日蓮門下への弾圧「熱原法難」で殉教した熱原神四郎の屋敷跡に建つ日蓮宗寺院。鎌倉後期、法難殉教者の菩提を弔うために建立され、いまも境内の神四郎廟は香華・香煙が絶えない。
日蓮の高弟日興は、駿河国富士郡を地盤に法華の教線をひろげ、自らが学んだ天台宗実相寺や四十九院の僧たちを多数弟子とした。富士郡下方竜泉寺の日秀や日弁、日禅もかれに教化され、寺に寄住したまま日蓮法華の教えを農民たちに説いた。
この動きに激しく反発した勢力もあった。竜泉寺院主代の行智もそのひとりである。かれは、法華経以外を否定する日秀たちは規律を乱すとして、その住房を収奪し、竜泉寺から追放した。日禅は寺を退出し、日秀と日弁はひそかに寺内にとどまって活動を続けたという。
さらに行智は、日秀らが弘安2年(1279)9月21日、法華信徒の百姓たちを武装させて院主の坊内に打入り、また寺田の作物を勝手に刈り取ってしまった、と幕府に訴えた。この際、信徒農民20人が行智によって捕らえられ、鎌倉に連行された。
日蓮らは無実を主張する申状をもって赦免を求め、幕府は農民たちに「念仏を唱えれば許す」と勧告した。ところが農民たちはこれをかたくなに拒み、かつ題目を唱え続けたため、張本と見なされた神四郎と弥五郎、弥六郎が斬首となり、他の者は禁獄に処された。
竜泉寺
往古は「感應山竜泉寺」と称し、現在の富士市入山瀬、金刀比羅宮が鎮座している辺りに甍を並べていた。熱原法難のころは天台・真言兼学の巨刹だったが、のち日蓮宗に転じ、室町期に駿府(静岡市)へ移転して「常住山感應寺」となった。
滝泉寺金堂跡と伝えられる金刀比羅宮(入山瀬)
本照寺は熱原法難で殉教した熱原神四郎の屋敷跡にたつ。寺は鎌倉後期の正和元年(1312)、法難殉教者の菩提を弔うため岩本山実相寺・日源の弟子教行阿闍梨日信によって建立され、日源から「持栄山本照寺」の寺号が与えられた。日信は富士郡下方・川久保室伏家の出で、神四郎の縁者だったという。
日信に後継はいなかったらしく、かれが貞治元年(1362)に入寂すると本照寺は中絶した。そこから時代は大きくくだり、江戸初期の元和年間(1615~24)に見理院日妙が再興した。のち日妙は谷中感応寺(現天王寺)へ移り、本照寺は日誠が継承。以降、連綿と法燈を継ぎ、現住職は40世になる。(平成24年、法燈継承がなされた)
文献をみると、延享2年(1745)『寺院御改書上扣帳』に「法花宗本寺實相寺末流 駿州冨士郡厚原村 持栄山本照寺」、天明6年(1786)『駿州富士郡岩本實相寺末寺帳』に、「駿州冨士郡厚原村 持栄山本照寺」と載る。ちなみに最近は「熱原山」と号しているらしい。
また江戸後期の地誌『駿河記』などには「持榮山本照寺 日蓮宗 岩本実相寺末 塔頭西之坊」とあり、かつては塔頭があったようだ。
交通量の多い大月線と厚原中通りのあいだに、やや狭い道が通っている。甲州街道(中道往還)と呼ばれる古い往還だ。いまは車の往来も少なめながら、かつては東海道吉原宿と大宮、甲州をむすぶ主要道であった。本照寺はこの往還ぞいに寺域を構えている。
往還から表参道に入ると「遺蹟 本照寺」と刻んだ寺号標があり、山門前の石柱には「熱原神四郎殿邸址とお墓」とある。さらに、朱で塗られた山門を見上げると、素朴な扁額に「加島法難遺蹟」の書(揮毫は身延山79世日慈)。やはり法難一色だ。
山門
廟所は、山門を入った左側にある。冠木門のさきに楚々と整備された一角があり、そこに古びた五輪塔が丁寧に奉られている。昔は弾圧を避けるため、第六天魔王に偽装して祀っていた、という伝承もある。むろん、いまは誰はばかることなく、香華・香煙が絶えない。
熱原廟
墓地を除いた境域はコンパクトで、そこに山門や水屋、鐘楼堂、本堂、庫裏、書院、宝蔵をつめこんでいる。いささか窮屈ながら、手入れされた植栽と石造物(日蓮像や十三重塔など)がいいあんばいに彩りを添え、箱庭のように姿は良い。水屋そばのカヤは市天然記念物。
境内風景