろには宝永5年の灯籠があり、銘は「六所浅間太神宮」。
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『駿河志料』(江戸末期)は末社として天神・弁才天・荒神・古富久呂御前、『明治神社誌料』(明治末期)は兒袋神社・北野神社・宗像神社を載せる。昭和初期の『淺間神社の歴史』は、境内末社に兒袋神社・北野神社・宗像神社・水神社・稲荷社・十二荒神社があったものの、水神社・稲荷社・十二荒神社は無くなった、と記している。
こんにち、末社は兒袋神社(大国主命)、北野神社(菅原道真)、宗像神社(宗像三神)の3社となっている(『富知六所浅間神社略記』)。ただし、境内には確認できただけで祠6、石碑2(地之神、水神)、石像1(大黒天)がある。石碑は地之神と水神、石像は大黒天だが、祠はいずれの神を祀るのか外観上は判然としない。
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なお明治期の『神社明細帳』は、下方五社の瀧川神社、今宮浅間神社、日吉浅間神社、入山瀬浅間神社を当社の摂社に定めている。