富豊七神社
名称 | |||
所在 | 静岡県富士市南松野字粒良野3400付近 | ||
主神 | 不詳 | ||
創建 | 不詳 | 例祭 | 7月、秋 |
備考 | スダジイ(旧富士川町天然記念物) | ||
交通 | JR身延線沼久保駅より約6.3km 駐車場無 |
富豊七神社は南松野の山あい、粒良野(つぶらの)という字面のきれいな集落で祀られている。わずか数戸の集落は山々のあふれる緑に抱かれ、そのおだやかな景観は字面に輪をかけて美しい。喧騒から遠い、まことに静かな山里の氏神である。
詳細不詳。資料がまったく集まらず、縁起はおろか、祭神すら分からない。ただし御神木は県有数のスダジイの巨樹であり、富士川町時代は町天然に指定され、秘かに知られた存在である。
そばで農作業をされていた男性に、神社についてうかがった。
「祭神?・・・なんだろう(苦笑い)。部落の氏神さんとして祀っていてね、氏神さん、氏神さんって呼んでいるからねぇ」
「お祭りは年2回ね。7月と秋祭り。部落の軒数が少なくなってね、幟を立てるのもたいへんになってきてねぇ」
・・・地元の人も詳しいことは分からないらしい。それでも「氏神さん」と敬愛し、こと御神木は「自慢の存在」だという。
御神木は、「粒良野の大家」と呼ばれる稲葉家が植えた、と伝承されている。いわく慶長5年(1600)、稲葉家の兄弟2人が関ヶ原の戦いに参加したさい、家族は無事を願い、朝夕氏神に祈った。そのかいあって兄弟は無事帰郷。稲葉家は「氏神様のおかげ」と感謝し、スダジイを植えた。(『ふるさと富士川』)
これを参考にすると、神社は400年以上前には在ったことになる。一集落の氏神なのだから、なんら不思議はない年代だ。
余談だが、北松野妙松寺の山門建立のとき、南松野の稲葉氏がケヤキ材を寄進したと伝えられている。また武田氏が蒲原城の北条氏を攻めたさい、松野六人衆と呼ばれる南松野(漆野、池野、水の口、根方、中沢、粒良野)の郷士たちが武田勝頼の道案内をしたという伝承も。6人は望月(2人)、佐野、木伏、上野、稲葉の各氏。
これら稲葉氏と、「粒良野の大家」稲葉氏は一党なのだろうか。
史料の観点では、『南松野村諸神々御社諸寺々寺内目録』に「粒良野 山神」「同所 地神」「同所 山神」「同所 伊勢神明」と載っている。おそらく、そのいずれかなのだろう。
4社のうち、規模が最も大きいのは「伊勢神明」で、「20間、15間」の規模。富豊七神社周辺を見渡したところ、「山神」と思しき小さな石祠があったのみで、広い境内や社殿をもつ社は見当たらない。「伊勢神明」が該当社の可能性は高そうだ。
ほかに、『ふるさと富士川第二集 昔ばなし伝説』に、
「(要旨)昔、粒良野に悪さをする大猿がいて、村人に目を射ぬかれ、殺された。以後、粒良野には目を患う人が次々と出た」
という伝承が載っている。その猿がねぐらにしていたのが「お宮さん」。いずれの神社なのかは記されていないが、富豊七神社と考えて構わないだろう。猿といえば日吉や浅間、庚申などだが、果たして祭神と関わりはあるのだろうか。
以上、思いつくままつらつらと書いたが、全然まとまらず。資料が集まったら、編集し直す予定。( ̄  ̄;)
北松野原方の白鬚神社脇から林道粒良野八棟線へ入り、林間の薄暗い一本道をうねうねと登っていくと、やがて視界が開ける。そこが粒良野の集落。白鬚神社から約3.2km、最寄り駅のJR身延線沼久保駅からは、およそ6.3kmといったところ。
御神木の案内板が道端にたっている。が、そこから神社は“見えない”。じつは真後ろの林が神域なのだが、一見ただの林にしか映らず、入口も分かりにくい。およそ参道らしからぬ野道を辿って林へ入ると、足場の悪い斜面に御神木と社殿が寄りそっている。
御神木の古びようはまことに美しい。
根回り7mに達するスダジイの大木が、林の斜面に爪をたてたように力強く根をはっている。たくましい幹は重ねたタオルを固く絞ったようにねじれ、その精悍なフォルムは、スポーツ選手の鍛えぬいた肉体美に近い。おもわず見惚れてしまう。
社殿は平入りの木造建築。“木こりの山小屋”といった風な簡素な造りで、御神木に比べ存在感は薄い(だからこそ御神木が引き立っているのだろう)。周りはスダジイの再生林と杉林が静謐に広がり、石祠がひとつ積もった落ち葉にまぎれて鎮座していた。
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