永源寺の元鎮守
岩本山南麓、永源寺の門前に鎮座している。永源寺の山門鎮護および村・近郷の氏神として祀られていたが、明治の神仏分離で同寺の手を離れ、村社に列した。祭神は八面大荒神(火産霊神・奥津比古神・奥津比売神)。
大永6年再建
創祀不詳ながら、古くから当地で祀られていたようだ。永源寺を開いた寿天が大永6年(1526)に奉じた棟札に、おおよそ次のように記されている。
「永源寺建立のため密家の旧跡を求めたら、壊れた小社があった。村の老人にいかなる神か尋ねたところ、密家の鎮守および村・近郷の氏神として祀った『八面大荒神』だという。永源寺建立に際し社を再建、これまで通り山門鎮護ならびに氏子繁栄を祈願して祀ることにした」
この棟札は後世に作り直されたものと推測されているが、内容の信憑性は高そうだ。永源寺の前身は真言宗永見寺とされるから、棟札にみえる「密家」は真言密教、あるいは当山派の修験者を指すと思われる。
大永以降、天文、天正、元和、寛永、慶安、寛文、延宝、享保、宝暦、安政、明治期の棟札が、永源寺住職を導師に奉じられた。天文棟札には八面大荒神ほか天照皇大神宮・白山妙理大権現の名がみえ、元和棟札では富士浅間大菩薩などを追加。以降も神々は増え続け、安政棟札は八面大荒神を中心に計19柱を配している。
祭神の八面大荒神は、仏・法・僧の三宝を守護する三宝荒神。古代以来の荒ぶる神に対する信仰に、修験者らが仏教的解釈を加えて祭祀した神で、像容は三面六臂や八面六臂とされる。ただし八面神社では神仏分離のさい祭神を書き換えたらしく、明治以降の『神社明細帳』や『富士郡神社銘鑑』は祭神を木花開耶姫命とし、いまは神道系の竈三柱神を祀っている。
夏越の祓に茅の輪くぐり
約100年前に書かれた『岩松村誌』は、「百四十五坪バカリノ狭キ所ナレドモ三百年以上モ経タランカト思ハル老杉森トシテ天ヲ衝ケリ」と紹介。嬉しいことに、いまもほぼ変わらぬすがたを保っている。目通り5mに達するクスをはじめ、市保存樹林のムクやイチョウらがひと塊となり、色濃い木立を形成。隣り合う3階建ての建物をゆうに越えるほど、たかだかと茂っている。
その木立の下に、瓦葺きの鉄筋コンクリート製社殿が建つ。拝殿は入母屋造り、本殿覆屋は流造りで、いずれも昭和38年10月に改築。そのほか、境内入口に白御影石製の台輪鳥居が立つ。毎年6月下旬の夏越の祓では、この鳥居に茅の輪を設置。参拝者は無病息災を願いながら、茅の輪をくぐり抜ける。
八面神社は、市内蓼原にも鎮座しています(→稲荷八面神社)。ここは、富士川に流されて漂着した神体を里人が見つけて勧請した社、と伝えられます。いま富士川は岩本山の西を南下して駿河湾に注ぎますが、むかしは山すそで東南......
|