義盛神社
名称 | 義盛神社 [和田神社、和田義盛神社] | ||
所在 | 静岡県富士市今泉字城山1379(上和田) | ||
主神 | 和田義盛 | ||
配神 | 大山津見命 建速須佐之男命 | ||
創建 | 不詳 | 例祭 | 5月3日 |
社地 | 70坪 | 社格 | 旧無格社 |
備考 | 日吉浅間神社境外社 | 神徳 | 不詳 |
交通 | 岳南鉄道吉原本町駅より徒歩7分 駐車場無 |
富士市今泉の上和田で祀られている小さな社。鎌倉幕府の有力御家人・和田義盛を祀り、俗称「義盛さん」。こんにちは日吉浅間神社の境外社となっており、同社の例祭日に祭礼を行っている。
相模の豪族三浦氏の支族。治承4年(1180)8月の源頼朝挙兵に参加後、頼朝に近侍し、その信頼を得た。同年10月の勧賞で三浦義澄、北条時政と並んで勲功賞を受け、11月には侍所の初代別当に補任。木曽義仲や平家追討では源範頼の軍奉行をつとめ、奥州合戦でも軍功をあげた。建久元年(1190)、頼朝上洛に際して先陣をつとめ、頼朝の推挙により左衛門尉に任じられた。
頼朝の死後、宿老13人による合議制のメンバーに列する。その後、政敵だった梶原景時を追放し、比企能員の変、畠山重忠の乱では北条時政に与した。やがて北条時政が失脚すると、幕閣の最長老として勢力を誇示し、時政の跡をついだ北条義時との対立が表面化。建保元年(1213)5月、義時の挑発を受けるかたちで挙兵し、鎌倉で市街戦を展開したものの、一族とともに敗死した。67歳。
伝説によれば、治承4年(1180)富士川の戦いの際、付近の警備を命ぜられた和田義盛は、東泉院付近に本陣をおき、南を流れる川に逆茂木をしかけた。のちに里人は土地の守護神として義盛を祀り、付近一帯を和田、川を和田川と名付けた――。
神社の記録はあまり残されておらず、創祀時期などは判然としない。明治中期の『皇國地誌』を引くと、「義盛神社 雑社 社地東西五間 南北九間 面積一畝七歩 村ノ西ニアリ 祭神及勧請年月不詳 祭日八月十四日」と載っている。やや下って『今泉村誌』では、「無格社 義盛神社 城山一三七九番地 境内三七坪 祭神義盛神 祭礼八月十五日 由緒不詳」となっている。
神域は、住宅が密集した上和田の一角にある。県道24号に所在を示す看板が掲げられ、それに従って隘路をゆくとほどなく住宅の狭間に人が1人歩ける程度の参道がのび、突き当りに神域。隣には「上和田町児童遊び場」が整えられ、地域の憩いの場となっている。
榊と桜の木の下に、鳥居と簡素な覆屋を設けただけのまことに小さな社。祭礼日に参拝したところ、覆屋のなかに神座2基が並んでいた。向って左側が主祭神たる和田義盛をまつり、右側は合祀した大山津見命・建速須佐之男命をまつるようだ。
社殿前に牛タン型の大きな石がある。境内の由緒書きでは触れられていないが、『富士市の神社』を引くと、どうやら「義盛の腰掛石」というらしい。・・・ありがちですな。富士市の伝承関係文献に載らないから詳しいことは分からないが、まぁ、そういうことなのだろう。
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