荻氏の墓所
富士市北松野に荻氏の墳墓と伝えられる墓所がある。大小多数の五輪塔と墓碑、それに宝篋印塔1基がまとめて供養されている。
松野や内房を支配した国人
荻氏は、松野や内房一帯を支配した国人領主。清和源氏の支流で、室町前期、次郎左衛門尉氏誉が3代将軍足利義満から松野郷を与えられて土着。北松野の儘下に館を、城山に北松野城を築き、ここを拠点とした。松野での荻氏は氏誉以降、信誉、一誉、浄誉、慶徳、久誉、清誉、淑誉、君誉、君之、君元(『庵原のあゆみ』)と続いた。
戦国期は駿河守護今川氏に属する国人として、甲斐との国境に近い所領を守った。5代慶徳は大永元年(1521)、今川氏親と武田信虎との戦に今川方として従軍し、甲斐一条原で戦死。永禄11年(1568)、武田信玄が今川氏との同盟を反故にして駿河国を侵した際は清誉が応戦し、討ち死にしている。
やがて武田氏が駿河国を手にすると武田一族の穴山氏に仕え、同氏断絶後は徳川家康に属し、江戸初期、徳川頼房にしたがい水戸へ移住した。
墓所のそばにたつ法王山妙松寺は初代氏誉が建立した寺であり、水戸へ移るまで代々の菩提寺だった。また妙松寺が所蔵している木造愛染明王坐像の胎内札銘によれば、慶徳が永正元年(1504)11月、坐像を内房山祥禅寺(富士宮市内房)で彩色させている。祥禅寺とも繋がりをもっていたのだろう。
荻氏の墓所
参考文献 法王山妙松寺頁と同じ
(フォト最終撮影日:法王山妙松寺頁と同じ)